水口藩
水口藩(みなくちはん)、近江国水口周辺(現在の滋賀県甲賀市)を領した藩。藩庁は水口城。
略歴
天和3年(1682年)、賤ヶ岳の七本槍の1人として知られる加藤嘉明の孫で、外様の石見吉永藩(1万石)藩主・加藤明友が祖父と自身の功により1万石の加増を受け、2万石で近江国水口城主となり立藩。水口城は造園の名手・小堀政一(遠州)の手によるものと伝わる。
子の明英は譜代の格式を与えられ、元禄3年(1690年)に寺社奉行から若年寄に昇進し、5,000石の加増を受けて元禄8年(1695年)、下野壬生藩に移封となった。
替わって能登下村より、譜代の鳥居忠英が2万石で入封する。忠英は正徳元年(1711年)、寺社奉行から若年寄に昇進し、正徳2年(1712年)に下野壬生藩に移封となった。
同年、入れ替わりに下野壬生藩より加藤明英の嗣子・嘉矩が2万5,000石で入封した。以後、明治維新まで加藤氏が領することとなった。明治4年(1871年)、廃藩置県により廃藩となり、水口県となる。
歴代藩主
加藤(かとう)家
外様(譜代格) 2万石(1682年 - 1695年)
鳥居(とりい)家
譜代 2万石(1695年 - 1712年)
- 忠英(ただてる)〔従五位下・伊賀守・若年寄〕
加藤(かとう)家
外様(譜代格) 2万5,000石 (1712年 - 1871年)
- 嘉矩(よしのり)〔従五位下・和泉守〕
- 明経(あきつね)〔従五位下・伊勢守〕
- 明煕(あきひろ)〔従五位下・豊後守〕
- 明堯(あきたか)〔従五位下・能登守〕
- 明陳(あきのぶ)〔従五位下・能登守〕
- 明允(あきまさ)〔従五位下・能登守〕
- 明邦(あきくに)〔従五位下・能登守〕
- 明軌(あきのり)〔従五位下・越中守〕
- 明実(あきざね)〔正三位・能登守〕
吉永藩
吉永藩(よしながはん)は、加藤明友が近江水口藩に転封する前に治めていた藩。石見国安濃郡吉永(島根県大田市)周辺で1万石を領有し、吉永に陣屋を構えた。
寛永20年(1643年)5月、父・明成が陸奥会津藩40万石を収公されたが、祖父・嘉明の勲功により家名存続を許され、6月に立藩した。
しかし40万石を領する大藩からわずか1万石の小藩にまで成り下がったため、家臣団の縮小などを余儀なくされ、藩財政は一気に悪化した。このため、会津藩から漆器製造者を招聘し、さらに桐・櫨・梅などの栽培を奨励したりするなど、殖産興業に尽力している。また、年貢増徴政策なども行なっているが、このために加藤氏が水口藩に移封された後も、天領の中では特に税率の高い地域になったといわれている。藩の行政機構は小藩になったことから未熟なものとなったとされているが、実情には不明な点も多い。
明成の死後、第2代藩主の座は明友が相続し、天和2年(1682年)6月、明友は1万石加増の2万石で、水口藩に転封となり、廃藩となって天領(石見銀山領)となった。
幕末の領地
参考文献
- 『藩史総覧』 児玉幸多・北島正元/監修 新人物往来社、1977年
- 『別冊歴史読本(24) 江戸三百藩 藩主総覧 歴代藩主でたどる藩政史』 新人物往来社、1977年
- 『大名の日本地図』 中嶋繁雄/著 文春新書、2003年
- 『江戸三00藩 バカ殿と名君 うちの殿さまは偉かった?』 八幡和郎/著 光文社新書、2004年
関連事項
外部リンク
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