于禁

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

テンプレート:三国志の人物 于 禁(う きん、? - 黄初2年(221年)?)は、中国後漢末期から三国時代の武将。文則(ぶんそく)。兗州泰山郡鉅平県(山東省泰安市)の人。子は于圭。『三国志志に伝がある。

事跡

名将于禁

黄巾の乱に際して同郷の鮑信が義兵を募った時に、それに参加した。

初平3年(192年)、鮑信が戦死すると曹操の下に馳せ参じ、将軍の王朗[1]の配下に加えられ、都伯となった。王朗は于禁の才能を高く評価し、優に大将軍とするに足るとして推挙した。

曹操との面談により軍司馬に任命された于禁は、陶謙が治める徐州の広威を攻撃、これを陥落させ陥陣都尉に昇進した。呂布との戦いでも、濮陽の南にある呂布の別陣を2つ破り、別働隊を率いて須昌において将軍の高雅を破り、寿張・定陶・離孤の征討に参加、さらに張超が立てこもる雍丘を陥落させるなど功績を立てた。

豫州黄巾残党の黄邵劉辟らを征伐したときは、版梁において曹操の陣に夜襲をかけてきた黄邵らを直属の兵士を率いて撃退し、黄邵らを斬り残党を全て捕虜とした。平虜校尉に昇進した。

また苦における袁術軍の橋蕤包囲に従軍し、橋蕤ら4人の将を斬った。

建安2年(197年)(「武帝紀」)、曹操に従いまで行き張繍を降伏させた。その後、張繍が反乱を起こしたため、曹操軍は大混乱に陥り舞陰に撤退することになった。この時、于禁だけが手勢数百を率い、戦いながら退却したため、死傷者は出たものの離散者は出さなかった。途中、日頃から曹操に寛大に扱われている青州兵が、味方に略奪を働いたことを知ると、于禁は立腹してこれを攻撃した。青州兵は曹操に訴え出たが、于禁は弁明を後回しにし、敵の攻撃に備えて陣営を設け終わったところで、曹操の下に出向いて事情を詳しく説明した。曹操は「そなたの何事にも動じない節義は、古の名将に勝る」として賞賛した。

于禁の前後にわたる功績が評価され、益寿亭侯に封じられた。曹操に従軍して穣で張繡を攻め、下邳で呂布を生け捕りにし、別働隊として史渙曹仁とともに射犬で眭固を攻めて打ち破り、これを斬った。

建安4年(199年)(「武帝紀」)、曹操が袁紹討伐のため官渡に向かう(官渡の戦い)と、于禁は先陣を務める事を自ら望んだ。そこで于禁に延津を守備させて、曹操は軍勢をまとめて官渡に引き揚げた。劉備が徐州で叛逆したので、曹操は劉備を征討した。袁紹が于禁を攻撃したが、于禁の守りは堅く、袁紹は陥落させることができなかった。于禁は楽進らとともに歩・騎兵5000人を率いて袁紹の別働隊を攻撃し、延津の南側にある汲・獲嘉の県にあった袁紹の別陣30余箇所を焼き払い、敵兵1000人を討ち取り1000人を捕虜とし、袁紹軍の何茂・王摩ら20余人を降伏させた。曹操は于禁に別軍を率いさせて原武に駐屯させ、杜氏津の袁紹の陣を攻撃した。裨将軍に昇進した後、官渡に帰還した。曹操は土山を築いて袁紹と対峙していたが、袁紹に矢を射込まれ多数の死傷者が出て、将兵の士気が下がっていた。ところが、于禁が土山の守備を指揮し奮戦すると、士気を盛り返した。袁紹を破った後、于禁は偏将軍に昇進した。

荊州劉表に身を寄せた劉備が侵攻すると、夏侯惇の指揮下で撃退に赴いたが、博望坡で劉備の計略にかかり苦戦し、李典に救われている(「李典伝」・蜀志「先主伝」)。

冀州が平定された後に、昌豨が再び反乱を起こした[2]ため、その鎮圧に于禁が当たった[3]。昌豨は于禁が旧友であることを頼りに降伏したが、于禁は「包囲された後に降伏した者は赦さない」という法に従って、淳于に駐屯する曹操の指示を仰ぐべきだとする諸将の反対を押し切り、涙を流しながら自らの手で昌豨を処刑した。曹操はその判断を褒めながらも「于禁以外の将に降伏すれば良かったものの」と、昌豨を哀れんだと言う。東海が平定されると、于禁は虎威将軍に任命された。

張遼張郃臧覇らとともに陳蘭梅成を討伐した。最初、于禁と臧覇が梅成を攻撃して3000余の軍勢を降参させたが、後に梅成は再び叛き張遼・張郃が攻撃する陳蘭と合流したため、張遼らの軍勢は兵糧が不足した。しかし、于禁が兵糧輸送の任務に当たったため、攻撃が途絶えることはなく、張遼らは陳蘭を斬ることが出来た。

食邑を200戸加増し、以前と合わせて1200戸とした。

当時、于禁は張遼・楽進・張郃・徐晃とともに名将と謳われており、曹操が征伐に出るたび、皆代わる代わる、進攻のときは先鋒となり、撤退のときは殿軍となっていた。

于禁・楽進・張遼らは各々に軍を駐屯させ、いがみ合うことがあったが、趙儼が参軍となり彼らを統制した。曹操が荊州を征伐した時は、張遼・張郃・朱霊・李典・路招・馮楷の6将軍とともに、趙儼の統括下にあった(「趙儼伝」)。

