曹芳
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テンプレート:基礎情報 中国君主 曹芳(そうほう)は、三国時代の魏の第3代皇帝。廃位されたため皇帝としての諡がなく、邵陵厲公と諡されている。一般的には即位前および廃位後の地位斉王で呼ばれることが多い。
生涯
先代の明帝の子が相次いで夭折したために、親族の秦王曹詢と曹芳の兄弟を養子に迎えて、皇太子候補として養育していた。だが、その経歴ははっきりと判明していない[1]。
景初2年(238年)に、邪馬台国女王卑弥呼の使者が明帝への拝謁を求めて洛陽に到着している。テンプレート:要出典範囲。
同3年(239年)正月朔(1日)、明帝が危篤となり皇太子に立てられ、その日の内に明帝の崩御に伴い皇帝に即位する。幼年(8歳)であるために、曹爽・司馬懿が補佐につき政務を取り仕切った。
同8年(247年)、太守王頎到官。この頃に半島の直轄化が完了した。
嘉平元年(249年)、司馬懿がクーデターを起こして曹爽一族、一党を追放・誅殺したため、これ以降魏は事実上司馬一族の支配するところとなった。
同3年(251年)、王凌が曹彪を擁してクーデターを図るが露顕。王凌は自殺、曹彪も死罪となる。司馬懿が死去し、司馬師が実権を握った。
同6年(254年)、李豊・夏侯玄・張緝らが司馬師を追放しようと計画するが失敗し、関係者は全て誅殺された。
この事件により司馬師は皇帝の廃位を計画し、既に成人しているのに政務を看ずに、色欲に耽っているという理由で同年廃位し、斉王に引き戻した。時に23歳であった。廃位後洛陽を去る時、数十名の朝臣のみが見送った。
脚注
血縁
后妃
- 甄皇后
- 張皇后
- 王皇后
- 邢氏(のちに孫壱の妻)
子
不詳