内海英男
内海 英男(うつみ ひでお、1922年4月26日 - 2005年8月21日)は、日本の政治家、元自由民主党衆議院議員。
概要
関東州(現在の中国東北部)大連市に生まれる。東京・小石川の私立豊山中学校(現・日本大学豊山中学校)を経て、中央大学法学部に入学。1944年、大学在学中に学徒出陣となり、海軍の特攻隊に配属される。復員後、住宅営団勤務を経て、衆議院議員だった父・内海安吉の秘書となる。
1967年1月、健康不安のため引退を決意した父・安吉の後継者として旧宮城2区から自民党公認で衆院選に立候補し、初当選。以降連続当選9回。自民党では当初、船田派に所属。1979年の第35回衆議院議員総選挙の後、田中派に移り、同派幹部・田村元の側近となる。文部政務次官、建設政務次官、衆議院農林委員長、議院運営委員長などを歴任し、族議員としては建設族として鳴らした。一方で自民党経理部長が回ってきたときには、派閥領袖の田中角栄に対して金勘定が不得手であるとしてこれを断ったエピソードがある。
1982年11月、第1次中曽根内閣の建設大臣として初入閣。間を置かずして田中にロッキード裁判の1審で有罪判決が下り、その直後に「(田中の議員辞職を求める)提灯行列なんかする暇があるなら賃上げする必要なんてないだろう。野党はソ連の言うなりになっているだけではないか。」と発言。野党やマスコミの批判を受けて、「心情的に提灯行列は肯けないという趣旨だった」と弁解した。建設大臣としては、地元宮城県の三陸縦貫自動車道、石巻工業港建設整備に取り組んだ。田中派分裂では、田村とともに竹下派(経世会)に参加する。1988年5月には、日中戦争を巡る発言で更迭された奥野誠亮の後任の国土庁長官に就任した。1992年の竹下派分裂後は、小渕派に所属。同年、勲一等旭日大綬章を受章。1993年、第40回衆議院議員総選挙には立候補せず政界を引退。政界引退後は中央大学理事長も務めた。
2005年8月21日、胸膜症のため甲府市内の病院で死去。享年83。中央大学葬。阿部三郎中央大学理事長が葬儀委員長を務めた。 政治家時代には石巻専修大学の開学に尽力。
子供は娘が一人で英子がいる。英子は宝塚音楽学校出身の元女優。英子の夫は、俳優堀雄二の三男で、内海家の養子になった俳優の堀光昭。孫に俊弘(慶應義塾大学卒業)がいる。
経歴
- 1967年1月 - 衆院選に立候補し、初当選
- 1981年 - 衆院議院運営委員長
- 1982年11月 - 建設大臣
- 1988年5月 - 国土庁長官
- 1993年6月 - 政界引退
ផ 1994年4月 - 中央大学理事長に就任{2期務める}
- 2005年8月21日 - 胸膜症のため死去 享年83
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|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
山下元利
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 衆議院議院運営委員長
1981年 - 1982年
|style="width:30%"|次代:
山村新治郎
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
佐藤隆
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 衆議院農林水産委員長
1979年 - 1980年
|style="width:30%"|次代:
田邊國男
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|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
奥野誠亮
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 国土庁長官
1988年 - 1989年
|style="width:30%"|次代:
野中英二
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
始関伊平
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 建設大臣
1982年 - 1983年
|style="width:30%"|次代:
水野清
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