北恵那交通
北恵那交通(きたえなこうつう)は、岐阜県中津川市を営業エリアとする名鉄グループのバス事業者である。かつては、鉄道も経営しており、北恵那鉄道(きたえなてつどう)と称した。
電力王・福澤桃介(福澤諭吉の養子)を社長とする大同電力(現・関西電力)による大井ダム工事により「いかだ流し」による岐阜・名古屋方面への木材運搬が出来なくなってしまうため、鉄道がその代償として作られた。
この「いかだ流し」によって運ばれる木材には、伊勢神宮で20年に一度行われる式年遷宮のための御神木も含まれていた。この縁により、2005年(平成17年)には伊勢神宮への次回式年遷宮のための御神木運送を行っている。
会社自体は1922年(大正11年)2月15日設立。初代社長は福澤桃介である。
数ある地方鉄道と同じく1960年代から1970年代にかけてのモータリゼーションにより鉄道が不振に陥り、鉄道部門を1978年(昭和53年)に廃止。翌年社名を変更、現行の北恵那交通となった。
なお、この会社はタクシーとバスとトラック事業を全て同じ会社で経営していたが、現在トラック事業については名鉄運輸の子会社である名鉄急配中津川営業所扱いとなっている。
また、タクシー事業についても、2013年(平成25年)1月31日をもって北恵那交通としての営業を終了し、翌2月1日より同じ名鉄グループの東鉄タクシーへ営業譲渡された。
観光バス事業についても、2013年(平成25年)3月31日をもって北恵那交通としての営業を終了し、翌4月1日より同じ名鉄グループの東濃鉄道へ営業譲渡され、観光バス全車両も併せて譲渡された。
歴史
- 1922年(大正11年)2月15日 - 福澤桃介他9名が発起人になり会社設立。
- 1924年(大正13年)8月5日 - 中津町~下付知間で鉄道運行開始(北恵那鉄道線)。
- 1928年(昭和3年)12月3日 - 大井ダム工事用専用線を大井線(新大井~奥戸)として譲受し、旅客営業開始。
- 1931年(昭和6年)2月25日 - 貨物自動車運行開始。
- 1934年(昭和9年)9月15日 - 大井線廃止。
- 1940年(昭和15年)10月16日 - 一般乗合自動車運行休止[2]。
- 1941年(昭和16年)1月1日 - 貨物自動車運行休止[2]。
- 1958年(昭和23年)3月18日 - 名古屋鉄道が資本参加。
- 1966年(昭和31年)6月25日 - タクシー営業開始。
- 1978年(昭和53年)9月18日 - 鉄道線(中津町~下付知)廃止。「さよなら電車」運転。
- 1979年(昭和54年)6月12日 - 「北恵那交通」に社名変更。
- 2002年(平成14年)2月1日 - JR東海バスの中津川市内からの撤退に伴い廃止される「恵那線」を継承。
- 2008年(平成20年)10月1日 - 中津川市内において、名鉄グループ同士の競合を避けるために廃止される濃飛乗合自動車中津川営業所の路線を引継。
- 2009年(平成21年)10月1日 - ダイヤ改正・路線改編実施(付知峡線・恵北線)。
- 2012年(平成24年)4月 - 馬籠線の各停留所に「ナンバリング」を導入[3]。
車両
名鉄グループの会社だけあって三菱ふそう製がその大多数を占める。
- JR東海バスからの一般路線(恵那線)譲渡に伴って車両譲渡も受けたため、現在は一般バスのみに限っては日野製も存在する。
- 譲渡車としては、他に濃飛バスの路線譲渡に伴って譲渡されたもの、及び名鉄バスからの名古屋市近辺の使用車種規制による「ほとんど新品同然」の譲渡車も存在する。
塗装については、名鉄バスに準じた塗装の車両がまだ存在するものの、オリジナルの塗装の車両が増備されつつある。
最近では、新グループ共通色のバスが導入されている。名鉄バスと変わらない塗装だが、側面上部赤ラインの下に細い水色のラインが引かれている。また、前面の台形に「北恵那」と表示されている。
乗車時のルール
整理券方式の後乗り前降りが基本だが、濃飛バスから譲渡された路線のみ後乗り前降りと前乗り前降りが混在する。2008年10月15日現在。
- 濃飛バスから路線移管時に譲渡された車両の一部に後部ドアがないものが存在するためである。なお、後部ドアが存在している車両については、整理券発券機の場所が後部ドア付近に付け替えられたことにより後乗り前降り方式となったため、現在では従来車との共通運用となった。乗降口側にある行き先・途中経由地表示装置が「ない」か、もしくは前にあるので、従来車と区別が付く。
なお、運賃精算は現金のみが利用可能で、名鉄バスのmanacaや岐阜バスのayucaなどは一切使えない。
路線
すべて中津川市内の路線である。
現行路線
- 付知峡線 中津川駅~付知峡倉屋温泉~加子母総合事務所前[4]
