日本人街
日本人街(にほんじんがい)は、日本国外において、日本人が多く暮らす地域のこと。歴史的には日本人町とも言う。
日本と人的・経済的つながりの大きい国の都市などで、日本人移民や、企業などが派遣した駐在員が場合によって家族を伴いそこへ移住することにより、日本人を対象にした日本食料理店やスーパーマーケット、日本語の本を売る書店などの商店や、日本人向け住宅、日本人学校などの施設などが建てられ、日本人が集中して居住することにより発生することが多い。また中には、日本関連の商店が建ち並んでいるが、日本人自体はその都市の中で点在して居住している場合もある。
主な日本人街
北米
アメリカ合衆国のロサンゼルスには世界最大かつ最初の本格的な日本人街とされる「リトル東京(リトル・トーキョー)」がある。しかし、もともと民族街とは英語が不自由で、飲食業界に頼らなければならない貧しい移民の流入によって維持されているが、日本人移民の場合、1920年代にアメリカが日本人移民に対する受け入れ制限をしたことや、第二次世界大戦後の日本の経済成長により日本からの経済移民が消滅したことなどにより日本人移民者は激減した。日系人は第二次大戦後には文化的に同化し、さらに中産階級化していて、白人などの他人種・他民族との混血も進んでいる。また第二次世界大戦中の日系人の強制収容によってこれらの地域の多くは一時期完全消滅し、その後も以前の規模にもどることはなかった。2010年現在、18人の日系人が余生を過ごすカリフォルニア州ウォールナットグローブのKAWASHIMOが最後の日本人町となっている。
カナダにおいては、バンクーバー南郊のスティーブストンで19世紀後半より日本人移民が盛んになり、漁業を中心としたコミュニティーが第二次世界大戦開戦まで形成された。第二次世界大戦中はカナダでもアメリカ合衆国同様、日系人の強制収容が行われ、スティーブストンの日系コミュニティーは一旦消滅した。
また第二次世界大戦後も残った「リトル東京」やサンフランシスコ日本人街(en:Japantown, San Francisco)など比較的古参の日本人街は、現在は主に日本料理店や土産物屋などの日本人・非日本人向けの日本関連商店が建ち並ぶだけの観光地と化している。またこれらの店が日本人によって経営されているとは限らず「日本人街」の名が有名無実化したものもある。極端な例としてカナダのバンクーバー市のダウンタウンより東へ10分ほど向かったパウエル街周辺にバンクーバーの日本人街があるが、ここは数件の日本食料品店の跡や日本語学校などがあるのみで、昔のロサンゼルスのリトル東京の周辺のように犯罪や貧困が比較的目立つ地域になっており、麻薬などの売買や公園には浮浪者やホームレスの姿を見かけることもある。
なお、サンフランシスコの日本人街は、近鉄グループがホテルなどを所有していたが、同グループの再建策の中で、ロサンゼルスに拠点を集約し撤退することになったことから、存続が危ぶまれる意見もある。
また、日本人駐在員のほとんどはこれらの日系人街以外のエリアに在住しているため、日本人駐在員の多く住むロサンゼルス近郊のトーランスやニュージャージー州のフォートリー、イリノイ州シカゴ近郊のアーリントンハイツなどは、これらの日本人駐在員向けの店舗が立ち並ぶ「ミニ日本人街」と呼べるようなエリアが存在している。
南米
ブラジル最大の都市であるサンパウロの中心地にある「リベルダージ (Liberdade)」地区は、街の入口に鳥居や太鼓橋があり、また中心部にも大規模な日本式庭園が設置され、地区全体の街灯が提灯の形をしているなど随所に日本らしさを取り入れた街づくりがされている。日系人が経営するホテルや日本食レストラン、本屋などが立ち並び、サンパウロに住む日本人駐在員や日系ブラジル人だけでなく、多くのブラジル人で活況を見せている。
しかし今日においては、アメリカと同様日本人の移民が途絶えた上に、中華民国や中華人民共和国、韓国からの移住者も増え、同時に日系ブラジル人も現地人との同化と中流化により他地域へ拡散しつつあることもあって日本人、日系人の比率を減少させており、現在では「東洋人街」とされているが、街づくりや人口比率からして依然として日本人街と呼べるものである。
