清水キョウイチ郎

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清水 キョウイチ郎(しみず きょういちろう、本名:清水 共一(しみず きょういち)、1965年3月6日 - 2006年11月4日)は奈良県出身の吉本興業に所属していたお笑い芸人。元「ぴのっきを」のボケ担当。

ピン芸人時代の旧芸名は、清水家 共一(しみずや きょういち)、清水 共一郎(現芸名と読み同じ)。師匠はいかりや長介山根伸介とされているが、詳細不明。

高校卒業後から吉本に入るまで鼻の下にひげを生やしていた。

芸歴

奈良芸術短期大学インテリ学科卒業後、1987年頃から東京へ上京し役者を目指す。いかりや長介に入門するが、後に破門され大阪へ戻る。1988年3月うめだ花月の舞台進行役になり、フレッシュコーナーにおいてトップで合格。同年6月に新井正浩(タコ)と漫才コンビ「ぴのっきを」を結成、心斎橋筋2丁目劇場うめだ花月などで活躍。だが、2000年に新井が実家の家業を継ぐために芸人を廃業し、コンビを解散。その後新喜劇に入団するが、処遇に困った吉本興業本社が新喜劇に入団させたという説もある。「ぴのっきを」(1995年から「ぴのっきお」、2000年から「きょーちゃん蛸ちゃん」)時代、本名を芸名として活動していたが、新喜劇入団後は短期間で改名を繰り返し、現在の芸名に落ち着いていた。

ごきげん!ブランニュ』(ABCテレビ)ではパラ軍団の一員として活動し、三食すべてをそうめんで過ごす、賞品の金券を換金するなどその貧乏生活ぶりが暴露されている。同番組で鯖街道福井県小浜市から京都市出町柳までの約80km)を細い体に似合わず踏破した。尚、この番組では他に、月亭八光藤井輝雄しましまんず)、タンクシンクタンク)、今別府直之中立豊岡友美青空)が鯖街道に挑戦したが(八光、藤井、タンクは2回)、完走したのは最年長の清水のみ。スタッフが止めたにもかかわらず最後まで歩き続けた。

2006年2月4日放映分のよしもと新喜劇『帰ってきた若頭』に、医者役で出演。体調の優れない井上竜夫を診察するシーンで登場する。その際小道具のペンライトを忘れて舞台に出たため、その後の芝居がかみ合わなくなり、セリフもしどろもどろで、看護婦役である仙堂花歩にフォローされる。また、セリフで「薬は朝、昼、晩の2回で飲んでください。」とボケるはずだったのが、「薬は…絶対3回に。」とマトモなことを言ってしまい、すかさず看護師役の仙堂花歩に「違いますよ、先生。薬は朝、昼、晩の2回で飲んでください。」と再度フォローされた。

同年11月4日、肺血栓のため大阪市内の自宅で死去。41歳だった。11月7日に新喜劇出演が控えていたが、4日になっても台本を取りに来ないため、不審に思ったマネージャーが翌5日清水の自宅を訪れたが、既に亡くなった状態で発見された。亡くなる4日前(10月31日)に、うめだ花月の舞台(ケツカッチン高山トモヒロのイベントにゲスト出演したもの)に特に問題なく立っており、この突然の訃報は吉本の芸人仲間に大きな衝撃を与えた。

11月8日大阪市阿倍野区斎場で行われた葬儀告別式は、吉本の大先輩で落語家桂文珍や長年の芸人仲間だったメッセンジャー黒田、高山トモヒロら芸能関係者やファンら約350人が弔問に訪れた。弔辞は黒田と高山が読み上げた。黒田は「待ち合わせに遅れて来るのに、なんで俺たちより早く逝くねん」と、高山は「みんな清水さんのこと大好きです。ほんまありがとう」と、それぞれ悲しみをこらえて弔辞を読んだ。

ヨシモトファンダンゴTV』、『ごきげん!ブランニュ』及び『やりすぎコージー』で緊急追悼番組(特集)が組まれた。やりすぎコージーの追悼スペシャルでは、メッセンジャー黒田が「全然いい人じゃなかったけど、面白い人やったんですよ」と評し、あいはらは「パラ軍団永久会員です」とコメントし、普通ではありえないほど笑いに包まれた追悼番組となっていた。

ギャグ・イジリ

特徴的な後頭部をよく内場勝則などにいじられていた。「部活動は?」、(清水)「後頭部や!」、「すいません、尖ってるのが不思議だったから」、「サル顔」、「叩きやすい頭」など。「ウマズラビーム!」

ぴのっきを」時代のネタをそのまま流用。歌でボケる。歌においてトーンが下がるところでワザと上げて、下がらな~、とつっこまれると、過度に下がり叩かれる。早い動きで西城秀樹ピンクレディーの振り付けを行うネタ(コロッケの野口五郎より激しいものだった)。こんにちは赤ちゃんのメロディーにのせて手品の真似をする(ハンカチをひらひらと動かすだけなので、手品とは言いがたい)。東野幸治曰く、「最低」の芸だった。

受賞歴

全て「ぴのっきを」として

出演番組

コンビ時代
ピン時代

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