竹 (松型駆逐艦)

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艦歴
発注 1942年戦時建造補充(改マル5)追加計画
起工 1943年10月15日
進水 1944年3月28日
就役 1944年6月16日
除籍 1945年10月25日
その後 1945年12月1日特別輸送艦指定。その後イギリスに賠償艦として引き渡し解体
要目
排水量 基準:1,262t
公試:1,530t
全長 100.00m
全幅 9.35m
吃水 3.30m
主缶 ロ号艦本式缶2基
主機 艦本式タービン2基2軸 19,000hp
速力 27.8kt
航続距離 18ktで3,500
燃料 重油370t
乗員 211名/248名[1]
兵装 40口径12.7cm単装高角砲 1基
40口径12.7cm連装高角砲 1基
25mm連装機銃 4基
25mm単装機銃 12基
61cm4連装九二式魚雷発射管 1基4門(予備魚雷なし)
九四式爆雷投射機 2基、爆雷投下軌条×2、(二式爆雷 36発)

(たけ) は、大日本帝国海軍駆逐艦。戦時量産型駆逐艦である松型(丁型)の2番艦であり、日本海軍の艦名としては2代目である。横須賀海軍工廠で建造。太平洋戦争中である1943年(昭和18年)10月15日起工。1944年(昭和19年)6月16日竣工した。戦時量産型のため「雑木林」と渾名されるなど[2]、性能は比較的低かったが終戦まで生き残り、戦後は復員輸送艦としての任務にあたった。

戦歴

ファイル:Fig of IJN DD Take 1944-1945.gif
竹の艦型図。上は竣工時(1944年6月)、下は終戦時(1945年8月)の竹。終戦時の単装機銃の配置と回天の架台は推定。

レイテ島の戦いまで

竣工後、訓練部隊の第十一水雷戦隊高間完少将海軍兵学校41期)に編入。瀬戸内海で訓練の後、7月12日に門司で物資を搭載、南大東島への輸送作戦に参加する[3]。7月15日付で「」「」「」とともに第四十三駆逐隊(菅間良吉中佐)が編成される[4]。その翌日の7月16日、第十一水雷戦隊旗艦の軽巡洋艦長良」、重巡洋艦摩耶」、練習巡洋艦「鹿島」、駆逐艦「朝雲」「浦風」「冬月」「清霜」とともに、沖縄方面への輸送作戦「ろ号作戦」で中津沖を出撃[5]。7月17日に中城湾に到着後[6]、「冬月」「清霜」とともに南大東島への緊急輸送任務を行う[7]。すべての輸送任務を終えて19日に中城湾を出港し、20日にに帰投した[8]。8月10日、「清霜」とともに柱島泊地を出港し[9]、8月16日にマニラに到着[10]。8月17日からは「清霜」の指揮を受けてパラオ方面への輸送作戦とセブへの引揚者輸送任務に就く[11]。米潜水艦の雷撃により沈没した軽巡洋艦「名取」の救援を命じられ2日間捜索するも発見できず[12]、8月26日夜には、ガルアングル島南西端で座礁中にアメリカ潜水艦バットフィッシュ (USS Batfish, SS-310) の雷撃を受けて船体が切断・座礁した駆逐艦「五月雨」の乗員を収容した[13]。輸送作戦中の8月20日、第四十三駆逐隊は新編された第三十一戦隊江戸兵太郎少将・海兵40期)に編入される[14]。「竹」は燃料補給と「五月雨」乗組員を降ろすためセブ島に立ち寄り、その後パラオに向った[15]

