広瀬哲朗
テンプレート:Infobox baseball player 広瀬 哲朗(ひろせ てつろう、1961年1月23日 - )は、静岡県出身の元プロ野球選手(内野手)。
現役時代は日本ハムファイターズで活躍した。引退後は野球解説者、タレントとなる。また、野球日本女子代表の監督、顧問も務める。
目次
来歴・人物
静岡県立富士宮北高校から駒澤大学に進学。同野球部では東都大学リーグ通算99試合出場、352打数100安打、打率.284、2本塁打、32打点。ベストナイン4回。1982年のプロ野球ドラフト会議にヤクルトスワローズから4位で指名されたが拒否[1]し、本田技研工業に就職し同野球部で活動。駒澤大から本田技研に移る段階では卒業単位を満たしていなかったが、本田技研時代に単位を取得し、卒業している。その後、1985年のプロ野球ドラフト会議で日本ハムファイターズに1位指名[2]され入団した。ヤクルト指名時は川相昌弘の外れ4位、日本ハム指名時は清原和博の外れ1位という二度の代役指名を経験した。[3]
入団当初から守備力があり、テンプレート:ByのジュニアオールスターゲームでMVPを獲得したが、打撃が弱く、一軍への定着は遅かった。テンプレート:By、近藤貞雄が監督に就任すると、一芸に秀でた選手を好む同監督のもとで、バント要員、守備固め、代走での出場を主として頻繁に起用されるようになった。テンプレート:By、大沢啓二監督に闘志を買われ主将に就任[3]、32歳にして遊撃手のレギュラーに定着した。
1993年とテンプレート:Byには2年連続でベストナインとゴールデングラブ賞(遊撃手部門)を受賞した。[4]
テンプレート:Byからは、田中の遊撃手再コンバートに伴い三塁手として出場。同年のパシフィック・リーグ東西対抗でマウンドに上がったイチローと対戦し、投手ゴロに打ち取られた。広瀬によれば、本来は清原和博(当時西武ライオンズ)が打席に入るところだったが、清原が広瀬に「俺が打席に入って三振でもしたらどうするんだ。広瀬さん、行ってくれ」と言ったそうである(勇者のスタジアム・プロ野球好珍プレーより)。
1997年は、落合博満の加入により一塁手の片岡篤史が三塁コンバートとなったため、広瀬の出番は大きく減る。
テンプレート:Byは故障のためシーズン序盤で戦線離脱。復帰後は出番が一・二軍共に殆ど無く、チームは一時快進撃を見せながらも終盤失速して2位止まり。一度も優勝を味わうことなく現役を引退した。
現役時代の応援歌冒頭のファンファーレは映画『男はつらいよ』のテーマ音楽だった。[3]実際に『男はつらいよ』の大ファンで、移動のバスの中でもビデオで鑑賞していたという。[3]
引退と同時にテレビ朝日・文化放送解説者に就任。タレントとしても活動する(テンプレート:Byからテンプレート:Byには、文化放送でワイド番組のパーソナリティも務めた)。2001年には「広瀬哲朗&紫艶」名義のシングルCD『ジェラシー☆ゲーム』で歌手デビューもしている。そのかたわら、2001年からテンプレート:Byまで野球日本女子代表監督を務め、テンプレート:By・テンプレート:Byには女子野球世界大会で優勝する。テンプレート:Byに日本ハムの北海道移転構想が発表された頃から北海道での活動が多くなり、後に北海道に住居を移している。2003年には北海道放送の野球解説者、日本ハムが移転した翌2004年にはSTVラジオ・北海道文化放送の野球解説者に就任。同年4月からは同局の『YASUのえき☆スタ@noon』(現:『土曜えき☆スタUP』)にレギュラー出演した。2005年3月からは『スポーツワイド Fの炎〜SPORT HOKKAIDO〜』のコメンテーターを担当した。
北海道ではSTVラジオ・北海道文化放送以外の放送局でのプロ野球中継でも解説を担当することがある。中継では「ファイターズのご意見番」と紹介されることもある。その風貌、さらには話し方も良く似ていることからか松山千春とよく間違えられ、ものまね番組に出演して松山千春のマネをしたこともある。
2005年からは、北海道釧路市で定期的に開催される少年野球教室「広瀬塾(Hirose Baseball Academy)」の塾長として活躍している。当時はファイターズ応援団KUSHIRO代表今井康喜、コーチングスタッフ佐藤亮樹、御厨琢二の4人体制で指導にあたっていた。その後『釧路リトルシニア(廣心球団)』の総監督を務めていたが、テンプレート:By4月、広瀬と同じ元日本ハムファイターズ出身選手で現在熊本県熊本市のリトルシニアチーム「熊本南リトルシニア」の総監督を務めている二村忠美から熊本の子供たちに野球を教えて欲しいとの依頼を受け、チームの監督に就任した。