- 川上(かおれ)線 中津川駅~恵那山ウェストン公園前[5][6]
- 松恵線 中津川駅~恵下橋~中津川駅[7]
- 中津川公園線 中津川駅~東美濃ふれあいセンター[8]
- 苗木市民病院線 上苗木~城山大橋経由~中津川市民病院[9]
- 恵那線 中津川駅~上手賀野~中京学院大学[10]
- 恵那線 中津川駅~市民病院~美乃坂本[11]
- 広域市民病院線 中津川市民病院~中津川駅~付知峡倉屋温泉
- 馬籠線 中津川~馬籠[3][12][13]
- 美濃坂下線 中津川~坂下駅前[12]
- 藤沢線 坂下駅前~馬籠[12]
- 外洞・上野線 坂下駅前~外洞・赤田~宮の洞[12]
- 夕森線 坂下駅前~夕森公園口[12]
- 坂下加子母線 坂下駅前~田瀬橋~加子母総合事務所前[14]
※中津川駅前バスターミナルでは行き先別に1番~4番の4つのプラットフォームが設けられており、1番プラットフォームは従来からの自社路線(付知峡線・川上線・松恵線・中津川公園線)、3番プラットフォームは濃飛バスからの譲渡路線(馬籠線・美濃坂下線・霧ヶ原線・恵北線)、4番プラットフォームはJR東海バスからの譲渡路線(恵那線・坂本線)に割り当てられている。なお2番プラットフォームは東鉄バスが使用している。
廃止路線
- 蛭川線<2007年4月1日廃止> 高山~湯之島口[15]
- 恵北線<2009年10月1日廃止>:中津川駅前~坂下駅前~加子母総合事務所前[12][14][16]
- 付知峡線<2007年10月1日部分廃止>の廃止区間:付知峡倉屋温泉~付知峡権四薙~不動滝[17]
- 松恵線東回り<2009年3月31日廃止>:中津川駅→松田橋→恵下橋→昭和橋→中津川駅[7]
脚注
関連項目
外部リンク
テンプレート:名鉄グループ- ↑ 『全国乗合自動車総覧』1934年(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)
- ↑ 2.0 2.1 『中津川市史』下巻近代編2、1121頁
- ↑ 3.0 3.1 中津川駅前~馬籠間の各停留所に「M01」から「M34」までの番号が割り当てられている。ナンバリングが導入されているのは馬籠線のみである。
- ↑ 2009年10月1日のダイヤ改正より加子母総合事務所前まで直通開始。
- ↑ 途中の王子製紙前折り返しのもの及び市役所・合同庁舎前折り返しのものも存在。
- ↑ 終点の恵那山ウェストン公園前は、2002年(平成14年)9月30日までは「川上スケート場」という名称だったが、スケート場の廃業に伴い翌10月1日に現名称に変更された。
- ↑ 7.0 7.1 市内循環。松田橋→恵下橋→昭和橋の順に回る「東回り」と昭和橋→恵下橋→松田橋の順に回る「西回り」が存在したが2009年3月31日を以って東回りは廃止、西回りに一本化された。
- ↑ 東美濃ふれあいセンターにおけるイベント開催時のみ臨時便が走ることもある。
- ↑ 土休日運休
- ↑ 途中の上手賀野で折り返す便が多いことから上手賀野線とも呼ばれる。JR東海バスからの譲渡路線。国鉄バス時代には根ノ上高原を経て国鉄明知線(現在の明知鉄道)の岩村駅及び明智駅を経由して名古屋駅まで行っていたが、その後中津川駅発のものは根ノ上高原止まりとなり、さらには中京短大(現在の中京学院大学)止まりと、路線は中津川市内のみに短縮されていった。なお「恵那」とは恵那市を限定して指しているのではなく、旧恵那郡・中津川市を含めた地域の総称である。
- ↑ JR東海バスからの譲渡路線。途中の中津川市民病院折り返しのものが大多数を占める。かつては中津川駅~三菱工場前(三菱電機中津川製作所)間の「三菱線」も存在したが、JR東海バスの路線譲渡によって恵那線及び坂本線に統合・吸収される形で消滅。
- ↑ 12.0 12.1 12.2 12.3 12.4 12.5 濃飛乗合自動車濃飛バスからの譲渡路線。
- ↑ 中切を経由する路線と大久手を経由する路線の2系統が存在。濃飛バス時代には大久手経由のバスの一部が馬籠峠まで乗り入れていた。現在馬籠~馬籠峠間のアクセスは南木曽町新交通システム(地域バス)となっている(おんたけ交通が運行)。
- ↑ 14.0 14.1 2009年10月1日のダイヤ改正により中津川駅前~坂下駅前~加子母総合事務所前の直通便(恵北線)が廃止となり、その代替として坂下加子母線が新設された。坂下加子母線は一部の便が田瀬橋折り返し(付知峡線と接続)となった。
- ↑ タクシー車輌による運転。過去には中津川駅始発で蛭川村村域まで行っていた。
- ↑ 加子母総合事務所前にて濃飛バスの恵北線と連絡。
- ↑ 付知峡権四薙~不動滝間は夏季のみの運行であった。