永世中立国
永世中立国(えいせいちゅうりつこく、テンプレート:Lang-en-short)とは、将来もし他国間で戦争が起こってもその戦争の圏外に立つことを意味するものであり、自国は中立の立場である事を宣言し、他国がその中立を保障・承認している、永世中立(テンプレート:Lang-fr)の立場を取る国家テンプレート:Sfn。永世中立の立場を取るのは実効性を持つ政府でも可能であり、厳密には国家に限られない。
目次
永世中立の条件
永世中立は伝統的中立とともに古い歴史を持つ概念であり、かなり古くから国際法に存在していたテンプレート:Sfn。そのため、以下の条件を満たす必要があると考えられているテンプレート:Sfn。
- 複数の国家の同意による「中立化」が必要であるテンプレート:Sfn。このためアミアンの和約の際にイギリスが提案したマルタの永世中立化は、関係諸国の承諾が得られず、実現しなかった事例があるテンプレート:Sfn。
- 中立化に参加した諸国は、永世中立国の独立と領土保全を常時保障する義務があるテンプレート:Sfn。
- 永世中立国はその中立である領土を他国の侵害から守る義務があるテンプレート:Sfn。そのため常設的な武装が求められるテンプレート:Sfnテンプレート:Sfn。
- 永世中立国は、自衛の他は戦争をする権利を持たないテンプレート:Sfnテンプレート:Sfn。
- 永世中立国は、他国が戦争状態にある時には伝統的中立を守る義務があるテンプレート:Sfn。
- 永世中立国は、平時においても戦争に巻き込まれないような外交を行う義務がある。従って、軍事同盟や軍事援助条約、安全保障条約の締結を行わず、他国に対して基地を提供してはならないテンプレート:Sfnテンプレート:Sfn。戦時においては外国軍隊の国内の通過、領空の飛行、船舶の寄港も認めないが、これは中立国一般の義務でもあるテンプレート:Sfn。
- 永世中立国は非軍事的な国際条約、国際組織には参加でき、思想的中立を守る義務、出版・言論の自由を制限する義務は持たないテンプレート:Sfn。
- 永世中立国は原則的に保障国の許諾無しに領域の割譲・併合などの変更を行わない。ベルギーによるコンゴ自由国の併合のように、保障国の許諾が得られる事例もあるテンプレート:Sfn。
軍事的な同盟国が無いため、他国からの軍事的脅威に遭えば、自国のみで解決することを意味する。すなわち、『どのような戦争に対しても「かならず/固定的に」中立の立場をとる国』という意味である。日本語訳の「永世」のような『永遠に』『これから先もずっと』という意味合いは持っていない。よって、状況によっては「永世中立」を放棄することも可能であり、実際に放棄された事例もある。このため、スイスのように強力な防衛政策をとる国もある(武装中立)。いわゆる平和主義や非暴力非武装とは全く概念が異なる。
中立の定義
永世中立国には他国の紛争に荷担する行為など、戦争に巻き込まれる恐れのある行為を慎むことも求められるテンプレート:Sfn。スイスは中立国であったために、他国からの政治的亡命者がスイスにおいて活動することもあった。ルイ・ナポレオン(後のナポレオン3世)が亡命した際にはフランス政府が軍事な威嚇を行い、ルイ・ナポレオンが自発的退去を行ったこともあるテンプレート:Sfn。 また国家に対する経済制裁に参加することも中立違反となる。しかしローデシア問題のように、国家承認が得られていない独立を主張する政権に対する経済制裁は、中立違反とは見られていないテンプレート:Sfn。また永世中立国が他国の戦時債権を買うことは中立義務違反となる。
このような見解に伴い、第二次エチオピア戦争の際に国際連盟がイタリア王国に対する経済制裁を議決した際、スイスは加盟国であるにもかかわらず、伝統的中立政策に回帰して経済制裁を行わなかったという事例もあるテンプレート:Sfn。このためスイスは1945年の国際連合発足に当たっては、中立義務の遂行と国連加盟が両立しないとして国際連合には加盟しなかったテンプレート:Sfn。ただし国連機関の設置や、国連組織への参加は認めているテンプレート:Sfn。一方でオーストリアは1955年に加盟が行われたが、その際にオーストリアの永世中立を問題にした国は存在せず、中立義務を守ることが可能であるという見解がとられていたテンプレート:Sfn。
国連における平和維持活動への兵力派遣は、中立義務違反とは見なされないテンプレート:Sfn。オーストリアは1965年の憲法改正以降、コンゴ動乱や国際連合キプロス平和維持軍に軍を派遣しているテンプレート:Sfn。
一方でオーストリアとスイスが欧州共同体に参加することは、中立義務違反であるとしてソビエト連邦など東側諸国から反対されていたテンプレート:Sfn。冷戦終結後、オーストリアは同様に強い中立政策をとるスウェーデンなどとともに欧州連合に参加している。
また永世中立は国民の立場をも統制するものではない。中立国の国民が戦時債権を買うことは中立義務違反ではないテンプレート:Sfn。また国民が戦争の義勇兵となることも自由であり、永世中立国はこれを抑止する義務を持たないテンプレート:Sfn。
保障国の立場
永世中立国は中立条約締結国によって中立の法的地位を保障されるのを原則としている。ゆえに中立保障国は永世中立国の独立と領土の保全を尊重し、その独立が第三国によって侵犯されたならば、武力をもってこれを排除する義務を負う。このため1955年のオーストリアの永世中立国化によって、オーストリアはスイスの保障国から離脱したという事例もあるテンプレート:Sfn。一方でオーストリアの永世中立化に当たっては条約を交わすという形式を取らず、交換公文によって行われたが、これらの国はオーストリアの中立を尊重するとしたものの、保障は行わなかったテンプレート:Sfn。中立を保障したのはオーストリアとソ連の間で交わされたモスクワ覚書によるものであるテンプレート:Sfn。
