曹芳

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テンプレート:基礎情報 中国君主 曹芳(そうほう)は、三国時代の第3代皇帝。廃位されたため皇帝としてのがなく、邵陵厲公と諡されている。一般的には即位前および廃位後の地位斉王で呼ばれることが多い。

生涯

先代の明帝の子が相次いで夭折したために、親族の秦王曹詢と曹芳の兄弟を養子に迎えて、皇太子候補として養育していた。だが、その経歴ははっきりと判明していない[1]

青龍3年(235年)、斉王に封建された。

景初2年(238年)に、邪馬台国女王卑弥呼の使者が明帝への拝謁を求めて洛陽に到着している。テンプレート:要出典範囲

同3年(239年)正月(1日)、明帝が危篤となり皇太子に立てられ、その日の内に明帝の崩御に伴い皇帝に即位する。幼年(8歳)であるために、曹爽司馬懿が補佐につき政務を取り仕切った。

正始4年(243年)、元服。この年に倭王が朝貢している。

同5年(244年)、曹爽が蜀漢討伐を行うが失敗に終わった。

同7年(246年)、毌丘倹・王頎が高句麗を討伐する。

同8年(247年)、太守王頎到官。この頃に半島の直轄化が完了した。

嘉平元年(249年)、司馬懿がクーデターを起こして曹爽一族、一党を追放・誅殺したため、これ以降魏は事実上司馬一族の支配するところとなった。

同3年(251年)、王凌曹彪を擁してクーデターを図るが露顕。王凌は自殺、曹彪も死罪となる。司馬懿が死去し、司馬師が実権を握った。

同6年(254年)、李豊夏侯玄張緝らが司馬師を追放しようと計画するが失敗し、関係者は全て誅殺された。

この事件により司馬師は皇帝の廃位を計画し、既に成人しているのに政務を看ずに、色欲に耽っているという理由で同年廃位し、斉王に引き戻した。時に23歳であった。廃位後洛陽を去る時、数十名の朝臣のみが見送った。

泰始元年(265年)、が成立すると、邵陵公に降格された。

同10年(274年)に43歳で死去し、厲公とされた。

脚注

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血縁

后妃

  • 甄皇后
  • 張皇后
  • 王皇后
  • 邢氏(のちに孫壱の妻)

不詳

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  1. 三国志魏書斉王紀では、曹芳の実父は記されず、由来を知る者はない、とされている。ただし、裴松之注が引用する孫盛の『魏氏春秋』には、済南王曹楷(武帝曹操の孫で、曹彰の嫡子)の子という説が記されている。