8月30日からは南西方面艦隊三川軍一中将・海兵38期)の指揮下に入り、マニラと各地との間で船団護衛に従事した[16]。10月4日、「竹」はミリ行きのマミ11船団を護衛してマニラを出港したが、翌5日にミンドロ海峡でアメリカ潜水艦コッド (USS Cod, SS-224) の雷撃により「辰城丸」(辰馬汽船、6,886トン)を失った[17]。10月14日にミリに到着して[18]マニラに帰投後、10月20日深夜23時40分には高雄行きのマタ30船団の護衛でマニラを出港した[19]。この船団は指揮艦である駆逐艦「春風」の名前を取って別名「春風船団」と呼称されていた[20]。10月23日夕方、マタ30船団はルソン島ボヘヤドール岬北西沖で元特設水上機母艦君川丸」(川崎汽船、6,863トン)がアメリカ潜水艦ソーフィッシュ (USS Sawfish, SS-276) の雷撃で沈没したのを手始めに、船団加入船12隻のうち9隻が潜水艦の波状攻撃により沈没する惨敗を喫した。「竹」は残存船舶を誘導して損害を食い止め[21]、「春風」はアメリカ潜水艦シャーク (USS Shark, SS-314) を撃沈して一矢報いた[20]。「竹」水雷科の茂呂(水兵長)によれば、「春風」より輸送船曳航の命令があり、救助活動を打ち切って捜索したものの輸送船を発見できず、単艦で高雄へ向ったとしている[22]

多号作戦

第三次・第五次多号作戦

竹は10月20日から始まったレイテ島の戦いに関わる事となり、三度にわたってレイテ島オルモック湾への輸送作戦(多号作戦)に参加することとなった[23]。作戦直前、田中弘国駆逐艦長が肺結核で退艦、11月3日に飯村少佐が臨時艦長として着任する[24]。11月9日未明3時、「竹」は第三次多号作戦で駆逐艦「島風」(第二水雷戦隊旗艦。早川幹夫少将・海兵44期)、「初春」「浜波」「第46号駆潜艇」および「第30号掃海艇」と共に5隻の船団を護衛してマニラを出港した。翌10日14時、「竹」と「初春」は「長波」「朝霜」および「若月」と交代で第四次多号作戦部隊に編入されてマニラに帰投することとなり[25]、11日5時ごろに第四次多号作戦部隊と合同して18時30分にマニラに帰投した[26]。11月13日、米軍機動部隊のマニラ空襲に遭遇、港外に退避して損害はなかった[27]。なお「竹」「初春」が当初参加していた第三次輸送船団は、この日の空襲によって駆逐艦「朝霜」を残して全滅、乗組員の間では「竹」は「強運の艦」としての噂が広まった[28]

「竹」はマニラからブルネイに移動する第一水雷戦隊(木村昌福少将・海兵41期)とともに南沙諸島長島に向かい、長島で南方に進出途上の戦艦伊勢」「日向」などと会合[29]、飯村駆逐艦長が退艦して宇那木少佐が新任駆逐艦長となる[30]。アメリカ潜水艦ヘイク (USS Hake, SS-256) の雷撃で損傷した第三十一戦隊旗艦の軽巡洋艦「五十鈴」と途中ですれ違いつつ[31]、マニラに引き返した[32]

11月24日、竹は第五次多号作戦第二梯団[33]として第6号輸送艦第9号輸送艦および第10号輸送艦と共にマニラを出撃した[34]。翌25日、「米機動部隊が接近中」との情報でマリンドケ島北西部のバラナカン湾に避泊したが[35]、間もなく空襲を受けて第6号輸送艦と第10号輸送艦が沈没し、第9号輸送艦も損傷。「竹」も至近弾と機銃掃射で損傷し戦死者15名・負傷者60名余を出した他[36]ジャイロコンパスが吹き飛ばされて使用不能となった[37]。レイテ島オルモック湾への突入を命じられ、航海長は方位磁針を駆使してオルモック湾に向かえる覚悟があると意見した[37]。しかし、第9号輸送艦より「損害が夥しい」との報告を受け、命令違反を承知で再挙を期してマニラに引き返すこととした[38]。11月26日にマニラに帰投後、宇那木勁艦長(海兵64期)は南西方面艦隊司令部に出頭して詫びを入れた[39]。「竹」は昼夜兼行で応急修理を行って次期作戦に備えたが、ジャイロコンパスは復旧されずじまいだった[40]

