土岐定政
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
テンプレート:基礎情報 武士 土岐 定政(とき さだまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将(大名)。土岐明智氏の系統であり、祖父頼明の兄・頼典を、明智光秀の祖父・光継と同一人物とする説もある。
天文21年(1552年)6月、父定明が美濃守護土岐頼芸と斎藤道三の間の内紛に巻き込まれて死んだ[1]ため、外祖父の菅沼定広を頼って落ち延びる。やがて、近隣の奥平貞勝への母の再嫁により離別させられて、母の弟・菅沼定仙の養嗣子とされた。そのため、菅沼藤蔵として生涯の大半を過ごす事となる。永禄7年(1564年)に徳川家康に招聘されてその家臣となり、永禄8年(1565年)の初陣を皮切りにして姉川の戦いをはじめ、徳川家の主要な合戦の多くに参戦して武功を挙げ、家康から武勇に優れた武将として賞賛された。それらの功績から天正10年(1582年)、甲斐巨摩郡切石に1万石を与えられて大名となる。
天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いや天正18年(1590年)の小田原征伐でも軍功を挙げたため、征伐後に家康が関東に移されると、下総相馬郡守谷に1万石を与えられた。豊臣秀吉からもその武勇を賞賛されて文禄2年(1593年)、従五位下、山城守に叙任された上、没落した土岐の家名を大名として再興することが許された。慶長2年(1597年)3月3日に47歳で死去し、後を嫡男の定義が継いだ。
脚注
テンプレート:下総相馬藩主- ↑ 『上野沼田 土岐家譜』