東京相和銀行

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株式会社東京相和銀行(とうきょうそうわぎんこう)は、かつて存在した第二地方銀行である。本店は東京都港区赤坂にあった。

沿革

  • 1949年(昭和24年):東京興産株式会社、東京殖産株式会社、平和勧業株式会社設立。
  • 1950年(昭和25年):東京興産株式会社、東京殖産株式会社、平和勧業株式会社3社の業務継承のため東京協和殖産無尽株式会社設立。
  • 1951年(昭和26年):1月、東京殖産無尽株式会社と商号変更。10月、株式会社東京相互銀行と商号変更。
  • 1953年(昭和28年):東都医師信用組合設立。
  • 1956年(昭和31年):東京慈光信用組合設立。
  • 1961年(昭和36年):東京慈光信用組合、東京貯蓄信用組合と改称。
  • 1970年(昭和45年):東京貯蓄信用組合を合併。
  • 1974年(昭和49年):東都医師信用組合を合併。
  • 1989年(平成元年):金融機関の合併及び転換に関する法律(昭和43年法律第86号)に基づく認可により普通銀行に転換し、株式会社東京相和銀行と商号変更。
  • 1999年(平成11年):金融再生委員会により、金融整理管財人による業務および財産の管理を命ずる処分を受ける(事実上の破綻)。
  • 2001年(平成13年):アメリカの投資ファンド会社ローンスターが設立した、株式会社東京スター銀行に営業譲渡。
  • 2004年(平成16年):長田庄一被告は、東京高裁への控訴を取り下げ、懲役3年・執行猶予5年の一審判決が確定。

第二地銀のトップバンク

実質的創業者の長田庄一(1922年7月2日 - 2010年2月15日[1]、山梨県高根町生)が、敗戦直後の混乱に乗じて得た資金を元手に無尽会社を設立したのが前身。1950年2月、平和勧業、東京殖産、東京興産の三つの無尽会社が合同して東京協和殖産無尽株式会社として設立され、翌1951年10月、相銀法の制定・施行と共に東京相互銀行となる。

この時長田は常務であったが、「日掛け50円で手軽に金融」等のキャンペーンで営業成績を拡大、1969年5月には反対派を放逐して社長に就任し、1975年には会長になるも引き続き権力を維持していた。また、長田は銀行業務だけでなく、多数の系列企業を設置し、その利益を銀行本体に還流させる仕組みを作り上げ、邦銀初のATM24時間稼働など名経営者として注目された。

1989年2月、普通銀行への転換により東京相和銀行となり、「東の東京相和、西の兵庫銀行」と呼ばれ、資金量などを巡って第二地方銀行トップの座を競った。奇しくも両行とも後に経営破綻・営業譲渡の道を歩むこととなる。

中央政財界との繋がり

長田の出身地山梨県は、かつて東武鉄道根津嘉一郎、若尾銀行・東京電灯の若尾逸平山一證券小池国三など、財界において俗に甲州財閥と呼ばれる一派を形成しており、長田もこうした地縁を最大限に利用した。また、池田勇人元首相ら政治家の知遇を得て、中央政界や大蔵省などにも強い繋がりを持ったことで業容が拡大した。

三井銀行と親密な関係にあったことから、度々合併が噂され、その合意寸前までいったこともある。しかし、長田自身が要求したポストは「新・三井銀行代表取締役会長」職であったため、三井側が難色を示しご破算になった(その後、三井銀行は太陽神戸銀行と合併し、さくら銀行となる)。

東京・銀座や赤坂の飲食店のメーンバンク

長田は手記で、「銀行が、経済界で大きな顔をしていることが間違い。私たちは実業の手伝いをするわき役」と述べていたが、実態は、長田一族のファミリー企業や、その交友関係のある不動産会社ノンバンクへの不透明な融資に傾斜し、「東京・銀座赤坂の飲食店のメーンバンク」と言われた。