第七次多号作戦・クーパー撃沈

テンプレート:Seealso 11月30日、応急修理を終えた「竹」は第七次多号作戦で駆逐艦「」と共に第9号輸送艦、第140号輸送艦第159号輸送艦を護衛してマニラを出撃した[41]。夕刻、酸素魚雷の事故により魚雷1本を投棄、「竹」の残魚雷は3本となった[42]。この頃になると、アメリカ軍は妨害のためにレイテから魚雷艇隊をはるばるオルモック方面に派遣するようになっており、11月28日夜半のオルモック襲撃に成功するなど戦果を挙げていた[43]第7艦隊司令官トーマス・C・キンケイド中将は、続いてオルモック方面に駆逐艦と掃海艇を派遣することとし[43]、これも過去二度の作戦で潜水艦と小型貨物船を破壊する戦果を挙げていた[43]。そして、三度目の作戦[43]としてアレン・M・サムナー (USS Allen M. Sumner, DD-692) 、モール (USS Moale, DD-693) そしてクーパー (USS Cooper, DD-695) がオルモック湾に差し向けられる事となったのである。アレン・M・サムナー、モールおよびクーパーの第120駆逐群(ジョン・C・ザーム大佐)[44]は18時30分にレイテ湾を出撃し[44]、オルモック湾に急行した。出撃して間もなく、セブから飛来してきた戦闘八〇四飛行隊の月光に付きまとわれ、爆撃と機銃掃射によりモールは2名の戦死者と22名の負傷者を出した[45]。また、アレン・M・サムナーおよびモールの船体にも若干の損傷が生じた[44]

12月2日夜、船団はオルモック湾に到着して揚陸を開始。大発が輸送艦と陸上を往復して物資を揚陸させている頃、「竹」には第三次多号作戦で沈没した「島風」の上井宏艦長や機関長上村嵐大尉、第二水雷戦隊の先任参謀などが収容されていた[46]。その後、「竹」は南西方向の、「桑」は南方の哨戒を開始した[46]。「桑」が担当していた南方の海上では第120駆逐群がオルモック湾に入りつつあり、ザーム大佐は日本側の雷撃を警戒して、艦を横に広がらせた横陣の隊形で湾内に入っていった[47]。オルモック湾に入った第120駆逐群は11,000メートル先の目標を狙い、まずクーパーが砲撃を開始した[48]。この時までに「桑」も第120駆逐群を発見し、発光信号で敵艦発見を「竹」に知らせた[49]。最初の交戦はおよそ9分で決着がつき[50]、駆逐艦主砲弾多数を被弾した「桑」は沈没した。第120駆逐群は次の目標を「竹」と定め、モール、アレン・M・サムナー、クーパーの順番で砲撃を開始した[50]。「竹」は12.7cm 高角砲25mm 機銃酸素魚雷で「敵巡洋艦(駆逐艦の誤認)」に反撃を行った[51]。最初の雷撃態勢は、宇那木艦長が砲撃による閃光で目がくらんで発射の機会を逸したが[49]、二度目の機会を得て魚雷2本を発射、四番連管は起動弁の故障で発射できなかった[52]。「竹」の水雷長志賀博大尉(海兵68期)が双眼鏡で第120駆逐群を観測していたが、やがて視界内の左端にいた駆逐艦が大きな火柱を吹き上げるのを目撃した[53]。魚雷はクーパーの右舷に命中し、船体をV字に折られたクーパーは1分以内に沈没した[54]。この後、「竹」は修理が終わった四番連管から魚雷1本を単独発射したが、こちらは命中しなかった[55]。一方、モールは「竹」の前部機械室に命中弾を与えた[53]。不発だったが浸水のため片舷1軸運転となり[56]、「竹」は最大で左舷に30度も傾いた[53]。しかし、「竹」もモールに高角砲弾を複数発命中させた[53]。やがて第120駆逐群が南方へ去っていった事により、これ以上の戦闘は行われなかった。

