松平忠固

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松平 忠固(まつだいら ただかた)は、幕末譜代大名老中信濃上田藩の第6代藩主。伊賀守系藤井松平家第8代当主。嘉永7年(1854年)の日米和親条約と、安政5年(1857年)の日米修好通商条約という2度の条約の調印時にいずれも老中を務めた。徳川斉昭と対立しながら、終始一貫して開国を主張し、幕府の開国論を牽引した支柱的存在であった。

最初の老中就任時は松平忠優という名前で、2度目の老中就任時に松平忠固と改名しているが、同一人物である。

生涯

最初の老中就任

文化9年(1812年)7月11日、播磨姫路藩主・酒井忠実の次男として江戸で生まれる。文政12年(1829年)9月、上田藩の第5代藩主・松平忠学の養子となり、文政13年(1830年)4月20日に忠学が隠居したのを受けて家督を継ぎ、寺社奉行大坂城代を経て、嘉永元年(1848年)、老中に抜擢される。

嘉永6年(1853年)6月、アメリカ東インド艦隊提督マシュー・ペリー浦賀に来航し、国書を交付し開国を迫った際、老中首座・阿部正弘は諸大名朝廷に意見を求め、また前水戸藩主・徳川斉昭を海防参与としたが、忠優はこれにもっとも反対した。外交問題も含め朝廷から諸事一任されている幕府がわざわざ朝廷諸大名に意見を求めるのは、幕府の当事者能力の喪失を内外に印象付けるだけで愚策であるというものである。

事実、幕末の政局は朝廷公卿や外様大藩が幕政に容喙することにより余計に混乱を極めたのであり、忠優の危惧は頷けるところである。また元々御三家は幕政に参与する資格は無く、まして狷介な性格の斉昭ではいたずらに幕政に波風(暴風)を立てるだけだとして警戒し、斉昭の海防参与就任にも反対した。譜代大名筆頭の姫路藩出身者らしい主張である。

忠優の考えは幕府内で主流だった穏便・開国派であり、攘夷論を唱える徳川斉昭の主張は一見威勢はいいが、現在幕府がアメリカと一戦交えても勝利できるはずはなく、下手をすると国土の一部を割譲されるだけであり、それならばいっそ国書を受け取り、早めに開国すべきであるという主張である。さらに忠優は積極的な交易論を唱え、忠優の主導により幕閣の大勢は交易通信の承認に傾いていた。

しかし海防参与の斉昭が交易だけは絶対に認めないと強く抗議し、海防参与辞職を願い出たため、阿部正弘は事態の収拾を図ろうと斉昭に譲歩、通商通信を許さないという決定を下した[1]。海防水戸学の思想に固まる斉昭と忠優では見解の一致があろうはずがなく、両者の対立はエスカレートする。斉昭は、忠優と彼に歩調を合わせる老中の松平乗全の免職を阿部正弘に要求(安政2年(1855年6月30日)。正弘はやむなく8月4日、忠優、乗全を免職し、帝鑑間詰に戻した。

2度目の就任

両者罷免後正弘は幕府内で孤立を深め、安政2年(1855年)10月には開国派の巨頭・堀田正睦を老中首座に起用する。正弘死後の安政4年(1857年)、堀田正睦は日米の条約交渉を共に推進する同志として、開国派の忠優を復帰させる決断をした。忠優は忠固と改名し、勝手掛も兼ねる次席格の老中として再び敏腕を振るう機会を得た。

再任後の忠固は日米修好通商条約締結につき、勅許不要論を唱え、一刻も早い締結を主張し、要勅許を唱える外野の斉昭や松平慶永と対立した。また、慶永や尾張藩主・徳川慶勝将軍継嗣問題一橋慶喜を押して雄藩連合でこの難局に対処すべしと主張したのに対して、忠固は紀州藩主・徳川慶福を将軍とし、従前どおり譜代大名中心で幕政を進めるべしと考えていた。

正睦が日米修好条約の勅許を得るために上洛中、忠固は正睦に見切りをつけ、近江彦根藩主・井伊直弼大老にする工作を行った。一説によると、一橋派に寝返った正睦を直弼に逐わせ、直弼を傀儡にして自らが老中首座として佐幕路線を突っ走る目論見があったといわれる。しかし、直弼は大老として既に13代将軍徳川家定から全幅の信任を受けており、忠固などいつでも逐える体制を整えていたのは彼によって予想外のことであった。

なお、忠固は南紀派であったという解釈が一般的であるが、実際にはどちらにも与せず中立であったという説もある。南紀派の井伊直弼も一橋派の松平慶永もそれぞれ将軍継嗣問題に絡んで忠固に黄金を贈ろうとしているが、忠固は受け取らなかった[2]。後世に忠固が評価されていないのは、その中立的スタンスが災いして、一橋派からも南紀派からも悪く言われたためではないかとも思われる。

日米交渉における忠固のスタンスは一貫している。当時、破竹の勢いでアジア諸国を植民地化しつつあったイギリスの艦隊が日本に襲来する前に、相対的に穏当な交渉相手であるアメリカのタウンゼント・ハリスとの間で、少しでも日本に有利な内容の最恵国条約を結んでしまおうというものであった。そのためには朝廷の勅許などは待っていられなかった。朝廷の勅許にこだわっていたのは正睦と直弼であり、強い意志で条約の調印を決断したのは忠固であった。

