砺波平野
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砺波平野(となみへいや)は、富山県西部の沖積平野。富山平野の南西部の呼称である。富山平野のうち旧礪波郡にあたる平野部を指す。
地理
南に飛騨高地を控え、小矢部川及び庄川の扇状地が発達している。散居村で有名である。なぜ各家が離れているのかについては諸説ある。「荒れ野の所々に小屋を掛け、用水を引き、開作」と記した古文書が残っている。開作とは開墾、開拓のことで加賀藩では改作とも書かれる。戦国時代末期から、江戸時代中期にかけて砺波平野の水田開拓が進んだのは、加賀藩の様々な奨励策が奏効したと考えられている。中でも「開墾した田畑は藩主に属すが、開墾した百姓にはその田畑を自前で耕作することを許された」ことが住居が散在した大きい要因と考えられている。散居村の農家は「カイニョ」と称する屋敷林を備える。漢字でかくと垣饒(かきにょう)がなまったもので、垣のように饒(めぐ)らせた樹木である。これにはいくつかの目的がある。
- 風雨から家屋を守るため。
- 外から屋敷内が見えないようにする目隠しのため。
- 焚き木を自前で調達するため。
- 冬暖かく、夏涼しく生活するため。
- 家の建て替えや造作・工芸の際の用材とするため。
以上の理由がある。杉を中心に、ケヤキ・竹・松などを配し、実のなる栗・柿・イチョウなども欠かせない。
昭和天皇による和歌
- 「はてもなき砺波のひろの杉むらにとりかこまるる家々の見ゆ」
これは、1970年(昭和45年)富山県植樹祭に臨席の際、カイニョに囲まれた砺波平野の家々に感動し歌ったものである。