大社義規

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

大社 義規(おおこそ よしのり、1915年2月1日 - 2005年4月27日)は、実業家日本ハム元社長。香川県大川郡津田町津田(現・さぬき市)出身。

来歴・人物

1934年、家の没落で旧制高松高等商業学校(現・香川大学経済学部)を中退(のちの阪神球団社長小津正次郎は一学年先輩にあたる)。叔父経営の養豚組合に就職したのち1942年日本ハム株式会社の前身母体となる「徳島食肉加工工場」を徳島市で設立。その後戦災による工場焼失、株式会社への組織変更を経たのち大阪市浪速区に拠点を移し、「鳥清ハム」との合併を経て1963年に現社名に変更、ハム・ソーセージを中心とした食肉加工のトップメーカーに成長させた。この頃、取材に訪れた業界紙日本食品加工新聞の小菅留治編集長と知り合い、その後長きに渡って小菅編集長と交流する。小菅は後の藤沢周平で、大社は藤沢の小説は全て読破する熱烈なファンであった。交流はお互いの晩年まで続いたという。

1973年には、旧制高松中(現・高松高校)の先輩・三原脩の勧めにより日拓ホームフライヤーズを買収し、公募で決定した新ニックネームをつけ「日本ハムファイターズ」としてプロ野球に参戦。オーナーに就任し、チームの躍進とともに企業のイメージアップにつなげた。大社は三原を球団社長に、三原の娘婿である中西太を監督に招聘している。1981年には大沢啓二監督指揮で19年ぶり(1962年、東映時代以来)、日本ハムとしては初めてのパシフィック・リーグ優勝を果たす。

しかし、2002年狂牛病対策による農林水産省の制度を悪用した牛肉偽装事件の影響で経営から身を引き、第一線からも退いた。晩年は大変な巨漢であった。2005年4月27日午後5時45分、兵庫県の病院にて心不全のため死去。テンプレート:没年齢。その後は甥で養子の大社啓二が日本ハム取締役、北海道日本ハムファイターズオーナーを引き継ぎ現在に至っている。

野球好きに関するエピソード

広島東洋カープ松田耕平前オーナー共々、球界きっての野球好きのオーナーとして有名。

  • 足しげく球場に観戦に通い、選手に声を掛けている姿はファンによく目撃され、オーナー在職中は新入団選手発表記者会見や、ドラフト会議にもほぼ毎年顔を出していた。
  • 選手の仲人を数多く務めた。
  • 白井一幸(元日本ハムファイターズヘッドコーチ)によると、大社義規は「やろうと思えば何でもできる」、「できると思えば必ずできる」という言葉を選手たちに言い聞かせてくれていたという[1]
  • まだ携帯電話やファックス、インターネットが無い時代、毎試合、球場に本社職員を派遣させ、試合経過を電話で随時報告してもらい、確認していた。
  • 酒好きであったが、日本ハムの試合が行われている時は選手に失礼だからという理由でまったく飲まなかったという。
  • 1981年のリーグ優勝の胴上げの時に着ていたユニフォームの背番号100は、オーナーとしては史上初の永久欠番となった(北海道日本ハム、2009年2月1日制定)。
  • 2006年にファイターズが44年振りの日本一を果たした際は、養子の大社啓二が持つ遺影という形ではあったが、選手によって胴上げされた。これは、彼が球団を心の底から愛していたことをはっきりと証明するものとなった。
  • 2009年1月13日、特別表彰で野球殿堂入りを果たした。

関連項目

脚註

テンプレート:Reflist
  1. 『ナイストライ! 白井一幸ブログ』 2009年1月16日付エントリ参照