日本民藝館

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日本民藝館(にほんみんげいかん)[1]は、東京都目黒区駒場四丁目にある、伝統的工芸品を主に収蔵展示する美術館。宗教哲学者、美術研究家で民芸運動の主唱者でもあった柳宗悦(やなぎむねよし)[2]によって創設された。運営は、公益財団法人日本民芸館[3]

柳宗悦と日本民藝館

日本民藝館の創設者である柳宗悦は、日本各地の焼き物染織漆器、木竹工など、無名の工人の作になる日用雑器、朝鮮王朝時代の美術工芸品、木喰(もくじき)の仏像など、それまでの美術史が正当に評価してこなかった、西洋的な意味でのファインアートでもなく高価な古美術品でもない、無名の職人による民衆的美術工芸の美を発掘し、世に紹介することに努め、「民芸運動」を創始したことでも知られている。[4]

柳は1889年(明治22年)、東京に生まれた。青年期には武者小路実篤志賀直哉らとともに雑誌『白樺』の同人となり、オーギュスト・ロダンなどの西洋近代美術を日本へ紹介することに尽力した。また、イギリスの詩人で画家でもあるウィリアム・ブレークに傾倒し、ブレークに関するいくつかの著作もある。

柳は、1914年(大正3年)、朝鮮陶磁研究家の浅川伯教(あさかわのりたか)との出会いを通じて朝鮮の美術に関心をもつようになる。浅川は当時柳が所有していたロダンの彫刻を見せてもらうため、それまで面識のなかった柳を千葉県我孫子の自宅に訪問した。その際、浅川が土産に持参した朝鮮の白磁に魅せられた柳は、以後朝鮮半島、特に朝鮮王朝時代の美術に傾倒し、1916年(大正5年)以降、たびたび訪朝するようになる。朝鮮半島は1910年(明治43年)以来日本の支配下にあったが、柳は朝鮮独自の文化を無視しようとする日本政府の政策に反発し、当時の美術史家や収集家がほとんどかえりみなかった朝鮮王朝時代の白磁、民画、家具などの素朴な美を世に紹介することに努めた。1921年(大正10年)には東京・神田にて日本初の朝鮮美術展を開催、1924年(大正13年)には、浅川伯教と弟の浅川巧の援助を得て、ソウル景福宮内に「朝鮮民族美術館」を開設するに至った[5]

柳は日本各地に個性的な仏像を残した江戸時代の遊行僧・木喰の再発見者としても知られ、1923年(大正12年)以来、木喰の事績を求めて佐渡をはじめ日本各地に調査旅行をしている。同じ1923年の関東大震災の大被害を契機として京都に居を移した柳は、実作者である濱田庄司河井寛次郎らの同士とともに、いわゆる「民芸運動(民藝運動)」を展開した。「民芸品売り場」「民芸調の家具」など、現代日本語の表現として定着している「民芸(民藝)」という言葉自体が、この時期柳らによって使い始められた造語である[6]。柳、濱田、河井らは、当時の美術界ではほとんど無視されていた日本各地の日常雑器、日用品など、無名の工人による民衆的工芸品の中に真の美を見出し、これを世に広く紹介する活動に尽力した。運動の中心であった柳は、当時ほとんど研究が進んでおらず、美術品としての評価も定まっていなかった日本各地の民衆的工芸品の調査・収集のため、日本全国を精力的に旅した。柳は、こうして収集した工芸品を私有せず広く一般に公開したいと考えていた。当初は帝室博物館(現在の東京国立博物館)に収集品を寄贈しようと考えていたが、寄贈は博物館側から拒否された。京都に10年ほど住んだ後にふたたび東京へ居を移した柳は、実業家大原孫三郎(株式会社クラレ大原美術館大原社会問題研究所などの創設者)より経済面の援助を得て、1936年(昭和11年)、東京・駒場の自邸隣に日本民藝館を開設した[7]。木造瓦葺き2階建ての蔵造りを思わせる日本民藝館本館は、第二次世界大戦にも焼け残り、戦後も民芸運動の拠点として地道に活動を継続してきた。