やがて第9号輸送艦から揚陸完了の報告を受け、缶に使用する真水の在庫が底を尽こうとしていた「竹」は30度傾いた状態のまま、第9号輸送艦から真水の供給を受けた[57]。続いて第140号輸送艦および第159号輸送艦からも揚陸完了の報告を受けた「竹」は、第140号輸送艦および第159号輸送艦を先発させた後、オルモックの陸上部隊に「桑」の生存者救助を要請した後、12月3日3時に第9号輸送艦を率いてオルモック湾を出発[58]。「桑」の生存者救助は、「竹」が中破して片舷航行の上、サーチライトを使わずに作業する事の難しさや、日が昇ってからの空襲を避けることを考慮して断念された[59]。途中で傾斜を回復させた「竹」は、12月4日午後にマニラに帰投した[60]。宇那木艦長は南西方面艦隊司令長官大川内傳七中将(海兵37期)から賞詞を受け、さらに差し向かいで夕食を馳走になった[61]。宇那木艦長は後に、クーパー撃沈の戦いを「オルモック夜戦」と呼ぶ事を提唱した[61]。また、宇那木艦長が、収容した便乗者の中に「島風」や第二水雷戦隊の関係者の名前があることを知ったのは、1968年(昭和43年)のことだった[46]。なお、クーパー撃沈は日本駆逐艦が雷撃によって敵艦を撃沈した最後となった。12月5日から14日まで応急修理を行ったが[62]、機関が修復できなかったために船速が上がらず、このことから作戦への再投入を免れて佐世保での回航修理が命ぜられた[63]

終戦まで

「竹」は本格的な修理を受けるため12月15日にマニラを出港[64]。この時猛烈な台風に遭遇、付近ではウィリアム・ハルゼー提督率いる第3艦隊 (アメリカ軍)が嵐に翻弄され、駆逐艦3隻が転覆するなど大損害を受けている[65]。12月18日に高雄に寄港し、次いで12月21日に基隆に寄港[66]。同日夜、「竹」は同地からの「辰春丸」(辰馬汽船、6,344トン)他2隻の輸送船団を護衛して基隆を出港[67]中国大陸沿岸部や朝鮮半島南岸部の島々の間を縫って北上し、1945年(昭和20年)1月1日に門司港外に到着した[68]。翌2日、「竹」は呉海軍工廠に回航され、当初の予定では1月末から2月初頭[69]、次いで2月16日に修理完了となって10日程度で出撃準備が整う事になっていたが[70]、予定は延びて3月15日まで修理を行った[71]。4月16日から26日にかけての工事では、三式探信儀などが装備された[72]。その間、2月28日から3月18日まで臨時に第三十一戦隊の旗艦を務めた[73]。3月19日の呉軍港空襲では10名余の負傷者を出した[74]

4月29日から「」とともに回天との訓練に参加した後[75][76]、「竹」は後甲板に回天の発射台を設置する工事を行った[77]。しかし、戦況悪化によって温存策が取られる事となり、「竹」は「」「」とともに屋代島日見海岸に偽装係留し、最後の出撃の時まで待機することとなった[75]。樹木と網で偽装した「竹」はついに攻撃される事なく[78]、8月15日の終戦時には航行可能な状態で残存した。「竹」は僚艦とともに呉に回航されてアメリカ海軍に接収された後[79]、10月25日に除籍された。

戦後

戦後の「竹」は、行動可能な他の艦船と同様に復員輸送艦として復員輸送に従事し、第1回から第4回の輸送ではポンペイ島浦賀間を二度往復し[80]、次いでパラオと浦賀間を一往復[80]サイパン島から同島在住の沖縄県民を沖縄本島まで輸送した[81]。第5回輸送からは上海および葫芦島と日本の間を往復し、中国大陸および旧満州国方面からの復員輸送に従事した[82]。葫芦島からの輸送の際、艦内にコレラ患者が出て病死する引揚者が出たため、防疫のため1ヵ月間隔離された事もあった[83]。復員輸送を終えた後、「竹」は横須賀に戻り[84]1947年(昭和22年)7月16日にイギリスに賠償艦として引き渡され解体された。