于禁の人柄は剛毅で威厳があった。賊の財物を手に入れても懐に収めず、賞賜を与えるなど清廉でもあったが、法律を重視して部下を統率するなど法律を絶対視することがあり、あまり兵士・民衆の人望を得る事ができなかった。曹操は朱霊の軍勢を取り上げる時に、威名が轟いていた于禁に数10騎を与えて指令書を届けさせた。すると、朱霊やその部将たちは反抗することなく于禁に服従した。そして朱霊を于禁の部下にしたが、皆恐れて服従した。このように于禁は人々から一目置かれていた。

左将軍に昇進し、仮節鉞を与えられた。領邑を500戸分割し、一子も侯に取り立てられた。この時点での于禁は、王忠楊秋など客将扱いの将軍を除けば、官職上は曹操配下の外様武官の中では、楽進と並んで筆頭に位置し、親族を含めても、立場上曹操と対等である夏侯惇に次ぐ地位にあった。

晩節を汚す

建安24年(219年)、曹操が長安にいるときに、劉備配下の関羽が北上し曹仁の守備する樊城を包囲した(樊城の戦い)。于禁は援軍の将として七軍を率いて出陣した。この時、漢水を遡るつもりで船を用意していた関羽に対し、陸路を伝ってきた于禁らは船を持っていなかった。そこに漢水の氾濫が発生したため、于禁ら七軍は水没し、于禁は龐徳と共に、なす術もなく捕らえられ、于禁が率いていた3万の兵も捕虜となった。龐徳は曹操への忠義を貫いて打ち首となったが、于禁は関羽に降服して助命された。曹操は悲しみと嘆息を込めて「わしが于禁を知ってから30年になる。危機を前にし困難に遭って、(忠義を貫いて死を選んだ)龐徳に及ばなかったとは思いもよらなかった」と言ったという[4]

孫権が荊州を奪うと、江陵で捕虜となっていた于禁は、今度は孫権によって捕らえられ賓客として持て成されたが、虞翻にはその態度を罵倒され、さらに忠義を貫けなかった者への見せしめに于禁を殺すよう主張されたが、孫権は取り合わなかった。于禁は帰国した後、虞翻を大いに称賛したという(呉志「虞翻伝」が引く『呉書』)。

曹操が亡くなり、曹丕(文帝)が禅譲を受けて皇帝となると、孫権は魏に藩国としての礼を取った。221年、于禁は他の捕虜とともに魏に送還されることとなった。

曹丕が于禁を引見したとき、于禁は鬚も髪も真っ白で、顔はげっそりと窶れていた。曹丕は于禁を表向き慰め、安遠将軍に任命。への使者に任命するとして、高陵(曹操の墓)を参拝させた。曹丕は予め関羽が戦いに勝ち、龐徳が憤怒して降服を拒み、于禁が降服した有様を絵に描かせておいた。于禁はこれを見ると、面目無さと腹立ちのため病に倒れ、死去した。子の于圭が跡を継いだ。

は厲侯。厲は「無辜の者を殺戮した[5]」『災い』・『厳しい』などの意味がある。于禁は死後までも嘲られたのだった。于禁と同じく汚名を残したまま死去した鄧艾呉質が、後に汚名を返上する機会があったのに対し、于禁は最後まで機会が与えられなかった。

曹操の廟庭には建国の功臣が祀られたが、于禁と官位がほぼ同格の張遼・楽進・徐晃ら、格下の李典・龐徳・典韋らが祀られているにも関わらず、于禁は祀られていない。

北宋司馬光は『資治通鑑』で、「于禁は数万の将兵を率いていた。敗れても死ぬことができずに生きて降伏し、また帰って来た。文帝(曹丕)はこれ(于禁)を罷免することも、殺すこともできた。それなのに陵屋に(降服した有様を)描かせてこれを辱めた。君主のやることではない」と、曹丕の仕打ちを批判している。

三国志演義

小説『三国志演義』では、青州兵を処断し曹操軍をまとめた逸話が紹介されている一方、曹操に降伏した劉琮を曹操の命で暗殺したり(史実では劉琮は曹操に仕えた後、昇進を重ねている)、龐徳の忠義を疑い手柄の妨害をする場面があり、奸臣曹操の忠実な手先として貫徹している。哀れな最期を促すためか降服の場面では惨めな命乞いをしている。この描写は処刑された龐徳の忠義心を、より引き立てることになっている。弓馬の術に優れた将軍として登場するが、一騎打ちを行う機会は少なく、馬超と打ち合って逃げ去る場面がある程度である。また赤壁の戦いでは、毛玠と共に水軍都督となっている。

脚注

  1. 会稽太守王朗とは別人。この人物の出身郡や他の事蹟は不明。
  2. この反乱は2度目であり、1度目は張遼によって説得され、罪を許されていた
  3. 「臧覇伝」によると、臧覇も従軍。
  4. 于禁が降伏した事により、于禁ら数万人の捕虜のために関羽軍の兵站は圧迫された。『呂蒙伝』には、「関羽は于禁らを全て捕虜とした。関羽のもとに人馬数万が入り、食糧が乏しくなったことを理由に、湘関(当時、呉蜀の境にあった呉の関所)の米を勝手に奪い取った。」とある。
  5. 逸周書』「謚法解」

関連項目