松浦隆信 (道可)

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松浦 隆信(まつら たかのぶ、1529年享禄2年)- 1599年4月30日慶長4年閏3月6日))は、肥前国戦国大名嵯峨源氏一流松浦氏25代当主。父は松浦興信。子に松浦鎮信松浦親後藤惟明松浦信実。法名は印山道可。

経歴

平戸松浦家出身。1541年に父の興信が死去したものの、しばらくは家中の混乱もあり家督を継承できず、1543年になってようやく家督を継いだ。父同様、大内氏大内義隆)から偏諱を賜り隆信と名乗る。

1550年には南蛮貿易を開始して、鉄砲大砲を購入。平戸城下にの商人を住まわせるなどして、貿易による巨万の富を築き上げた。その財力を背景にして勢力を伸ばし、北松浦半島を制圧している。

有馬氏龍造寺氏などの近隣の強豪の脅威に備えながら、志佐氏波多氏などを攻撃しつつ一族をまとめ、永禄年間には、長年対立してきた相神浦松浦家の松浦親をついに屈服させた。相神浦松浦家には有馬晴純の子の松浦盛が養子になっていたが、新たに平戸松浦家より隆信の子の親(養父と同名)が入り、親(養父の方)を隠居させて盛を他家(有田氏)に追いやることにより相神浦松浦家の平戸松浦家への従属は決定的となる。一方で武雄後藤氏後藤貴明へ養子に送った惟明は龍造寺隆信の子の後藤家信により後藤家を追われている。

1568年、嫡男の鎮信に家督を譲って隠居したが、実権はなおも握り続けた。龍造寺隆信の勢いは肥前のみならず北九州を席捲するほどであったが、1584年に隆信が薩摩島津氏の支援を受けた有馬氏に敗れ戦死したため(沖田畷の戦い)松浦家も独立を保つことができた。1587年には豊臣秀吉九州平定に参陣して所領安堵を許されている。松浦氏の戦国大名への躍進と、近世への存続の安泰を確実なものとした名君であった。

関連項目