機械式計算機
機械式計算機 (きかいしきけいさんき)とは、歯車などの機械要素の組み合わせにより、演算を行う計算機。この記事ではデジタル演算を行うものについて述べる。機械式アナログ計算機についてはアナログ計算機の記事を参照のこと。 これを発展させたものが19世紀後半に商品化されて普及し、20世紀後半まで盛んに用いられた。コンピュータの登場以降、大規模な計算はそちらに移り、電卓に卓上の計算機の座は移った。「タイガー計算器」の場合、1968年頃の生産・出荷のピークの後1970年前後に一気に急落している[1]。
目次
シッカートの計算機
テュービンゲン大学のヘブライ語教授であったヴィルヘルム・シッカートが1623年に発明した機械式計算機。Calculating Clock と呼ばれた。 後述するパスカル、ライプニッツの計算機よりも機能は少ないが、20年先行している。この計算機は、6桁の加減算およびオーバーフローの検出、複数のネピアの骨を使った乗算が可能であった。デザインは20世紀まで失われていたが、1960年にレプリカが作られた。シッカートがヨハネス・ケプラーにあてた手紙には、天体計算 (astronomical tables) への利用方法が記されている。
パスカルの計算機
ブレーズ・パスカルが1645年に発明した[2]機械式計算機。Pascaline(パスカリーヌ)または Machine Arithmétique と呼ばれている。
パスカルは1642年、彼が19歳のときから計算機について研究を始めている。徴税官だった父の手伝いをしていたパスカルは、仕事を減らすための道具を作ろうと考えた。1652年までにパスカルは50台もの試作機を作ったが、売れたのは1ダース強である。高価であったことと複雑であったこと(加えて加減算しかできず、減算のやり方が難しかった)が原因で、それ以上売れることはなく、パスカルは1652年に計算機の製作を止めた。その頃、パスカルの興味は他に移っていて、気圧の研究や哲学へと関心が向かっていた。
Pascaline は十進数を使った機械である。しかし、当時のフランスの通貨は十進数ではなく、イギリスのポンド、シリング、ペンスと似ていた。従って、金額を計算するのに Pascaline を使おうとすると、計算結果を更に変換する必要があった。1799年、フランスはメートル法に切り替えた。このとき、パスカルの基本設計に触発された職人が登場したが、彼らも商業的には成功しなかった。
最初の Pascaline は5個のダイヤルがあり、後には6ダイヤルや8ダイヤルのものが作られている。最大のもので 9,999,999 までの数値を扱うことが出来た。各ダイヤルは数値のうちの1桁に対応し、計算結果は上部の窓に表示される。歯車は一方向にしか回らないため、負の値を直接計算することはできない。減算をするには9の補数表現にして加算する必要があった。ユーザーを助けるため、9の補数を入力すると上部の窓には元の数値が表示されるようになっている。
ライプニッツの計算機
ゴットフリート・ライプニッツは1670年代に、歯車の回転によってステップ回転をするドラム(段付歯車)を発明し、後の機械式計算機に大きな影響を与えた。その後それを使用したStepped Reckonerと呼ばれる機械式計算機を製作した。これは加減算だけでなく乗除算も可能であった。彼は「立派な人間が労働者のように計算などという誰でもできることに時間をとられるのは無駄だ。機械が使えたら誰か他の者にやらせるのに」と言ってこれを発明したと言われている。ライプニッツは二進法の唱道者でもあり、そちらも今日のコンピュータにも影響を与えている。
この機構を使い小型化したものに、1948年に登場したクルト・ヘルツシュタルクのクルタ計算機がある。
バベッジの計算機
アリスモメーター
世界で初めて量産された機械式計算機は、チャールズ・ザビエ・トーマス・ド・コルマが1820年ごろ発明したアリスモメーター (Arithmometer) である。しかし、量産とは言っても月産1-2台で、しかも当初は信頼性が低かったという。1880年代には信頼性も高まったが、爆発的な人気を呼ぶということはなかった。その操作方法は鉄筆でホイール上の数字をダイアルし、手でクランクを回して計算を行うというもので、非常に時間がかかった。
矢頭良一の自働算盤
日本では矢頭良一(やず りょういち、1878-1908)による「自働算盤」(パテント・ヤズ・アリスモメトール:Patent Yazu Arithmometerとも)が、金属製で実用的な機械式計算機の最初のものと考えられている。1901年に森鴎外を訪ね計算機の模型を見せ協力を要請したことが鴎外の「小倉日記」に書き残されたことから、後の再発見につながった。矢頭は計算機の販売で得た資金を元に動力航空機を研究したが、エンジンの試作の後に早逝した。