本館と展示

日本民藝館は広大な駒場公園(前田侯爵邸跡)に隣接し、付近は東京大学駒場キャンパス、日本近代文学館、旧前田侯爵邸などが所在する文教地区であるが、開館当時は水田と竹やぶに囲まれた東京の郊外であった。日本民藝館本館は、木造2階建瓦葺きの蔵造り風建築で、1階部分の外壁には大谷石を貼り、2階部分は白壁とする。木造の本館の背後には鉄筋コンクリート造の新館(1983年竣工)が建つが、本館と新館は内部で連絡しており、一体となった内部空間を形成している。

本館内部は1・2階とも、中央の階段ホールをはさんで左右に2部屋ずつ、計8部屋がある。このうち1階左手前の1室はミュージアムショップで、出版物や新作民芸品の売店として使われ、他の7室が展示室となっている。2階奥の新館部分(鉄筋コンクリート造)には、天井の高い特別展示室が設けられ、年数回開催される企画展示の会場となっている。

観覧者は本館入口で靴をスリッパに履き替えて入館する。館内は1階ホール部分が大谷石敷き、その他は板敷きの床となっており、採光には紙障子が使われ、陳列ケースも木製のものを用いるなど、純和風のインテリアになっている。展示品の名称は小さな板に手書き文字で書かれ、題名以外の解説的な文章は一切添えられていない。これは、知識の前にまず無心に物と向かい合うべきだという柳の信条に基づくものである[8]

日本民藝館の館長は、初代は柳宗悦自身、2代目が濱田庄司(1961年就任~1977年退任)、3代目は宗悦長男の柳宗理(やなぎむねみち/やなぎそうり、インダストリアルデザイナー)が就任した。2006年夏に館長を退任し名誉館長に就き、4代目館長に小林陽太郎が就任。2012年に5代目館長に深澤直人プロダクトデザイナー)が就任した。

コレクション

日本民藝館は、第二次世界大戦以前に開館した、日本でも数少ない美術館の1つである。近代日本における美術コレクターの多くは大実業家であり茶人であって、彼らの収集は名物の茶道具を中心としたものが多かった。これに対し、柳宗悦の収集品は当時(昭和時代初期)の美術界ではほとんど注目されず、タダ同然の安価で購入できた実用品、日常雑器の類である。柳は品物の伝来、由緒、銘の有無などにはこだわらず、自己の直感で美しいと信じるものを収集していった(なお、柳自身は茶道に無関心だったわけではなく、茶道に関する著述もある)。

1947年(昭和22年)に柳自らが記した『民藝館案内』という文章によれば、「民芸」とは「民衆的な工芸品」の意である。柳は、日本民藝館は工芸品を収集の中心とし、美術品についても工芸的な美しさをもったものを収集の対象とすると述べている。柳にとって民芸品の調査・収集は文化人類学や民俗学研究のための手段ではなく、「美しいもの」を求めること自体が第一の目的であった。柳の考える美とは、生活の中の美、実用に即した器物の美であり、本人がしばしば用いる言葉にしたがえば、「正しい工藝品」「健康の美」「正常の美」であった。館の収集品もこうした柳の美意識に沿って集められている[9]

収蔵品は絵画、陶磁器、漆器、染織品など多岐にわたるが、柳の収集の特色を顕著に示すものとしては、朝鮮半島の白磁、染付などの陶磁器、朝鮮民画、、初期伊万里染付、古丹波焼、大津絵、木喰の仏像、沖縄の染織品や陶芸、「かづき」「こぎん」などの東北地方の染織品、スリップウェアなどのイギリスの古陶器、濱田庄司河井寛次郎バーナード・リーチ芹沢銈介棟方志功などの同人作家の作品などがある。

施設

  • 本館 - 木造瓦葺き2階建て 総床面積685.26m²
  • 新館 - 鉄筋コンクリート造 総床面積754.46m² もと大広間のあった位置に1982年に新築したもので、内部空間は本館とつながっている。旧大広間は豊田市民芸館に移築された[10]。  
  • 西館 - 旧柳邸宅(近年修復され限定公開)と、栃木県から移築した、明治期建設の石屋根の長屋門(内部は非公開)。本館から道路を隔て向かい側にある。柳邸は月に4回ほど公開されている。

