慶安御触書
テンプレート:出典の明記 慶安御触書(けいあんおふれがき、慶安のお触書とも)は、江戸時代の第3代将軍徳川家光期にあたる慶安2年(1649年)に、江戸幕府が農民統制のために発令された幕法とされている文書。現在では幕法ではなく、元禄10年(1697年)に甲斐国甲府藩領で発布されていた農民教諭書が慶安年間の幕法であるとする伝承が付加され広まったものであると考えられている。
概要
原本は発見されておらず、写本によれば百姓に対し贅沢を戒め、農業など家業に精を出すよう求めた内容で、32ヶ条と奥書から成り立つ。
江戸時代の『徳川実紀』や明治期に司法局が編纂した幕府法令集『徳川禁令考』に収録されたことから、幕法であるとする見解が広く流布していた。昭和戦後期には民衆史への関心の高まりからも幕府の農民統制を示す史料として注目され続け、歴史教科書においても紹介されていた。しかし、明治期から疑問視する説や偽書説が存在していた[1]。太平洋戦争後も、キリスト教を禁止する規定がないことや、『御触書集成』など幕府の法令集に収録されていないことなどを理由に、実在を疑問視する指摘がなされてきた[1]。近年は自治体史の刊行などを通じて史料調査が進み、古写本の検討から甲信地域に広く残されている農民教諭書「百姓身持之事」が元禄10年(1697年)に甲府藩において「百姓身持之覚書」として成文化され、木版印刷により諸国へ広まったものであると考えられている。
「慶安御触書」の呼称が用いられたのは美濃国岩村藩で出版された木版本で、肥前国平戸藩主の松浦静山「甲子夜話」によれば、静山は幕府学問所総裁の林述斎から岩村藩に慶安年間発令の幕法が存在していると聞かされており、述斎は藩政改革が実施されていた岩村藩において「慶安御触書」を流布させていたという。述斎は「慶安御触書」を『徳川実紀』にも収録させており、これを契機に社会構造が動揺し飢饉や一揆などが多発した天保年間には「慶安御触書」は慶安年間の幕法として諸国に広まったと考えられている。
この文書は徳川政権の対農民政策を象徴する文書として扱われていたが、長年全国的に適用された法なのか、それとも幕府直轄領・旗本領に対する限定的な法なのかで議論されてきた。だが、近年になって慶安2年当時の原本が見つからない事や、甲斐国や信濃国など一部の地域でしかこれを記した文書が見つからない事などから偽書・偽文書とみなす説や、幕府や諸藩が出した農民統制の法令を慶安年間に仮託して集成したものとする説も現れた。その一説として、100年以上も後の宝暦 - 天明期(1751-1789年)の農民教諭書が修正・補筆されて「慶安御触書」として流布されたというものもある。近年では「慶安御触書」を記載しない歴史教科書も多くなっている。
だが、江戸時代後期にはこれを真正の幕府法と信じて、自領の統治に応用していた藩も少なからずあるとも言われており、当時における社会的な影響力は決して小さくはなかったようである。
主な内容
底本により含まれる条文は異なるが、以下に一例を挙げる。
- 幕府の法令を怠ったり、地頭や代官のことを粗末に考えず、また名主や組頭のことは真の親のように思って尊敬すること。
- 酒や茶を買って飲まないこと。妻子も同じ。
- 農民達は粟や稗などの雑穀などを食べ、米を多く食べ過ぎないこと。
- 農民達は、麻と木綿のほかは着てはいけない。帯や裏地にも使ってはならない。
- 早起きをし、朝は草を刈り、昼は田畑を耕作し、夜は縄を綯い、俵を編むなど、それぞれの仕事を油断無く行うこと。
- 男は農耕、女房は機織りに励み、夜なべをして夫婦ともよく働くこと。たとえ美しい女房であっても、夫のことをおろそかにし、茶を飲み、寺社への参詣や遊山を好む女房とは離別すること。しかし、子供が多くあり、以前から色々と世話をかけた女房であれば別である。また、容姿が醜くても、夫の所帯を大切にする女房には、親切にしてやるべきである。
- 煙草を吸わないこと。これは食物にもならず、いずれ病気になるものである。その上時間もかかり、金もかかり、火の用心も必要になるなど悪いものである。全てにおいて損になるものである。
脚注
参考文献
- 山本英二「「慶安御触書」成立試論」『山梨県史研究』第2号、1994