また、サンパウロには日本人駐在員の子弟向けの日本人学校や日本人幼稚園、学習塾もあるものの、敷地の問題もあり日本人街の中ではなくその周辺や郊外に設置されている。
ボリビアにあるサンフアン・デ・ヤパカニ移住区には、第二次世界大戦後の1950年代から多くの日本人移住者が住み、現在も国際協力機構の援助などを通じ日本と結びつきを保っているものの、日本とボリビアには経済的な結びつきが少ないため日本人駐在員は在住していない。
欧州
ヨーロッパにおける多くの日本企業の拠点であり、多くの日本人駐在員を抱えるドイツのデュッセルドルフには、日系の百貨店や領事館を中心に、食料品店や書籍店が複数並んでいる。夏には祭りを開催するなど、現地との交流も積極的である。
また、日本企業の駐在員や留学生が多く住むパリでは、オペラ座(オペラ・ガルニエ)周辺に日系デパートや銀行、日本人向けの店が集中している。特にサンタンヌ通り(Rue Ste Anne)では、日本料理店、ラーメン屋、酒屋、日本の書籍やビデオを売る店等が軒を連ねている。フランスでは日本のアニメ・漫画・映画に人気があり、また、錦絵の影響から生まれた印象派など、日本文化との交流の歴史があるので、日本人以外にフランス人の客も多い。
アジア
韓国のソウルには日本人駐在員とその家族など9500人が住むが[1]、そのうち1300人は龍山区二村洞(イチョンドン)に居住している。この地域には日本料理店や日本人向けの商店があり、銀行には日本人専用窓口が設けられ、幼稚園には日本人児童クラスもある。
タイに居住する日本人のほとんどが首都のバンコクに集中しており、その数は2012年現在で約4万人にのぼる[2]ため、広大な日本人のネットワークが存在する。バンコク居住の日本人はスクムウィット通りのソイ23~ソイ55(BTSスクムウィット線アソーク駅~トンロー駅)周辺の高級マンションを中心に多く住んでおり、この付近には日本人向けのスーパーや日本料理店、書店も集中している。
中国の上海では、日本領事館近くの古北(グーベイ)新区に日本人駐在員が集住し、日本人向けの店が集中しており「日本村」等と呼ばれている。北京の亮馬橋(リャンマーチャオ)や日本大使館付近の好運街(ハオユンジェ)なども有名な日本人街である。
マレーシアのクアラルンプールでは、高級住宅地のモントキアラ(Mont Kiara)に日本人駐在員家族が多く住んでおり「Japanese Village」と呼ばれているほか、ダマンサラ(Damansara)やKL日本人会近くのタマンデサ(Taman Desa)にも集住している。
日本人町
歴史的には、朱印船貿易で日本人が移住した東南アジア諸港に日本人町が形成された。その最大のものはタイのアユタヤ日本人町で、他にもベトナムのホイアン(世界遺産)、マレー半島のパタニ王国、カンボジアのプノンペン、フィリピンのマニラにも同様の小規模な日本人町があった。これらの日本人町は、江戸幕府の鎖国政策により日本との往来が途絶えたため、日本人が現地人と同化する形で消滅した。また朝鮮半島では中世に三浦倭館と称する日本人居留地があり、近世には釜山の草梁倭館となった。他にもボリビアのリベラルタにも第二次世界大戦前後に日本人町があったが戦後急速に縮小・同化した。
日本租界
19世紀後半から20世紀前半にかけて、列強諸国は中国の主要都市に租界を設置したが、日本も日清戦争後に天津、漢口などで日本人居留地として租界を開設した。これらの日本租界は、一般の日本人街とは異なり、日本が治外法権を獲得したほか、行政機関や警察署の運営も行った。上海には日本租界は存在しなかったものの、アメリカやイギリスとともに共同租界を形成し、日本も列強の一員として行政に参与し、日本人居住者が多かった虹口地区は通称「日本租界」と呼ばれていた。日本租界は中国のほか、日韓併合までの朝鮮にも存在した。
また長春以南の満州各都市には、日露戦争後、日本の国策会社である南満州鉄道が行政運営を行う鉄道付属地が設置され、日本人の都市在住者の多くがここに居住した。
関連項目
脚注
- ↑ 海外在留邦人数調査統計 平成25年(2013年)要約版(PDF), 外務省, 2012年10月1日現在.
- ↑ 海外在留邦人数調査統計 平成25年(2013年)要約版9頁(PDF), 外務省, 2012年10月1日現在.