歴代艦長

艤装員長

  1. 田中弘国 少佐:1944年4月15日 -

艦長

  1. 田中弘国 少佐:1944年6月16日 -
  2. 宇那木勁 少佐:1944年11月1日 -

脚注

テンプレート:Reflist

参考文献

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  • 駆逐艦五月雨『昭和十九年九月十日 戦闘詳報 (坐礁被雷報告)』『戦闘詳報』(昭和19年6月1日~昭和20年1月24日 第27駆逐隊戦時日誌戦闘詳報(5)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030148600
  • 木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年
  • 木俣滋郎『敵潜水艦攻撃』朝日ソノラマ、1989年、ISBN 4-257-17218-5
  • 駒宮真七郎『続・船舶砲兵 救いなき戦時輸送船の悲録』出版協同社、1981年
  • 駒宮真七郎『戦時輸送船団史』出版協同社、1987年、ISBN 4-87970-047-9
  • 珊瑚会編『ああ復員船 引揚げの哀歓と掃海の秘録』騒人社、1991年
  • 第十一水雷戦隊司令部『自昭和十九年七月一日至昭和十九年七月三十一日 第十一水雷戦隊戦時日誌』(昭和19年6月1日~昭和20年6月30日 第11水雷戦隊戦時日誌(2)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030127500
  • 第十一水雷戦隊司令部『ろ号作戦輸送部隊任務報告 門司-中城湾宮古島南大東島間作戦輸送 自昭和十九年七月十四日 至昭和十九年七月二十日』(昭和19年4月1日~昭和19年8月31日 第1水雷戦隊戦時日誌(5)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030086800
  • 第十一水雷戦隊司令部『自昭和十九年八月一日至昭和十九年八月三十一日 第十一水雷戦隊戦時日誌』(昭和19年6月1日~昭和20年6月30日 第11水雷戦隊戦時日誌(3)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030127600
  • 第一海上護衛隊司令部『自昭和十九年十月一日至昭和十九年十月三十一日 第一海上護衛隊戦時日誌』(昭和19年8月1日~昭和19年11月30日 第1海上護衛隊戦時日誌(3)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030141600
  • 第一水雷戦隊司令部『多号作戦戦闘詳報第二号(自昭和十九年十一月八日至昭和十九年十一月十一日第四次輸送作戦)』(昭和19年9月1日~昭和19年11月11日 第1水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(5)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030087600
  • 第十一水雷戦隊司令部『自昭和二十年四月一日至昭和二十年四月三十日 第十一水雷戦隊戦時日誌』(昭和19年6月1日~昭和20年6月30日 第11水雷戦隊戦時日誌(7)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030128000
  • 第三十一戦隊司令部『自昭和十九年十二月二十二日至昭和二十年一月三十一日 第三十一戦隊戦時日誌』(昭和19年12月22日~昭和20年4月30日 第31戦隊戦時日誌(1)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030074800
  • 第三十一戦隊司令部『自昭和二十年二月一日至昭和二十年三月三十一日 第三十一戦隊戦時日誌』『自昭和二十年四月一日至昭和二十年四月三十日 第三十一戦隊戦時日誌』(昭和19年12月22日~昭和20年4月30日 第31戦隊戦時日誌(2)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030074900
  • 田村俊夫「「竹」の兵装増備状況」『歴史群像 太平洋戦史シリーズ43 松型駆逐艦』学習研究社
  • 野村留吉『第四航空戦隊 戦時日誌抜粋』(昭和19年5月1日~昭和20年3月1日 第4航空戦隊戦時日誌抜粋 (旗艦日向行動等)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030742100
  • 渡辺洋二『夜間戦闘機「月光」』朝日ソノラマ新装版戦記文庫、1993年、ISBN 4-257-17278-9
  • テンプレート:Cite book 「竹」水雷科連管手。


