日光杉並木

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日光杉並木(日光〜今市間)

テンプレート:Mapplot

ファイル:Cedar Avenue of Nikko aerial photograph.JPG
日光杉並木の空中写真(1976年撮影)
画像左上の今市市街地から右(東)方向へ伸びるのが日光街道、右下(南東)方向へ伸びるのが日光例幣使街道
国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成

日光杉並木(にっこうすぎなみき)は、日光街道日光例幣使街道会津西街道の3街道に跨がるスギ並木道日光杉並木街道(にっこうすぎなみきかいどう)とも呼ばれる。

概要

日光杉並木は、日光街道、日光例幣使街道、会津西街道のうち、旧日光神領内にあたる大沢-日光間16.52キロメートル、小倉-今市間13.17キロメートル、大桑-今市間5.72キロメートルの3区間の両側にスギが植栽された並木道である[1]。総延長は35.41キロメートルに及び、世界最長の並木道としてギネスブックに登録されている[2]。(→#並木の長さ参照)

徳川家康秀忠家光の三代に仕えた松平正綱が、主君家康の没後、日光東照宮への参道にあたる3街道に約20年の歳月をかけてスギを植樹し、東照宮に寄進したことに始まり、江戸時代には幕府の日光奉行の元で手厚く保護された。明治以降は幾度も伐採の危機に瀕するものの、官民双方の有識者の努力によって大規模な伐採は避けられてきた。中でも、地元出身の林学者で「杉並木博士」と呼ばれた鈴木丙馬は、杉並木の研究と保護に生涯を捧げ、保護運動の中心となって活躍した[3]

周辺の開発によって旧態を失った箇所もあるものの、植樹から400年近く経った現在でも約12,500本のスギが生い茂り[4]、寄進碑や一里塚も現存するなど、江戸時代の街道の景観をよく伝えており[5]、歴史的にも植物学的にも特に重要とされ、日光杉並木街道 附 並木寄進碑(にっこうすぎなみきかいどう つけたり なみききしんひ)として、全国で唯一特別史跡および特別天然記念物の二重指定を受けている。

現在も生活道路として利用されているが、街道を通る自動車排気ガスや沿線の開発によるの切断などによって樹勢の衰えが進行し、毎年平均して100本以上のスギが倒木や枯死により姿を消している[6]。保護が叫ばれて久しいものの、減少のペースに歯止めを掛けるには至っていない[7]。このままでは100年後には消滅してしまうとも言われ[6]、早急な対策が必要とされている。

並木の長さ

並木杉の寄進碑間距離の総計は約37kmであるが、現存する並木杉の端から端までを測った場合は35.41キロメートルとなる[2]。特別史跡および特別天然記念物には寄進碑間距離の37キロメートルで指定されており[8]、ギネスブックには寄進碑を含まない実延長の35.41キロメートルで認定されている。

歴史

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杉並木寄進碑(日光街道)
松平正綱、植樹に着手。
松平正綱徳川家康の三十三回忌に日光東照宮へ杉並木を寄進。
大鳥圭介(旧幕府)軍が野口十文字に陣をはり新政府軍の砲撃にあう。
「日光杉並木街道 附 並木寄進碑」として国の史跡天然記念物に指定される。
今市地震で十石坂より鹿沼寄りの並木が地すべりを起こす。
国の特別史跡に指定。
国の特別天然記念物に指定。

維持管理

日光杉並木保護財団および栃木県文化財課により樹勢回復事業が行われている。

平成8年秋より事業費を捻出するため「日光杉並木オーナー制度」が開始された。

当該国道

日光街道国道119号
日光市松原町付近(日光市山内の神橋付近の杉も含むという説もある)から日光市山口付近まで
例幣使街道国道121号
日光街道より枝分かれし日光市今市(追分地蔵尊前)から同市と鹿沼市の境界付近まで
会津西街道/国道121号
日光市豊田付近から同市大桑付近まで

名所・名木

日光街道

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杉並木寄進碑(神橋畔)
並木太郎
日光市七里(しちり)。杉並木で一番大きいと言われている。日光東中学校の校歌にも出てくる。
銀杏杉
日光市七里。根元が銀杏の葉のような形をしている。
砲弾打込杉
日光市瀬川。戊辰戦争の際に大鳥圭介軍がこの付近に陣を張ったため、新政府軍の砲撃を受けた際の砲弾が当たってしまった杉。
七本杉伐跡
日光市瀬川。七本の杉が密着したため根が一つに見えるようになっていた。現在は切り株が残るのみである。
桜杉
日光市森友。杉の割れ目に山桜が芽吹いたため、合体してしまった。並木の中でもとても珍しい杉で、春になるとすばらしく見事な花を咲かせる。
並木ホテル
日光市森友。根元にある洞が大きく、人が四人泊まれるほどになっている杉。
杉並木寄進碑
日光市山口。

例幣使街道

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杉並木寄進碑(例幣使街道)
追分地蔵
日光市匠町の含満ヶ淵(がんまんがふち)にあった地蔵が大谷川の洪水で流れたものと伝えられており、日光街道と例幣使街道の分岐点に安置された。
室瀬一里塚
日光市室瀬。
十石坂
日光市室瀬。東照宮に使う石材を運搬した人夫がこの坂を越えるのに飯を十石も食べたといわれている。
地震坂
日光市明神。1949年12月26日の今市地震で街道ごと杉並木が地すべりを起こした坂。別名地すべり坂。
杉並木寄進碑
日光市小倉。

会津西街道

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杉並木寄進碑(会津西街道)
二重並木
日光市倉ヶ崎。
杉並木寄進碑
日光市大桑。

出典

  1. 日光市. "日光市/杉並木街道"。
  2. 2.0 2.1 下野新聞社[1994: 62-63]
  3. 下野新聞社[1994: 36-41]
  4. 2008年4月に実施された栃木県教育委員会文化財課の調査によると、12,477本である[1]
  5. 文化庁. "国指定文化財データベース". 2010年1月30日 閲覧。
  6. 6.0 6.1 下野新聞社[1994: 2-3]
  7. 下野新聞社[1994: 2]
  8. 下野新聞社[1994: 62]

関連項目

参考文献

  • 下野新聞社「日光杉並木」取材班 『日光杉並木』 下野新聞社、1995年 ISBN 4-88286-050-3
  • 「杉並木物語」編集委員会 『杉並木物語』 今市市教育委員会、1994年
  • 鈴木丙馬 『日光杉並木300年の記録』 農林出版、1964年
  • 本田正次ほか著 文化庁・栃木県教育委員会監修 『日光杉並木街道』 日光東照宮、1978年 

外部リンク

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