直弼が松平慶永に語ったところによれば、調印当日の6月19日の閣議の席上、直弼は「天意(孝明天皇の意志)をこそ専らに御評定あり度候へ」と、勅許を優先させることを訴えたが、忠固が「長袖(公卿)の望ミニ適ふやうにと議するとも果てしなき事なれハ、此表限りに取り計らハすしては、覇府の権もなく、時機を失ひ、天下の事を誤る」と即時条約調印を主張、結局そのまま調印に至った。条約調印の最終段階において直弼は無力だったのであり、忠固こそが閣議をリードしていた様子が伺える。直弼は完全に孤立したため、翌日、慶永のもとを訪れ「貴兄初の援助を依頼するの他なし。伊賀(忠固)抔は小身者の分際として此頃は権威を誇り、傍若無人の有様、此度の事抔も我意に任せて京都を押付んと致す條、言語道断なり」と怒りをぶつけ、忠固と正睦を失脚させる事への協力を依頼した[3]。忠固を失脚させるため、南紀派の直弼が一橋派と一時的に手を組んだのである。

条約の調印から4日後の6月23日、忠固は正睦と共に老中を免職、蟄居を命じられた。安政の大獄の始まりである。勅許を得ず条約を締結し、かつ朝廷に対して条約締結を事後報告で済ませたのは不遜の極みとして責任を取らされたともいわれ、あるいは閣内で直弼と権力を争うに至り、機先を制した直弼が異分子を排除したともいわれる。

なお日米修好通商条約の調印に先立ち、忠固は上田藩の特産品であった生糸を江戸へ出荷する体制を作り上げ、生糸輸出を準備させていた。横浜開港と同時に生糸の輸出を始めたのも上田藩であった。その後、明治から昭和初期まで生糸が日本最大の輸出品として日本経済を支え続けたことを考えると、開国を見据えた忠固の先見性は確かなものであったことが分かる。

安政6年(1859年)9月14日に急死、享年48。表向きには病死と報告されているが暗殺説もあり、跡継ぎが決まっていなかったため、家名断絶を恐れた藩により暗殺は極秘にされたという説である[4]。急遽跡を三男の忠礼が継いだ。墓所は天徳寺(東京都港区虎ノ門3丁目)、後に改葬され多磨霊園(東京都府中市多磨町)。

遺訓は「交易は世界の通道なり。皇国の前途は交易によりて隆盛を図るべきなり。世論囂々たるも開くべきの通道必ず開けん。汝らはその方法を講ずべし」であった[5]。息子の忠礼忠厚はこの遺訓に従い、廃藩置県後に米国に留学した。忠厚は米国の土木工学者として画期的な測量法を開発し、全米で有名になった。

また、忠固の家臣には、慶応3年(1867年)に普通選挙による議会政治の導入や人民平等の原則を建白した赤松小三郎がいる。

人物・逸話

  • 聡明で思考も現実的な政治家であったが、斉昭が水戸学に固執したのと同様、譜代酒井家出身という名門意識の思考から抜け切れなかった憾みがある。
  • 日米和親条約の調印後、吉田松陰による密航事件が起こり、松陰とその師の佐久間象山が投獄された際、開国派の忠優は2人に同情し、何とか救済しようと尽力。国元蟄居という軽い罪で穏便に処理した。2度目の老中就任に際し、忠固は佐久間象山を赦免しようと動いた。安政4年7月、萩の松陰のもとを上田藩士の櫻井純蔵と恒川才八郎が訪れ、象山を赦免しようとしている忠固の意向を松陰に伝えている。松陰はその事実を知り、忠固を深く敬慕する共に、櫻井と恒川を通して象山の赦免を忠固に重ねて働きかけている。安政4年10月29日の桂小五郎宛ての書簡の中で、「而して僕獨り上田侯に眷々たる(思い慕うさま)ものは、櫻井・恒川二子の言猶耳に在るを以てなり」と記し、忠固を敬慕する心情を吐露している[6]

経歴

※日付は旧暦

家族・親族

正室は、先代藩主松平忠学の養女(実父は松平忠徳)三千子[7]

子女

平成新修旧華族家系大成』は以下の子女を載せる[7]

長男、次男は夭逝し、三男・忠礼が嫡子となって家督を相続した。四男・忠厚明治維新後、兄・忠礼と共に米国に留学。忠厚は土木工学を専攻し、大陸横断鉄道を建設していたユニオン・パシフィック社の主任測量士などで活躍。測量に関する英文論文も多数発表した。アメリカにおける日本人初の公職者として、全米で有名になった。五男・忠直は三河国刈谷藩主・土井利教の養子となった。六男・忠隆は早世した。他家に嫁いだ娘は3人いる。

脚注

  1. 石井、P87。
  2. 上田市立博物館、P13。
  3. 中根、P192 - P193。
  4. 猪坂直一『あらしの江戸城』中沢書房、1958年。
  5. 上田市立博物館、P18。
  6. 吉田松陰「桂小五郎に與ふる書」(安政4年10月29日)、山口県教育委員会編『吉田松陰全集 第四巻』P138 - P140所収。
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参考文献


先代:
松平忠学
藤井松平氏(伊賀守家)
1830年 - 1858年
次代:
松平忠礼

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