自働算盤の完成は1902年で同年特許を申請、1903年に日本国特許6010号を得ている。歯車式だが、他に見られる出入り歯車や階段状歯車ではなく、歯を左右に移動する独特の方式である。内部の計算方式は十進だが、入力はそろばんあるいは二五進法風に、ある桁における置数が2回の操作でできるよう工夫されている。乗除算の方式は、タイガー計算器などの加減算の回数をカウントアップする方式とは異なり、先に置いた乗数ないし除数をカウントダウンする方式である。さらに乗除算では桁送りや計算終了を自動に行う機構もあるとされ、改良型の特許(日本国特許18119号、後述)には乗算の場合の働きが説明されているが、判然としない。内山昭による現存機の確認の際、修理により動作を確認したが、2010年の和田による報告では同機が改良型の特許のものと同型であること、乗除算のための機構があることなどが確認されたが、動作は確認できなかったという[3]。
当時の価格で250円、約200台が作られ, 森の協力もあり陸軍省、内務省、農事試験場等に販売された[4][5][6][7]。矢頭は資金を得て試作のエンジンの成功をみたが飛行機の夢はならず5年後に病で没した。日本国特許18119号は父親の名義になっている。
その後機械式計算器としてはタイガー計算器が代表的存在になり、また小倉日記が紛失したことなどもあって、矢頭の自働算盤は忘れられていった(たとえば城憲三らによる『計算機械』からは言及がない)。小倉日記が1950年代に発見されたことで、自働算盤が再発見され、現存機も確認された。現存機は後に北九州市立文学館に寄贈され、現在は同館蔵である。2008年7月には機械遺産の30番として認定された[8]。
矢頭が特許を得た1903年はくしくもライト兄弟のライトフライヤー号の初飛行成功の年であった。
オドネルの計算機
ヴィルゴット・オドネル(1845年 - 1903年)は、スウェーデン人の技術者であり、1874年にアリスモメーターを改良した計算機を開発した。彼はその設計を公表したため、世界各国でそれに基づいた機械が作られた。
タイガー計算器
日本では大正時代に大本寅治郎によりこの型の計算機[9]が開発され、その商標「タイガー計算器」は、この型の計算機を指す、日本における代名詞になっている。1970年代まで販売された。
電気機械式計算機
コンプトメーター
コンプトメーター (Comptometer) は機械式(あるいは電気機械式)加算機の一種である。コンプトメーターはキーを押すだけで駆動される最初の加算機であった。キーは桁ごとに0から9までの数字ごとに配置されている。これにより数値の入力が格段に高速化された。
ドール・E・フェルトが1887年に特許を取得した。彼は、Felt and Tarrant Manufacturing Company を設立し、「コンプトメーター」は同社の商標として使われたが、一般に加算機を表す言葉としても浸透した。
主に加算のために設計されたが、四則演算全てを実行可能であった。用途に応じて様々なキー配列(30キーから100キー以上)のコンプトメーターが製造された。例えば、簿記、時間計算、英系重量単位の計算などである。
数値の各桁の数字を同時に押すことができるため、熟練した操作者は電卓よりもずっと速く数値を入力することができた。そのため、1990年代まで細々と使われていたが、使える機械が無くなったことから、現在ではコンピュータで全て代替されるようになっている。
バロースの加算機
ウィリアム・S・バロースは1888年8月21日、加算機 (Adding machine) の特許を取得した。バロース・アッディング・マシン社 (Burroughs Adding Machine Company) は後にバロースと改称。電子式会計機やメインフレームを製造し、後にスペリー社と合併してユニシス社となった。発明家バロースの孫ウィリアム・S・バロウズは作家として有名である。
バロースの加算機の特徴は計算経過と結果を印字して紙に記録を残せるようになっていたことである。これによって利便性が格段に向上した。
加算機市場は20世紀に入ると驚異的な成長を記録することとなる。多数のベンチャー企業がこの市場に参入したが、コンピュータ時代にうまく対応できたのはバロースだけだった。
脚注・参照
参考文献
- 計算機屋かく戦えり ISBN 9784756106070
関連項目
外部リンク
- Early Calculators ヒューレット・パッカードの電卓博物館の一部(英文)
- タイガー手廻計算器資料館
- 手動計算機東京理科大学
- 日本の機械式計算機の歴史特定非営利活動法人機械式計算機の会
- コンピュータ、インターネットの歴史