木喰
木喰(もくじき 1718年(享保3年)- 1810年7月6日(文化7年6月5日)は、江戸時代後期の仏教行者・仏像彫刻家。
日本全国におびただしい数の遺品が残る、「木喰仏」(もくじきぶつ)の作者である。生涯に三度改名し、木喰五行上人、木喰明満上人などとも称する。特定の寺院や宗派に属さず、全国を遍歴して修業した仏教者を行者あるいは遊行僧(ゆぎょうそう)などと称したが、木喰はこうした遊行僧の典型であり、日本全国を旅し、訪れた先に一木造の仏像を刻んで奉納した。
木喰の作風は伝統的な仏像彫刻とは全く異なった様式を示し、ノミの跡も生々しい型破りなものであるが、無駄を省いた簡潔な造形の中に深い宗教的感情が表現されており、大胆なデフォルメには現代彫刻を思わせる斬新さがある。日本各地に仏像を残した遊行僧としては、木喰より1世紀ほど前の時代に活動した円空がよく知られるが、円空の荒削りで野性的な作風に比べると、木喰の仏像は微笑を浮かべた温和なものが多いのも特色である。
生涯
1718年(享保3年)、甲斐国東河内領古関村丸畑(現在の山梨県南巨摩郡身延町古関字丸畑)の名主伊藤家に生まれる。父は六兵衛で次男。幼名は不明だが、彼の生涯については自身の残した宿帳や奉経帳記録や自叙伝である『四国堂心願鏡』、各地に残した仏像背銘などから、かなり詳細にたどることができる。1731年(享保16年)、14歳(数え年、以下同)の時、家人には「畑仕事に行く」と言い残して出奔(家出)し、江戸に向かったという。
『心願鏡』によれば、1739年(元文4年)、22歳の時に相模国(神奈川県伊勢原市)の古義真言宗に属する大山不動で出家したという。「木喰」と名乗るようになるのはそれから20年以上を経た1762年(宝暦12年)、彼はすでに45歳になっていた。この年、彼は常陸国(茨城県水戸市)の真言宗羅漢寺で、師の木食観海から木食戒(もくじきかい)を受けた[1]。当初「木喰行道」と称したが、76歳の時に「木喰五行菩薩」、さらに89歳の時に「木喰明満仙人」と改めている。
木喰が廻国修行(日本全国を旅して修行する)に旅立つのは、木食戒を受けてからさらに10年以上を経た1773年(安永2年)、56歳の時である。以後、彼の足跡は、弟子の木食白道[2]とともに北は北海道の有珠山の麓から、南は鹿児島県まで、文字通り日本全国にわたっており、各地に仏像を残している。確認できる最初期の仏像は1778年(安永7年)、61歳の時、蝦夷地(北海道南部)で制作したものである。つまり、仏像彫刻家としての木喰のスタートは61歳であり、30年後の91歳の時まで制作を続けていたことが、遺品から確認できる。この間、佐渡島に4年間、日向(宮崎県)に7年間留まったのを例外として、1つの土地に長く留まることなく、全国を遍歴した。木喰仏と言えば、特有の微笑を浮かべた仏像が多いが、蝦夷地で制作した初期の作品では、まだ作風もぎこちなく、表情も沈鬱なものが多い。
故郷の甲斐国丸畑には60歳、68歳、83歳の3度帰っている。83歳の1800年(寛政12年)の帰郷は、念願であった回国(日本一周)を果たした後で。同年10月に丸畑へ入る。木喰は甲斐国においてこの時期に最も多くの作品を残しているが、翌寛政14年に丸畑や横手など近在村人の依頼で丸畑に四国堂建立に取りかかり、同年3月から四国八十八箇所霊場にちなんだ八十八体仏のほか弘法大師像や自身像などを含めた九十体あまりの四国堂諸仏を製作し、四国堂に安置した。また、完成後の享和2年には自身の半生を回顧した『四国堂心願鏡』を著している。
四国堂諸仏は木喰晩年特有の群像による微笑仏で、造形的特徴として縁に放射状の刻みをもった頭背を持ち、三部の台座には最上部の荷葉に列弁状の彫刻が施されている。四国堂は大正時代に解体され、安置されていた木喰仏も四散した。1913年に柳宗悦が見た木喰仏も四国堂の旧仏であった。