国指定・登録文化財

重要文化財

  • 絵唐津芦文壺

登録有形文化財

  • 本館
  • 本館附属塀
  • 西館長屋門及び附属塀

所在地・アクセス

  • 東京都目黒区駒場四丁目3番33号
  • 京王電鉄井の頭線駒場東大前駅下車徒歩5分
  • 開館時間 午前10時~午後5時 月曜休館
    • 西館(旧柳邸)は展覧会開催中に月4回公開。詳細は公式サイトを参照。

日本各地の民芸館

民芸運動の賛同者たちにより建てられ運営されている「民芸館」が日本各地に存在する。また、無名の職人たちの工芸品や民芸運動関係者らの作品は民芸運動の支援者によっても収集され、大原孫三郎のコレクションは大原美術館の「工芸館」に、山本為三郎のコレクションは京都のアサヒビール大山崎山荘美術館に、図師礼三のコレクションは日登美美術館にある。

本項の参考文献

  • 『日本民藝館案内』、財団法人日本民藝館編・発行、2004年。※柳が生前、雑誌『民藝』に寄稿した文章を収録したもの
  • 柳宗悦 『蒐集物語』 中公文庫、1989年、改版2005年、新版2014年
  • 『「特集 日本民藝館へいこう」 芸術新潮』、2005年7月号、新潮社
  • 『日本民藝館へいこう』 <とんぼの本>新潮社 坂田和実・尾久彰三・山口信博共著、2008年、上記『芸術新潮』の特集を単行本化。
  • 『日本民藝館手帖』 日本民藝協会ほか監修 (ダイヤモンド社、2008年)図版多数の公式ガイドブック的な書籍。 

関連文献

  • 柳の膨大な著作は『柳宗悦全集』(全22巻25分冊、筑摩書房、1980~92年)にまとめられた。
 ※文庫で参照しやすい文献としては次の著作がある。 
  • 『手仕事の日本』、『民藝四十年』、『柳宗悦民藝紀行』、『工藝文化』(各岩波文庫
  • 『民藝とは何か』、『工藝の道』(各講談社学術文庫
 ※収集家としての柳については、以下の文献を参照。
  • 『用の美 柳宗悦コレクション 全2巻』 日本民藝館監修、世界文化社、2008年
    • 上巻は「日本の美」 、下巻は「李朝、中国、西洋の美」の章構成。
  • 『柳宗悦の世界 別冊太陽』 尾久彰三監修、 平凡社、2006年 
  • 『柳宗悦蒐集 民藝大鑑』 <全集図録篇 全5巻>筑摩書房、1981~83年

脚注

  1. 館名の読みについて「にほん - 」「にっぽん - 」のいずれが正しいかは、公式サイトでは確認できないが、参考文献に掲げた『日本民藝館案内』(財団法人日本民藝館編・発行、2004)の2ページには英文で「Nihon Mingeikan」と表記されている。
  2. 「宗悦」の読みは「むねよし」が正しいが、「そうえつ」と音読み(有職読み)されることが多く、本人自身、英文の解説ではYanagi Soetsuとクレジットしていた。公式サイトの英文表記も Soetsu となっている。
  3. 公益財団法人としての名称は「日本民芸館」で、「芸」は常用漢字体になっている(公式サイトの「財団概要」のページを参照)。
  4. 柳が収集活動を行っていた時代の日本では「李朝」という用語が一般的で、柳自身ももっぱら「李朝」を用いているが、本項では「朝鮮王朝時代」の表記を用いる。
  5. 『芸術新潮』667号、pp.64 - 65
  6. 『芸術新潮』667号、p.65
  7. 開館までの経緯については柳宗悦「日本民藝館」『日本民藝館案内』所収、pp.8 - 11による。
  8. 陳列品の解説を付さない理由については、柳宗悦「日本民藝館陳列品の手引き」『日本民藝館案内』所収、pp.14の柳自身の説明による。
  9. こうした柳の「民芸理論」には批判的な見方もある。たとえば、出川直樹『民芸 理論の崩壊と様式の誕生』(新潮社、1988年)を参照。
  10. 『日本民藝館手帖』、p.109

関連項目

外部リンク

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