また、保障国は中立国の憲法改正など、内政に干渉する権利は持たないテンプレート:Sfn。しかしクラクフ共和国が大量の亡命者によって政府転覆された(クラクフ蜂起)際には、亡命者の受け入れを禁じた事前協定に反するとして保障三国(プロイセン、オーストリア、ロシア)による軍事占領が行われた事例もあるテンプレート:Sfn。
永世中立国一覧
- テンプレート:SUI - 1815年 ウィーン会議にて承認
- テンプレート:Flagicon オーストリア - 1955年に宣言、主要国との交換公文により成立テンプレート:Sfn。
- テンプレート:Flagicon ラオス -ジュネーブ14カ国会議において中立化が決議され、1963年、ラオス王国政府が宣言テンプレート:Sfnテンプレート:Sfn。ただしアメリカ軍が駐屯しており、1975年までラオス内戦が続いている。またタイとの国境紛争が頻発している。
- テンプレート:Flagicon トルクメニスタン - 1995年 国連総会にて承認(2006年まで終身大統領サパルムラト・ニヤゾフによる独裁が続いていた)
以下の国は永世中立を宣言しているものの、それを保障・承認する国が皆無またはほとんどない。いわば自称の永世中立国である。
- テンプレート:CAM - 1992年憲法により
- テンプレート:CRC - 1983年、ルイス・アルベルト・モンヘ大統領が『コスタリカの永世的、積極的、非武装的中立に関する大統領宣言』において表明。ただし、コスタリカは依然として加盟国間の集団安全保障を規定した米州相互援助条約に加盟しており、またアフガニスタン紛争やイラク戦争においてもアメリカに協力するなど、ほとんどの研究者はこの中立は意味を持っていないと指摘している[1]。
- テンプレート:Flagicon モルドバ - 1994年憲法により
- テンプレート:Flagicon リヒテンシュタイン - 1867年から
かつての永世中立国
列強が独立を承認したベルギーとルクセンブルクはテンプレート:仮リンクにより、永世中立が定められたテンプレート:Sfnテンプレート:Sfn。しかし両国とも第一次世界大戦でドイツ帝国の侵攻を受けた。ベルギーは国土の大半を占領されながらも抵抗し、非武装であったルクセンブルクは全土が占領されたテンプレート:Sfn。この後1920年に発効したヴェルサイユ条約で永世中立義務は解除された。ベルギーはその後連合国の一員としてロカルノ条約等に参加したが、ロカルノ体制崩壊後は中立に回帰したテンプレート:Sfn。ルクセンブルクは国際連盟によってロンドン条約は有効であるため永世中立国であると再認定されテンプレート:Sfn、非武装中立政策を継続していたが、両国とも1940年にナチス・ドイツの侵攻を受け、国土は占領されたテンプレート:Sfn。ベルギーは戦後に中立政策を放棄しているテンプレート:Sfn。ルクセンブルクは1948年のNATO加盟と憲法改正により事実上中立政策を放棄した。ただし憲法上では中立政策をとると規定しているテンプレート:Sfn。
その他の永世中立国
- クラクフ共和国テンプレート:Sfn - クラクフ蜂起の後、保障国の一つであったオーストリア帝国によって事実上併合された(クラクフ大公国)。
- トリエステ自由地域テンプレート:Sfn
- コンゴ自由国(1885年 - 1908年)[2] - ベルギー王レオポルド2世の私領であり、1908年にベルギー本国の植民地となった。
- ホンジュラス(1907年 - 終了時期不明 )[2] - 隣国ニカラグアによる侵攻を受けた後、中米司法裁判所がホンジュラスの永世中立化を裁定。しかし1911年に暴動が発生し、アメリカ軍が介入している。1918年には第一次世界大戦に参戦している。
日本における永世中立国化議論
戦後日本においては、日本国憲法第九条に戦争放棄の規定がもうけられたこともあり、日本が中立国となるべきであるという主張をとる者も多く現れたテンプレート:Sfn。たとえば1949年3月のダグラス・マッカーサーが「日本は極東のスイスたるべき」と発言したという報道やテンプレート:Sfn、同年3月3日・4月9日の読売新聞社説などに見られるテンプレート:Sfn。ところが中国の共産化と朝鮮戦争の勃発により、保守層・右派にとって永世中立化は非現実・幻想的なものととられることになった。しかし革新・左派による中立化、永世中立化の主張はより強くなっているテンプレート:Sfn。これらの意見をとる者の中には永世中立と軍備放棄が両立が可能であると主張する意見もある[3]。
サンフランシスコ講和会議においては、ソ連が日本の永世中立化を提案し、その後も1958年に同様の提案を行っているがテンプレート:Sfn、日本政府はこれを拒否しているテンプレート:Sfn。
関連項目
脚注
参考文献
- 広瀬孝文・ボーチェック・ボレスラフ「永世中立と国際連合 : スイスとオーストリアの国連外交の比較研究」
- 伊津野重満「中立国の法的義務 に関する考察」
- 山尾徳雄「永世中立と国際連合」
- 山尾徳雄「永世中立と国際連合(2)」
- 山尾徳雄「永世中立と国際連合 (5) : 南ローデシアケース」
- 倉頭甫明「国際的中立の一考察」
- 田村幸策「日本をめぐる中立問題」