武魯頓島
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テンプレート:Infobox 武魯頓島(ぶろとんとう)は千島列島中部に位置する島である。ロシア名はブロウトナ島(о.Броутона)、英語表記はBroutona。
島の名前の由来は、1796年(寛政8年)から2年に渡り千島・サハリン沿岸を調査した、イギリス海軍プロヴィデンス号のブロートン艦長(噴火湾の命名者)に由来する。
また、アイヌ語では「マカンルル(マック・アン・ルル=後ろ・ある・潮→後方の潮の中にある島)」と呼ばれ、潮流の激しい得撫水道の北端に位置することを指すと見られる。漢字表記では磨勘留島とも記されるが、磨勘留島との関連性は不明。
地理
知理保以島(北島)の北北西 11 海里にあり、海抜 801 メートルの円錐形をした峰(日本名とロシア名共に不詳)から成る、周囲約 11 キロメートルの楕円形の島である。
島の南端と西端以外は約 300 メートルの断崖を成し、所々にある岩場に辛うじて上陸することが出来る。 [1]
歴史
続縄文時代とオホーツク文化期に得撫島で集落が発達した時期があり、武魯頓島にもラッコ猟などで人が訪れた可能性があるが、定住の痕跡は発見されていない[2]。近代でも、択捉島のアイヌがラッコ猟に出猟していた。
- 1644年(正保元年)、「正保御国絵図」が作成された際、幕命により松前藩が提出した自藩領地図には、「クナシリ」「エトロホ」「ウルフ」など39の島々が描かれていた。
- 1715年(正徳5年)、松前藩主は幕府に対し、「北海道本島、樺太、千島列島、勘察加」は松前藩領と報告。
- 1855年(安政元年)、日露通好条約によりロシア領となる。
- 1875年(明治8年)、樺太・千島交換条約により日本領になる。
- 1945年(昭和20年)、8月、ソ連軍が上陸し占領する。日本が降伏した9月2日に出された一般命令第1号により、ソ連占領地とされた。
- 1946年(昭和21年)、GHQ指令により、日本の施政権が正式に停止される。直後に、ソ連が領有を宣言する。
- 1952年(昭和27年)、サンフランシスコ講和条約で日本は領有権を放棄する(ソ連は未調印)。以後、日本は千島列島の帰属は未確定と主張する。
- 1991年(平成3年)、ソ連崩壊後に成立したロシア連邦が実効支配を継承。
現在はロシア連邦の実効支配下にあるが、日本政府は国際法上は所属未定地であると主張している。
関連項目
参考資料
- ↑ 千島列島陸海編合図得撫島(其ノ二)外邦図デジタルアーカイブ 東北大学
- ↑ 千島列島における資源・土地利用の歴史生態学的研究