小笠原信嶺

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小笠原 信嶺(おがさわら のぶみね)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。弟に長巨がいる。

生涯

天文16年(1547年)、伊那小笠原氏出身の信濃松尾城主・小笠原信貴の長男として生まれる。父と同様に武田信玄配下の信濃先方衆として働いた。信玄の死後も引き続き武田勝頼に仕えて、遠江方面の要衝を守っていた。

しかし天正10年(1582年)、織田信長による甲州征伐がはじまると、すぐに信長に降伏して織田軍の道案内役を務めた。同年6月、信長が本能寺の変で死去したため、天正壬午の乱では徳川家康に属し、家康の家臣酒井忠次の家臣として各地を転戦、松尾城などの知行を安堵されるとともに、天正12年(1584年)には、元武田家臣の下条頼安を誘殺するなど支配力の強化にも努めた。

天正18年(1590年)に家康が関東に入部した際、武蔵児玉郡本庄に1万石を与えられ、本庄城主(本庄藩の藩祖)となる。本庄氏時代の城を廃し、久城掘り西側に新たに城を築き、低地である花の木で生活していた住民を台地へ移住させ、新しい町造りを開始した。

翌年の天正19年(1591年)には、夫人の兄である甲斐国永岳寺の救山宗温禅和尚を迎え、自らが開基となり、畳秀山の開善寺(小笠原氏の菩提寺と同名の寺)を本庄宿の中宿(その後の仲町に当たる地域)に建立した。

豊臣秀吉の朝鮮出兵時には九州まで出向いている。伏見城の築城工事の際には人足200人を引率した。慶長3年(1598年)2月19日、江戸で死去。享年52。家督は養嗣子の小笠原信之三河出身で酒井忠次の3男)が継いだ。