2005年2月12日に自身が総監督を務める社会人野球チーム「サウザンリーフ市原」が千葉県野球連盟に加盟申請。その後サウザンリーフ市原を辞めてCBC北海道(現・北海道マーリンズ)へ転じ、こちらで総監督を務めている。なお、このチームのスーパーアドバイザーには松山千春が就いている。
2009年11月10日、2011年に発足予定の独立リーグ・ベースボール北海道のゼネラルマネージャーに就任することが発表されたが、翌年1月にリーグへの参加を見送ることが明らかになった。
趣味は、落語で柳家権太楼のファン。現役時代、テレビ番組の企画で広瀬が権太楼に弟子入りし、短いが寄席(会場も鈴本演芸場)で落語を披露したことがある。
息子の広瀬武央は声優志望で、2009年4月から2010年3月まで文化放送明・めぐみのドリーム・ドリーム・パーティに「D.F.A(ディーファ、番組に出演している日本工学院の生徒の総称)6期生」として出演していた。
歌手の久保田利伸は中学時代および大学時代の後輩。後年、日本ハムのシャウエッセンのCMで共演した。
プレースタイル
打撃は弱かったが遊撃手としての守備力は高く、大学の一年後輩の白井一幸との二遊間の守りは鉄壁と呼ばれた。それ以前の遊撃手のレギュラーだった田中幸雄 (内野手)が外野にコンバートされたのは、田中の肘の故障という理由のほかに、左翼手の守備位置から広瀬の守備を見て勉強させるという首脳陣の意図もあった。
独特のタイミングの取り方から右打ちに徹底したバッティングで打撃が開花し、果敢なヘッドスライディングなどの闘志溢れるプレー(二塁や三塁・本塁ならともかく、内野安打で一塁にヘッドスライデイングをし、セーフになって地面を叩くプレーは珍プレーでよく出る。)更に自身のスキンヘッド(20代終盤から薄毛進行のため)の風貌と、独特のキャラクターで人気を博し、パシフィック・リーグ有数のガッツマンとして名を残した。だが打撃は後に相手チームに研究され、「広瀬シフト」[5]と呼ばれる守備シフトを敷かれるようになると、安打数が激減した。
詳細情報
年度別打撃成績
テンプレート:By2 | 日本ハム | 40 | 68 | 62 | 10 | 8 | 2 | 0 | 2 | 16 | 4 | 2 | 1 | 4 | 0 | 2 | 0 | 0 | 9 | 3 | .129 | .156 | .258 | .414 |
テンプレート:By2 | 44 | 35 | 30 | 11 | 6 | 2 | 0 | 0 | 8 | 3 | 3 | 0 | 2 | 0 | 2 | 0 | 1 | 4 | 1 | .200 | .273 | .267 | .539 | |
テンプレート:By2 | 32 | 46 | 37 | 8 | 8 | 0 | 0 | 1 | 11 | 2 | 0 | 1 | 2 | 0 | 7 | 0 | 0 | 3 | 0 | .216 | .341 | .297 | .638 | |
テンプレート:By2 | 70 | 17 | 16 | 14 | 5 | 2 | 1 | 0 | 9 | 1 | 6 | 5 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 5 | 0 | .313 | .353 | .563 | .915 | |
テンプレート:By2 | 72 | 142 | 123 | 18 | 29 | 7 | 2 | 1 | 43 | 11 | 8 | 0 | 9 | 0 | 9 | 0 | 1 | 21 | 2 | .236 | .293 | .350 | .643 | |
テンプレート:By2 | 94 | 92 | 76 | 8 | 15 | 1 | 1 | 0 | 18 | 5 | 5 | 2 | 10 | 1 | 4 | 0 | 1 | 18 | 1 | .197 | .244 | .237 | .481 | |
テンプレート:By2 | 96 | 171 | 146 | 18 | 38 | 6 | 1 | 1 | 49 | 14 | 7 | 0 | 16 | 0 | 8 | 0 | 1 | 19 | 3 | .260 | .303 | .336 | .639 | |
テンプレート:By2 | 116 | 470 | 412 | 52 | 115 | 17 | 0 | 0 | 132 | 29 | 21 | 7 | 17 | 0 | 40 | 1 | 1 | 63 | 7 | .279 | .344 | .320 | .665 | |
テンプレート:By2 | 124 | 549 | 467 | 52 | 131 | 12 | 3 | 2 | 155 | 29 | 20 | 12 | 12 | 2 | 63 | 0 | 5 | 66 | 5 | .281 | .371 | .332 | .702 | |