テンプレート:松型駆逐艦

テンプレート:Good article
  1. 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127600, 7頁
  2. #南海の死闘71頁
  3. #南海の死闘86頁
  4. #南海の死闘87頁、『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127500, 31頁
  5. 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127500, 37頁
  6. 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127500, 38頁
  7. 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127500, 39頁
  8. 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127500, 39、45頁
  9. #南海の死闘88頁、『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127600, 16、20頁
  10. 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127600, 25頁
  11. #南海の死闘87頁、『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127600, 26頁
  12. #南海の死闘88頁
  13. #南海の死闘88-89頁、『戦闘詳報』、25、43頁
  14. 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127600, 27頁
  15. #南海の死闘89頁
  16. 雨倉、95頁
  17. 『第一海上護衛隊戦時日誌』、67頁、駒宮『戦時輸送船団史』、273頁
  18. 『第一海上護衛隊戦時日誌』、67頁
  19. 『第一海上護衛隊戦時日誌』、60頁;駒宮『戦時輸送船団史』、279頁
  20. 20.0 20.1 木俣『敵潜水艦攻撃』、130頁
  21. 木俣『日本水雷戦史』、581頁
  22. #南海の死闘98-100頁
  23. #南海の死闘101頁
  24. #南海の死闘104頁
  25. 『多号作戦戦闘詳報第二号』、38頁
  26. #南海の死闘108頁、『多号作戦戦闘詳報第二号』、16、17頁
  27. #南海の死闘109頁
  28. #南海の死闘110-111頁
  29. 野村、10頁;宇那木、6頁
  30. #南海の死闘112頁
  31. 宇那木、6頁;木俣『日本水雷戦史』、586頁
  32. 宇那木、6頁
  33. 第一梯団は二等輸送艦3隻で編成
  34. #南海の死闘115頁
  35. #南海の死闘116頁、宇那木、8頁
  36. #南海の死闘125頁
  37. 37.0 37.1 宇那木、10頁
  38. #南海の死闘頁126-127頁、宇那木、11頁
  39. 宇那木、12、13頁
  40. 宇那木、13頁
  41. #南海の死闘131頁
  42. #南海の死闘134-135頁
  43. 43.0 43.1 43.2 43.3 ニミッツ、ポッター、401頁
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  45. 木俣『日本水雷戦史』、565、566頁;ニミッツ、ポッター、401頁;渡辺、319頁、#南海の死闘152頁
  46. 46.0 46.1 46.2 宇那木、16頁
  47. 木俣『日本水雷戦史』、566頁、#南海の死闘161頁
  48. 木俣『日本水雷戦史』、566頁
  49. 49.0 49.1 宇那木、17頁
  50. 50.0 50.1 木俣『日本水雷戦史』、567頁
  51. #南海の死闘138頁
  52. #南海の死闘140-141頁
  53. 53.0 53.1 53.2 53.3 雨倉、99頁
  54. #南海の死闘152頁
  55. #南海の死闘143頁
  56. #南海の死闘145-146頁
  57. 宇那木、19頁、#南海の死闘147頁
  58. 宇那木、21頁
  59. 宇那木、20-21頁、#南海の死闘147-148頁
  60. 宇那木、22頁、#南海の死闘149頁
  61. 61.0 61.1 宇那木、23頁
  62. 田村、133頁
  63. #南海の死闘167頁
  64. 宇那木、25頁
  65. #南海の死闘172頁
  66. 宇那木、26-27頁、#南海の死闘174-175頁
  67. 宇那木、29頁
  68. 宇那木、29、31頁
  69. 『第三十一戦隊戦時日誌』C08030074800, 38-39頁
  70. 『第三十一戦隊戦時日誌』C08030074900, 19頁
  71. 田村、134頁。ただし、『第三十一戦隊戦時日誌』C08030074900, 6-9、53-56頁 では3月15日の時点で修理は終わらず、4月28日まで継続されている書き方となっており、『第三十一戦隊戦時日誌』C08030074900, 65頁 にも「修理ヲ続行中」とある
  72. 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030128000, 17-18頁
  73. 『第三十一戦隊戦時日誌』C08030074900, 23、29、41、44頁
  74. #南海の死闘185頁
  75. 75.0 75.1 宇那木、35頁
  76. 『第三十一戦隊戦時日誌』C08030074900, 84頁
  77. #南海の死闘188頁。田村、134頁。136頁では、その期間を5月から6月25日までの間と推定している
  78. 宇那木、36-37頁、#南海の死闘194-195頁
  79. 宇那木、40頁
  80. 80.0 80.1 宇那木、42頁
  81. 宇那木、42-43頁
  82. 宇那木、43頁
  83. 宇那木、44-45頁
  84. 宇那木、46頁