また、淡島ホテル、長泉山荘、東京湾トロットクルーズといった長田一族の関連企業の利用を顧客や行員に強要するなど、公私混同も目立っていた。

バブル崩壊から経営破綻へ

バブル景気が崩壊すると、東京相和銀行も経営不安がささやかれるようになり、1997年より2年の計3回、総額950億円に及ぶ増資を行った。しかしその3割は、取引のある消費者金融業者に増資分を経由させて、関連会社3社に迂回融資したものであり、後に裁判において架空増資との判決に至る[2]。ただし、融資には何れも実態のある担保が設定されていたことが裁判で明らかにされている。弁護側は、「検察側が債務の帳消しを餌に消費者金融業者に見せ掛け融資であったとの偽証をそそのかした」と主張。弁護側証人となった消費者金融の社長は、供述調書を全面撤回し、涙ながら担保を入れた実態融資であったと証言しており、本事件がバブル崩壊後に金融監督庁が検察庁と手を組んで実施した国策捜査の1つとの見方もある。

1998年に入り長田と個人的なつながりがあった三井埠頭ヤオハン等が相次いで破綻。その後の金融監督庁の金融検査の結果、1998年9月期で1189億円もの債務超過が公表された。株価下落に加え、経営不安から2000億円近い預金流出が止まらず、増資手段も力尽きていた。

1999年6月12日、金融再生委員会が東京相和銀行に金融整理管財人による業務及び財産の管理を命じ破綻認定した。時同じくして国民銀行幸福銀行新潟中央銀行といった、オーナー色の強い第二地方銀行が相次いで破綻しており、「ワンマン経営の結果、不良債権が積み上がる」マイナス面を印象づけた。2000年5月11日警視庁東京地検は経営破綻した東京相和銀行の不正増資疑惑で前会長長田庄一ら旧経営陣6人を逮捕。

2000年6月27日、米国のアジア・リカバリー・ファンドが中心となって今後組成される(仮称)「日本さわやかパートナーズ社」が創設する銀行持株会社傘下の新設銀行子会社の一つに同行の営業譲渡を行う基本合意書が締結された。翌2001年(平成13)6月11日、アメリカの投資ファンド会社ローンスターが設立した、株式会社東京スター銀行に営業譲渡した[3]。同年7月23日付で金融機能の再生のための緊急措置に関する法律第22条に基づく裁判所の許可決定により解散、以後は清算会社となり、清算に9年近くもの歳月を要した末、2010年3月11日付で清算が終了し、完全消滅している。

なお、東京相和銀行の破綻処理には金銭贈与や債権買い取りで約8000億円の公的資金が使われている。

その他

普通銀行転換後の商号を「東京相和銀行」とした理由の一つに、略称を相互銀行時代と同じ「東京相銀」とする目的があったといわれている。また、同様の改称を行った第二地銀として広島総合銀行(旧広島相互銀行、略称は普銀転換前後で共に「ヒロソー」、現もみじ銀行)が挙げられる。

長田は個人的にフランスに人脈をもち、レジョンドヌール勲章を受章、ジャック・シラク大統領と親密だと喧伝していた。東京相和銀行破綻後の2002年、フランス諜報機関対外治安総局(DGSE)が、長田との関係を調べる動きを見せていたと報道されたことがある[4][注釈 1]。 また、2006年5月には、シラクが同行に口座を所有し、謎の「文化財団」から定期的に巨額の振込みを受け、預金残高が3億フラン(約65億円)に達していたとする情報当局者の証言が報道された。[注釈 2]。さらに、前述の疑惑は2007年5月のフランス大統領選挙が終了した直後にも「大統領退任により免責特権が無くなったシラクに司直が及ぶのではないか?」、との報道がなされている。

脚注

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注釈

  1. DGSEは国防大臣の指揮下にある。当時は第3次コアビタシオンによる社会党内閣で、リオネル・ジョスパン首相は、その年の大統領選挙におけるシラクの対立候補であった。
  2. これに関して、シラク側近筋は「大統領は東京相和銀行に口座を持ったことはない」と直ちに報道を否定した。前回同様、次期大統領選挙候補をめぐる、ドミニク・ガルゾー・ド=ビルパン首相とニコラ・サルコジ内相との政争に絡む証言との見方もある。

出典

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