磨勘留島
テンプレート:Infobox 磨勘留島(まかんるとう)とは、千島列島の中部にある島。
島の名前の由来はアイヌ語からであるが、史料によって名称が多少異なっている。
正保御国絵図では「フカンルヽ」(「マカンルヽ」の誤記か)、元禄御国絵図では「ふかんるゝあし」(「まかんるゝあし」の誤記か)、蝦夷闔境輿地全図では「マカンルラシ」、 千島・樺太交換条約では「マカンルシ」となっている。
これらはアイヌ語で「温禰古丹島の後ろにあって、潮の中に立つ島」の意とする説がある。
ロシア名はマカンルシ島 (о. Маканруши)、英語表記はMakanrushi。
地理
千島列島中部の北端、温禰古丹島の北西方、大和水道を挟んだ約26キロメートルに位置する。南北の長さ約10キロメートル、幅が約7キロメートル余り、中央部には三高山(みたかやま、海抜1,171メートル[1]、ロシア名:マカンルシ山 г.Маканруши、或いはミタカ山 влк.Митака)がそびえる。
地形は険阻で海岸は険崖となっていて投錨地には恵まれない。停泊の必要がある場合は、島の南部に位置して12 - 33メートルの深さを持つ東湾か、西側に位置する西浦湾の沖合約1.4キロメートルにある深さ36メートルの地点で投錨する。島の西側や南側から岸辺への接近は、水面下に岩礁が続く浅瀬になっているため危険である。上陸は極めて困難だが、一部の地点で可能である。淡水は比較的に豊富で、東湾に注ぐ川の他、いくつかの小河川が見られる。
磨勘留島の西方、約20キロメートルにアボス(海面からの高さはおよそ35メートル、ロシア名:アヴォシ岩 скала Авось)と呼ばれる三角形の裸岩がある。遠くから眺めるとまるで船が浮んでいるように見えることから、一名を帆掛岩(ほかけいわ、千島アイヌはハイノコ)と言うことがあり、アシカや海鳥の繁殖地となっている。
歴史
- 1644年(正保元年)、「正保御国絵図」が作成された際、幕命により松前藩が提出した自藩領地図には、「クナシリ」「エトロホ」「ウルフ」など39の島々が描かれていた。
- 1715年(正徳5年)、松前藩主は幕府に対し、「北海道本島、樺太、千島列島、勘察加」は松前藩領と報告。
- 1855年(安政元年)、日露通好条約によりロシア領となる。
- 1875年(明治8年)、樺太・千島交換条約により日本領になる。
日本の行政区分においては、捨子古丹島や温禰古丹島などとともに北海道根室支庁(現在の根室振興局)管内の占守郡に属していた。日本政府は国際法的には所属未定地と主張しているが、現在はロシア連邦が実効支配している。
関連項目
参考文献
- 『北方領土地名考』 北方領土問題対策協会編、1978年
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