燕雲十六州
燕雲十六州(えんうんじゅうろくしゅう)は、10世紀に遼が後晋から割譲されて支配した16の州のこと。具体的には、朔州・寰州・応州・雲州・蔚州・新州・武州・儒州・媯州・檀州・順州・幽州・薊州・涿州・瀛州・莫州の計16州を指す。
燕は燕京(幽州、現在の北京)を中心とする河北北部、雲は雲州(現在の大同)を中心とする山西北部のことで、燕雲とはこの2州を中心として万里の長城周辺に位置する漢人の定住農耕地帯にあたる。燕雲十六州の名が使われ始めたのは北宋徽宗の時代からである。
歴史
936年に、後唐を滅ぼして後晋を立てた石敬瑭が、このときに遼(当時の国号は契丹)から受けた援助の見返りとして割譲した。遼は、この地域の統治を中華王朝と同様の制度でもって行い、従来から支配してきた遊牧民の社会とは別の制度で統治した。従来も遊牧民系統の支配者層が中華世界を統治する王朝を打ち立てたことは数多くあった。しかし、北アジア遊牧社会固有の統治制度を取る王朝が、遊牧民による遊牧経済が営まれる北方の版図と遊牧国家の統治制度を維持しつつ、片や都市と定住農耕経済からなる中華世界を中華王朝の制度を維持したまま支配する形態は、遼の燕雲十六州獲得に始まる。このような形態の王朝は征服王朝と呼ばれることもあり、対してそれ以前の遊牧民系統の支配者層を戴く王朝は浸透王朝や胡族国家と呼ばれる。
蛮族とみなされていた北方遊牧国家に対して領土を割譲することは、政権の正統性を中華王朝であることに求める五代の沙陀軍閥系の王朝や宋朝にとって屈辱とされた。それ以上にこの地域は軍事上の要地であり、この地域を割譲したことにより、以降200年近く華北の北方防御はきわめて困難となった。遼や金が万里の長城を越えられたのも、この地を支配していたからである。また、当時のこの地域は良質の鉄鉱石と石炭の両方を産出したため、経済的価値も小さくなかった。そのため、その後の華北の諸王朝は何度かこの地域の奪回を試みた。
その一方で、遼の支配層である契丹人は、遊牧国家の制度を維持しつつ中華世界を統治する能力を鍛える場を得ることとなった。遼を滅ぼして取って代わった女真人の金は、遊牧国家ではないものの、契丹王族を政権内に抱え込むことでやはり中華世界を統治する経験を引き継ぎ、やがては北宋を滅ぼして華北一帯を併呑した帝国を建設することに成功する。遼、金の両朝に蓄積された統治技術は、次代に勃興するモンゴル帝国に引き継がれ、遊牧世界と農耕地帯を安定して包摂する大帝国の建設に結実する。
後周の世宗は燕雲十六州奪還を目指し、遼と戦って南部の3州を占領したが、途上で早世したため完全奪還は果たせなかった。後周から禅譲を受けて成立した北宋も燕雲十六州の奪還を宿願として遼と戦ったが、かえって当初の16州とは別の1州を失った。結局、1004年に北宋の真宗と遼の聖宗は澶淵の盟を結び、国境を現況で確定した。
以降、遼と北宋の間では100年以上平和が保たれたが、遼の北東で女真人が金を建国すると、北宋は金と結んで遼を挟撃することを考え、遼を共同攻撃するとともに宋から遼に送られていた歳幣を今後は金に送ることを約束する、海上の盟と称される盟約を結び、1122年、雲州(遼の西京大同府、現在の大同)を攻撃した。金は宋との盟約に従って同時に燕京(遼の南京析津府、現在の北京)を攻撃し、これを占領するが、宋軍は雲州を奪えずにいたために、さらに雲州に向かって宋軍に代わってこれを占領した。宋は金から燕雲十六州の一部を引き渡され、200年ぶりに回復に成功するが、このとき金に対して十分な歳幣を送らなかったことから宋と金の関係は悪化し、1126年に至って金軍は南下して宋の首都開封を占領、北宋を滅ぼして中国の北半を占領することになる(靖康の変)。
金の統治下では、燕雲十六州の漢民族は漢人もしくは北人と呼ばれ、靖康の変後に金の版土に加えられた北宋領の漢民族(南人)と区別された[1]。1151年になって燕京(金の中都大興府、現在の北京)に遷都するが、1215年にモンゴル帝国によって奪われ、燕京十六州もモンゴルの支配下に入った。
中国全土と燕雲十六州が最終的にひとつの王朝のもとで統一されたのは13世紀、やはり漢民族ではないモンゴル人の立てた元の時代であった。
燕雲十六州が再び漢民族の手に戻ったのは、1368年、徐達と常遇春が率いる明軍が大都を攻略し、元を滅ぼす時であった。
脚注
- ↑ 飯山知保『金元時代の華北社会と科挙制度』早稲田大学出版部、2011年、P48