テンプレート:By2 | 113 | 506 | 442 | 50 | 118 | 11 | 1 | 2 | 137 | 35 | 4 | 4 | 13 | 1 | 49 | 1 | 1 | 59 | 10 | .267 | .341 | .310 | .651 | |
テンプレート:By2 | 119 | 446 | 390 | 40 | 100 | 21 | 3 | 3 | 136 | 34 | 8 | 2 | 19 | 3 | 32 | 0 | 2 | 47 | 7 | .256 | .314 | .349 | .663 | |
テンプレート:By2 | 46 | 72 | 67 | 4 | 19 | 4 | 0 | 0 | 23 | 6 | 0 | 0 | 0 | 2 | 3 | 0 | 0 | 6 | 4 | .284 | .306 | .343 | .649 | |
通算:12年 | 966 | 2614 | 2268 | 285 | 592 | 85 | 12 | 12 | 737 | 173 | 84 | 34 | 104 | 9 | 220 | 2 | 13 | 320 | 43 | .261 | .329 | .325 | .654 |
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- 各年度の太字はリーグ最高
表彰
- ジュニアオールスターゲームMVP (1986年)
- ベストナイン:2回 (1993年、1994年)
- ゴールデングラブ賞:2回 (1993年、1994年)
記録
- 初出場:1986年4月9日、対西武ライオンズ2回戦(後楽園球場)、6回表に高代慎也に代わり遊撃手として出場
- 初安打:1986年5月5日、対ロッテオリオンズ3回戦(川崎球場)、6回表に村田兆治から二塁打
- 初先発出場:1986年5月6日、対阪急ブレーブス3回戦(平和台球場)、2番・遊撃手として先発出場
- 初本塁打・初打点:1986年5月18日、対阪急ブレーブス8回戦(阪急西宮球場)、2回表に池内豊から2ラン
- シーズン守備率:.991 (1992年)※達成当時、遊撃手としてのパ・リーグ新記録
- オールスターゲーム出場:2回 (1993年、1994年)
背番号
- 1 (1986年 - 1998年)
関連情報
出演番組
- 情熱Night!(金曜パーソナリティ)
- BASEBALL SPECIAL〜野球道〜
- スポーツワイド Fの炎~SPORT HOKKAIDO~…2007年12月25日の放送をもって卒業扱いとなった。
- YASUのえき☆スタ@noon
- 広瀬哲朗のファイターズ何でも言っちゃうよ
- 文化放送ライオンズナイター
- 上記『ライオンズナイター』の中継(パシフィック・リーグ公式戦開催)が原則組まれない日の同枠でのスポーツワイド番組(2000年・2001年)。
- 広瀬哲朗のだから言ったでしょ(2000年、月曜17:57 - 19:00)
- 広瀬哲朗のパ・リーグ応援株式会社(2001年、木曜17:57 - 19:00)
- 文化放送ホームランナイター
著書
- ふっざけんな!―やる気しだいで人生なんとでもなる(1999年3月、竹書房 ISBN 4812404797)
- プロ野球 オレだけが知っているナイショ話(2000年6月、ソニーマガジンズ ISBN 4789715809)
CD
- ジェラシー☆ゲーム(広瀬哲朗&紫艶、2001年6月21日、ガウスエンタテインメント)
- カップリング曲として「嘘は罪」(広瀬のソロボーカル)も収録。
Vシネマ
- 麻雀飛龍伝説 天牌(2001年、ケイエスエス)
脚注
- ↑ 拒否した理由については、「当初2位指名をしてくれると約束してくれたが、4位指名になったから」とトークショーで明かしている。
- ↑ 清原和博(当時PL学園高校)の交渉権獲得に失敗したのちに指名された。
- ↑ 3.0 3.1 3.2 3.3 テンプレート:Cite web
- ↑ 本人によると、両年のゴールデングラブ賞の賞金があったから千葉県内に一戸建ての自宅を建てる事が出来たという。
- ↑ 松井(松井秀喜)シフトや王(王貞治)シフトと同じもの。遊撃手、二塁手、一塁手が一、二塁間に陣取り三塁手は定位置よりやや遊撃寄りに位置する守備隊形。遊撃方向はガラ空きだが、一、二塁間が非常に堅固になる。通常は左打ちの強打者に取られるシフトである。
関連項目
外部リンク
- 広瀬哲朗 official homepage(インターネットアーカイブの保存キャッシュ一覧)
- システムブレーンのプロフィール