木喰は故郷に安住することなく、85歳にしてまたも放浪の旅に出、91歳の1808年(文化5年)まで、仏像を彫っていたことが遺品からわかっている。91歳の時、甲府(甲府市金手(かねんて)町)の教安寺に七観音像(甲府空襲で焼失)を残し、甲斐善光寺において阿弥陀如来図を書き残してから木喰は消息を絶った。故郷の遺族にもたらされた記録によれば、1810年(文化7年)、93歳でこの世を去ったことになっている。最期の地は、木喰戎を受けた水戸の羅漢寺ではなかったかと言われているが、確証はない。
木喰の故郷である山梨県身延町には、彼を記念して木喰の里微笑館が建てられている。
木喰の再発見
木喰の存在は、没後1世紀以上の間、大正期に入るまで完全に忘れ去られていた。木喰を再発見したのは、美術史家で民藝運動の推進者であった柳宗悦(やなぎむねよし、1889年(明治22年)~1961年(昭和36年))であった。柳は1924年(大正13年)1月に山梨県池田村(現在の甲府市郊外)村長で郷土史研究者の小宮山清三[3]の自宅を訪れ、小宮山家所蔵の李朝陶磁器の調査をしていた際、偶然に同家所蔵の地蔵菩薩像、無量寿菩薩像、弘法大師像の3体の木喰仏を見出し、木喰仏の芸術性の高さに打たれたという。
当時は木喰の存在や木喰仏の先行研究や評価はなされておらず、柳は小宮山から地蔵菩薩像を贈られると、半年の間に懸案であった朝鮮民族美術館を京城(ソウル)で開館させた。
小宮山らの協力を得て木喰仏の調査研究のため、木喰の故郷である丸畑をはじめ日本各地を調査することになる。同年だけで300体以上の木喰仏を発見し、木喰仏の墨書銘や、納経帳や宿帳など自筆文書の発見により断片的な木喰の足跡が解明され、小宮山や山梨日日新聞社長の野口二郎らと雑誌『木喰上人之研究』を発刊する。柳は1926年まで木喰研究を行い、その後は民藝運動に専念している。『全集第7巻 木喰五行上人』(筑摩書房)に集成されている。
代表作品
- 五智如来(1800年)(山梨県身延町・永寿庵)
- 地蔵菩薩(1801年)(日本民藝館蔵)
- 七仏薬師、自刻像(1807年)(兵庫県猪名川町・毘沙門堂蔵)
- 勢至菩薩・聖観音、自刻像(1807年)(兵庫県猪名川町・天乳寺蔵)
- 十王尊・白鬼・葬頭河婆、自刻像、立木子安観音(1807年)(兵庫県猪名川町・東光寺蔵)
参考文献
- 五来重 『円空と木喰』(淡交社, 1997年) ISBN 4473015505
- 『木喰展-庶民の信仰、微笑仏 生誕290年』(神戸新聞社, 2008年)
- 小島梯次「木喰の作品」
- 近藤暁子「山梨の木喰仏」
- 森谷美保「柳宗悦の木喰研究 大正末期に起こった木喰仏発見の騒動について」
- 広井忠男著『野に生きる仏 木喰上人』(三条印刷)
- 広井忠男著『越後の木喰上人』(新潟日報事業社)
- 広井忠男共著『木喰仏の魅力』(郷土出版社)
脚注
- ↑ 「戒」とは仏教者として守るべき規律のことであり、「木食」とは五穀(米、麦、アワ、ヒエ、キビ)あるいは十穀(五穀+トウモロコシ、ソバ、大豆、小豆、黒豆)を絶ち(穀断ち)、山菜や生の木の実しか口にしないという戒律である。古来、木食上人と呼ばれた人物は他にも複数おり、豊臣秀吉に重用され、高野山の復興に尽力した木食応其(もくじきおうご)上人は中でもよく知られているが、木喰仏の作者である木喰上人の場合は、「口へん」の「喰」の字を使用する点で他の「木食上人」と区別しやすい。
- ↑ 白道は山梨郡上萩原村(甲州市塩山)に生まれた木喰僧で、安永2年(1773年)に伊豆国で木喰と出会い、木食戒を受けている。その後も木喰に同行して廻国し造仏を行っているが、近年山梨県立博物館による赤外線ビデオを用いた初期木喰仏の背面調査によれば、初期の木喰仏と考えられていたものは白道に造仏であると指摘されている。
- ↑ 小宮山は古美術の蒐集なども行っていた文化人で、後に朝鮮民芸を研究する浅川伯教・巧兄弟とは甲府教会の会員同士で交友もあった。