守谷藩
守谷藩(もりやはん)は、下総国相馬郡守屋(現在の茨城県守谷市)に存在した藩。藩庁は守谷城。下総相馬藩とも呼ばれる。
地名の由来
守谷の地名の起こりは、人皇12代景行天皇の御代、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征のときにこの地を通り、うっそうたる森林が果てしなく広がっているのを見て嘆賞せられ、「森なる哉(かな)」といわれた。これを漢訳して音読し「森哉(もりや)」となったという説がある[1]。また、平将門がこの地に城を築いたとき、丘高く谷深くして守るに易き砦ということから「守屋」となったという説もある。
藩史
徳川家康の家臣として甲斐国巨摩郡切石1万石を領していた菅沼定政は、小田原征伐後に家康が関東に移されると、北条軍に加わって改易された下総相馬氏の旧領である相馬郡の内に移されることとなった。これが守谷藩の起源である。文禄2年(1593年)立藩と同時に母方の菅沼姓から本来の土岐への復姓が認められた。慶長2年(1597年)3月に定政は死去し、跡を次男の土岐定義が継いだ。定義は元和3年(1617年)に摂津国高槻藩に加増移封となったため、守谷藩は一時幕府直轄領となり、岡登甚右衛門と浅井八右衛門が代官となった。土岐定義が高槻で没し、その子土岐頼行が継いだが、12歳であったため減封となり、3年後に再び守谷城に戻った。やがて土岐頼行は元和4年(1618年)山城守の受領名を受け、25000石に加増されて寛永4年(1627年)、出羽上山に移された。再び守谷は幕府直轄となり伊丹播磨守の代官支配の後、寛永19年(1642年)、堀田正盛が信州松本から13万石で佐倉城に入った時にその領地になった。正盛の三男正俊が1万3000石給与で備中守となり守谷領を継いだが、守谷城には入城しなかった[2]。天和元年(1681年)最後の城主酒井忠挙が転封になるまでの91年間、城下町としての繁栄をみたが、その後に関宿藩久世氏の領地になり、城下町でなくなってからは衰微して、周辺の農村と全く同じような環境となった[1]。
歴代守谷城主
土岐氏
譜代 1万石
堀田氏
- 堀田正俊 13000石
酒井氏
守谷城
平将門の創建と言い伝えられている。当時は霞ヶ浦に連なる大湖沼地帯に面し、本丸のあった出島の部分のみの天然の要塞であった。源経基が3万の軍で将門城を攻め落とした[3]。
その後、源頼朝の有力な家人であった千葉常胤の子小次郎師常が相馬一郡を領有し拡張され5連郭からなる相馬治胤の城(相馬城)となっていたが、豊臣秀吉の小田原征伐での後北条氏没落により、浅野長政軍が松戸小金城を落した次に、天正18年(1590年)5月相馬城を攻め落とした[4]。徳川家康が関東に移封されると文禄2年(1593年)土岐定政が守谷領を受取り入城し、6連郭の城とし城下町や寺社を整備する。
現在守谷城碑の立っているあたり、現在地名馬場二本松に大手門があった。その先左側25軒に重臣25名の屋敷を設けた。現在守谷小学校があるのは第4郭で、その先第5郭の先に清水門があり本郭への入り口となる。第2郭が奥館で、第3郭に家老井上九左衛門の屋敷があった。面積30万平方mの大きな城であった。現在、城址はほとんどが住宅地になっているが、一部が守谷城址公園となって整備されている。城址の南に小さい沼があり、その東にある船着場という碑が名残である。旧294号街道(水戸街道と日光街道を結ぶ日光東照宮への脇往還であった)沿いに典型的な武家屋敷(間口が狭く、奥に長く一区画500坪単位)集落の区割りが見られる。八坂神社を現在地に移し、愛宕神社には九左衛門が寄進した鰐口が残っている[5]。愛宕神社付近は足軽町、新屋敷の地名であった。城址から約1.5km東南の取手市との境に乙子(おとご)という地名があるが、ここに守谷城の落とし口すなわち落口(おとご)があった。[1]
地勢的には利根川、鬼怒川、小貝川に面する海上交通貿易、脇往還としての陸上交通の要所であり、同時に北方勢力に対し江戸を守る要衝となっている。
土岐氏・酒井氏が去った後、守谷城は空城となったが土岐氏の整備した近代的城下町が残り、脇往還路、宿場として繁栄し、今日に至る。