堂本暁子
テンプレート:政治家 堂本 暁子(どうもと あきこ、1932年7月31日 - )は、日本の政治家、ジャーナリスト。
千葉県知事(民選第16・17代)、参議院議員(2期)、新党さきがけ議員団座長を歴任。
来歴
アメリカ合衆国カリフォルニア州生まれ。清泉女学院中学高等学校、東京女子大学文理学部卒業。1959年、TBS[1]に入社。1980年、報道ドキュメンタリー「ベビーホテルキャンペーン」で日本新聞協会賞、放送文化基金賞、民間放送連盟賞を受賞。
1989年、第15回参議院議員通常選挙に日本社会党公認で比例区から出馬し、初当選を果たした。1993年、社会党シャドーキャビネット環境庁長官に就任。その後社会党を離党し、新党さきがけに入党。同党参議院議員会長に就任する。
1995年、第17回参議院議員通常選挙では新党さきがけ公認で比例区から出馬し、再選。1996年には新党さきがけ議員団座長に就任し、辞任した井出正一代表に代わり、事実上の党代表職を務める。この間、新党さきがけは自社さ連立政権の村山内閣、橋本内閣に参画し、堂本は自由民主党の加藤紘一や社会民主党の辻元清美らが結成したNPO議連に参加。「特定非営利活動促進法(NPO法案)」の成立に尽力した。1997年、UNEP(国連環境計画)の「環境に貢献した25人の女性リーダー」に選ばれた。新党さきがけを離党後、参議院クラブを経て無所属の会に入党。第19回参議院議員通常選挙には不出馬。
2001年、千葉県知事選挙に市民の党の応援を受ける形で無所属で出馬。「無党派」を標榜し、自民・公明推薦の岩瀬良三、民主・社民・連合千葉推薦で出馬した若井康彦らを破り、当選を果たした。太田房江(大阪府)、潮谷義子(熊本県)に次ぐ全国で3人目の女性知事。この選挙を支えたのが「無党派選挙の神様」の評があった市民の党代表の斎藤まさしであった。
2005年の千葉県知事選挙では一転、政党(自民・民主・社民・公明・市民ネットワーク・千葉県)、宗教団体、労働組合、市民団体の推薦を受けて組織型選挙を展開。終盤では自民党本部が推薦する森田健作を破り、再選を果たした。
2009年千葉県知事選挙への出馬にも当初は意欲を見せていたが[2]、最終的に3選不出馬を表明し、2期8年で千葉県知事を勇退した[3]。退任にあたり、いすみ鉄道社長の吉田平を後継指名したが、吉田は森田健作に敗れた。
障害者団体向け割引郵便制度悪用事件で虚偽有印公文書作成・同行使罪で起訴された村木厚子(後にまったくの無罪であることが判明し、検察が批判を受けた)をめぐり、弁護士の住田裕子らと共に、2009年7月9日に厚労省を訪れ、「無実の村木厚子さんの解放を求めます」などとする声明を発表した[4]。
政策・主張
- 女性の社会的地位の向上や、女性の家庭における処遇の改善がライフワーク。
- 選択的夫婦別姓制度導入推進を支持。2000年には、堂本ら超党派女性国会議員50名が、夫婦別姓選択制を求めて当時の森総理に申し入れを行った。申し入れでは、「とくに若い世代では、夫婦別姓選択制を望む声が高まっています。政府には、世論を喚起するなど、夫婦別姓選択制を導入するための努力を望む」としている[5]。
- 東京湾岸の干潟三番瀬埋め立て計画を白紙(埋め立てについては禁止しない)に戻した。
- 首都圏中央連絡自動車道の建設を推進した。
- 「障害者差別をなくす条例」の審議において、自民党県議から慎重論が出されたが、最終的に自民党の賛成を得て、成立にこぎつけた。
- 男女共同参画センター設置関連条例を千葉県議会に提出したが、自民党県議の反対により否決された。その後、「男女共同参画センター」の名称を「ちば県民共生センター」に改め、規模も縮小した上で再度条例案を提出。自民党も修正案に賛成し、可決された。
役職歴
- 1993年 - GLOBE(地球環境国際議員連盟)日本総統
- 1994年~2000年 - IUCN(世界自然保護連合)選任理事
- 1997年 - IUCN副会長
- 1999年~2001年 - GLOBE第5代世界総裁
脚注
- ↑ 会社法人としては現在の東京放送ホールディングス。放送局としては現在のTBSテレビ・TBSラジオ&コミュニケーションズ。
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- ↑ 夫婦別姓選択性導入などを盛りこんだ民法改正案推進を求める申し入れ 2000年9月29日
関連項目
外部リンク
- 堂本あき子オフィシャルウェブサイト(公式サイト)
- テンプレート:Twitter