李典

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李 典(り てん、生没年不詳)は、中国後漢末の武将曹操に仕えた。字は曼成兗州山陽郡鉅野県[1]の人。子は李禎その他1名。『三国志志に伝がある。

生涯

謙虚な人物で、若い頃は武芸よりも学問を好んだという(『魏書』)。学問の師をつけて『春秋左氏伝』を読み、さまざまな書物に目を通した。曹操は李典の振る舞いを好ましいものと思い、試しに人民を統治する職につけてみたという(『魏書』)。

従父の李乾はおおしい性格で、食客数千家を擁して乗氏県にいたが、初平年間に曹操の挙兵に応じて馳せ参じ、寿張の黄巾賊との戦いや、袁術との争い、徐州征伐など、数々の戦いに参戦して、武功を立てた。

呂布が兗州で反乱を起こすと、曹操は李乾を乗氏県に帰還させ民心を落ち着かせようとした。李乾はそこで呂布の任命した兗州別駕の薛蘭李封から帰順の催促を受けたが、断固として拒んだために、薛蘭・李封に殺害された。曹操は李乾の子の李整に後を継がせ、諸将とともに薛蘭・李封を追討させた。李整は兗州の諸県を鎮圧するなど武功を立て青州刺史までになった。李整が亡くなると李典が李整の軍を率いることになり、潁陰の令に転任し、中郎将に任命された。

そのとき、曹操は袁紹と官渡で対峙していたため(官渡の戦い)、李典は一族と部下を引き連れ、食料・絹などを曹操軍に輸送し供給した。曹操が袁紹を破ると裨将軍に任命された。

袁紹の死後、曹操は袁譚袁尚を黎陽に攻撃したが、李典に命令し、程昱と共に兵糧を輸送させた。袁尚は魏郡太守の高蕃に命じて水路を遮断させた。曹操は予め、水路を通ることが困難なら陸路を使うよう命令をしておいたが、李典は敵の状況を見た上でその命令を聞かずに独断で程昱と相談し、高蕃に急襲をかけてこれを打ち破り、水路を回復させた。

荊州の劉表を頼った劉備が葉まで侵攻してきた時、曹操の命令で留守を守る夏侯惇の配下として戦った。戦いの最中、劉備が突然陣営を焼き払い退却したため、夏侯惇は追撃の好機と見た。李典はこれを劉備の策であるとして諫めたが、夏侯惇は聞き容れず于禁とともに追撃に出、李典は留守を守った。果たして夏侯惇は劉備の伏兵に遭い不利になったが、李典が救援に赴いたため劉備は撤退し、夏侯惇は窮地を脱することができた(博望坡の戦い)。

の包囲に参加した。鄴の平定後、高幹が壺関で挙兵すると楽進と共に討伐した。また長広の管承を楽進と共に破り、捕虜将軍に昇進、都亭侯になった。曹操から受けた厚遇に感動した李典は、乗氏から1万3000の一族郎党を魏郡鄴県に移住させた。この行為は曹操に喜ばれ、破虜将軍に昇進した。

208年、曹操は荊州征伐に向かう際に、司空掾属主簿である趙儼に章陵太守を兼任させ、さらに都督護軍に転任させた。これにより李典は、于禁・張遼・張郃朱霊路招・馮楷の6将軍と共に趙儼の統括下に入ることになった(「趙儼伝」)。

その後、曹操の命令で孫権への備えとして、李典は張遼、楽進とともに合肥に駐屯していたが、この3名は元来不仲であった。215年、孫権が合肥を攻撃してくると、張遼は2人が命令を聞かないことを心配したが、李典は国家の大事に私情は差し挟まないとして、楽進と共に張遼と協力して戦うことを誓いあった。李典は張遼と共に800の兵を率い、孫権が率いる10万の軍勢を迎え撃ち、撃退した(「張遼伝」、合肥の戦い)。100戸の加増を受け、300戸となった。

李典は学問を好み、儒学の素養もあり、諸将と功績を争うこともなく、士大夫にも謙虚に接した。軍中においても称えられたという。

36歳の若さで病死し、愍侯と諡された。子の李禎が後を継いだ。

曹丕(文帝)が帝位に就くと、李典の功績を思い起こし、李禎に100戸が加増され、さらに李典の一子に関内侯と領邑100戸が与えられたという。

244年秋7月、曹芳(斉王)は詔勅を下し、曹操の霊廟の堂前の広場に功臣達を祭ったが、その中に破虜将軍李典も含まれている。


注釈

  1. 資治通鑑』巻64には巨鹿の人であると記述されている。

『三国志演義』での李典

小説『三国志演義』では、曹操が董卓に反旗を翻し、軍を編成した時点で3千の兵を引き連れて参加し仕えている。黄邵を捕虜にするなど曹操の将として早くから武功を挙げ、呂布との戦いや華北4州平定にも参加。禰衡には他の曹操の部下とともに罵られている。

その後に曹仁の配下として樊城に駐屯している。206年、曹仁が劉表の客将として新野に駐屯する劉備を攻撃しようとした時、李典は曹操に援軍を要請するべきだと慎重策を述べ、曹仁と対立している。李典の懸念通り、曹仁は劉備の軍師である徐庶の采配に翻弄され、樊城を奪われてしまう。

207年に、劉備と諸葛亮打倒を曹操に志願した夏侯惇の配下として于禁と共に付けられ、新野付近の博望坡に攻め寄せる。この時も李典は劉備軍の撤退の様子を不審に思い、夏侯惇の追撃を諫めている。夏侯惇は李典の言葉を聞き入れず深追いしたため、案の定諸葛亮の火計に遭い大敗。しかし、李典は夏侯惇をあらかじめ諌めていたことにより曹操から賞賛されている(博望坡の戦い)。

208年、曹操が荊州など南方征伐を行った時も引き続き従軍する。長坂坡の戦いの最中、逃亡する劉備を追跡するが、長坂橋で仁王立ちしている張飛に撃退されている。再び曹操と共に長坂橋に行くと、今度は橋が焼き払われていたため、李典は「橋を落としたのは伏兵のない証拠」と判断して再追撃を命じた曹操に「諸葛亮の罠ではないかと思われます」と進言した。曹操は李典の言葉を聞き入れ撤退している。209年、張遼の副将として合肥の守備を任され、呉の武将の宋謙を射殺し、さらに太史慈を計略にかけて討ち取っている。以降も史実と同様、合肥の守将として張遼を助けた。

以上のように相手の策を見破り進言する知性的な副将としての位置で描かれることが多い。