清原元輔
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清原 元輔(きよはら の もとすけ、延喜8年(908年)- 永祚2年(990年)6月)は平安時代の歌人・官人。内蔵允・清原深養父の孫で[1]、下総守・清原春光の子[1][2]。娘に清少納言がいる。三十六歌仙の一人。官位は従五位上肥後守。
経歴
天暦5年(951年)河内権少掾に任ぜられ、のちに少監物・中監物・大蔵少丞・民部少丞・同大丞などを歴任する。安和2年(969年)従五位下・河内権守となった後、天延2年(974年)周防守に鋳銭長官を兼ねる。天元3年(980年)従五位上、寛和2年(986年)肥後守と主に地方官を歴任。永祚2年(990年)任地にて没。熊本市の清原神社(北岡神社飛地境内)に、祭神として祀られている。
『今昔物語集』28巻や『宇治拾遺物語』13巻には、元輔が賀茂祭の奉幣使を務めた際に落馬し、禿頭であったため冠が滑り落ちたさまを見物人が笑うと、元輔は脱げ落ちた冠をかぶろうともせずに、物見車の一台一台に長々と弁解し、理屈を述べて歩いた。その様子を見て、見物人はさらに面白がったという話がある。清原元輔のひょうきんな一面をうかがうことができる。
歌人としての評価
梨壺の五人のひとりとして、『万葉集』の訓読や『後撰和歌集』の編纂に当たった。『拾遺和歌集』以下の勅撰和歌集に約100首が入集。深養父・元輔・清少納言はともに小倉百人一首に和歌が採られている。家集に『元輔集』がある。
元輔が歌人として高名だったことは『枕草子』に見え、女房勤めした折に清少納言が「父の名を辱めたくないので歌は詠まない」といって許されたという逸話がある。
- 小倉百人一首 42番
ちぎりきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 浪こさじとは
官歴
- 951年(天暦5年)、河内権少掾(従七位上相当)に任官。
- 961年(応和元年)、少監物(正七位下相当)に任官。
- 962年(応和2年)、中監物(従六位上相当)に任官。
- 966年(康保3年)、大蔵少丞(従六位上相当)に任官。
- 967年(康保4年)、民部少丞(従六位上相当)に任官。
- 967年(康保4年)、民部大丞(正六位下相当)に任官。
- 969年(安和2年)、従五位下に昇叙し河内守に任官。
- 974年(天延2年)、周防守に任官し鋳銭長官を兼任。
- 980年(天元3年)、薬師寺造営の功績により従五位上に昇叙。
- 986年(寛和2年)、肥後守に任官。
- 990年(永祚2年)、任地にて没す。