光源氏
テンプレート:Pathnav 光源氏(ひかるげんじ)は、紫式部の物語『源氏物語』の主人公である。京都に生まれる。『源氏物語』五十四帖中第一帖「桐壺」から第四十帖「幻」まで登場する。なお「光源氏」とは「光り輝くように美しい源氏」を意味する通称で、本名が「光」というわけではない。
モデル
架空の人物であるが、さまざまな実在の人物をモデルとする説が唱えられている。嵯峨源氏の源融をモデルにしたとする説の他に、醍醐源氏の源高明や光孝天皇、藤原道長、藤原伊周、源光、嵯峨天皇、藤原実方など多くの人々の名前が挙げられている。もっとも、どの人物がモデルであったとしても、その人物以外の他の平安貴族(在原行平、在原業平、菅原道真など)の故事なども用いて脚色されていると考えられている。
略歴
桐壺帝の第二皇子。母は桐壺更衣。幼少の頃から輝くばかりの美貌と才能に恵まれ、「光る君(ひかるきみ)」と綽名される。母は三歳のとき亡くなった。母に似る女性藤壺への思慕が初恋となり、その面影を求めて生涯様々な女性と関係を持つ。父桐壺帝は光る君を東宮(皇太子)とすることを考えたが、実家の後援がないことを危ぶみ、また光る君が帝位につけば国は乱れると高麗人に予言されたこともあり、臣籍降下させ源氏の姓を与えた。
亡母に似ているとして父帝の後宮に入った藤壺を慕い、遂に一線を越えて子(後の冷泉帝)をなすが、密通の事実は世に知られることはなかった。この皇子の東宮時代から後見として支え、即位後に冷泉帝が事実を知り譲位を考えた時には固辞したが、後に臣下を越える准太上天皇を与えられた。以後、その邸宅の名を取って六条院と呼ばれる。
正妻は最初元服と同時に結婚した左大臣の娘葵の上、後に兄朱雀院の皇女・女三宮である。しかし源氏が理想の女性として育てた紫の上(若紫、紫の君とも呼ばれる)が葵の上の死後事実上の正妻であり、多くの夫人の中で彼女への愛が最も深かった。他、源氏の側室・愛人としては、六条御息所、空蝉、夕顔、末摘花、朧月夜、花散里、明石の御方などが登場し、従姉妹の朝顔斎院や六条御息所の娘の前斎宮(秋好中宮)にも心を寄せた。
宿曜の占いによれば「3人の子供をなし、ひとりは帝、ひとりは中宮、真ん中の劣った者も太政大臣となる」と言われ(「澪標」)、これは藤壺の子冷泉帝、葵の上との間に生まれた長男の夕霧、明石の御方の娘である明石の姫君の三人により実現した。ただし冷泉帝の出生は秘事であり、また公的には女三宮の生んだ薫が源氏の子(次男)とされている(なおこの占いのためもあってか、源氏は始め女三宮が身篭ったと聞いてもすぐには信じず、後に柏木との密通を知り納得した)。この他、六条御息所の遺児秋好中宮と、頭中将と夕顔との娘玉鬘を養女とした。
兄の朱雀帝即位後、その外戚である右大臣・弘徽殿女御派の圧力や尚侍となっていた朧月夜との醜聞もあって須磨、後に明石へ隠退。この時、明石の御方と結ばれ、後の明石の中宮となる姫君が誕生する。帰京後は即位した冷泉帝の後見として復帰、秋好中宮を養女に迎えて冷泉帝の后とした。その後太政大臣となった源氏は、その栄華の象徴ともなる広大な四町の邸宅・六条院を造営した。西南の秋の町(六条御息所の旧邸)は秋好中宮の里邸に、自らは東南の春の町に紫の上や明石の姫君と住んだ。また東北の夏の町には花散里を(後に玉鬘もここに迎えられた)、西北の冬の町には明石の君を配し、さらに二条東院にもかつての愛人たちを引き取って世話をした。
40歳を迎えたのを機に、冷泉帝より准太上天皇の待遇を受ける。栄華の絶頂に至った源氏だったが、兄朱雀院の出家に際し、源氏の正室にふさわしい高貴で有力な後見ある妻がいない事にかこつけて、内親王の庇護者にと姪・女三宮の降嫁を打診される。藤壺亡き後も今なお彼女への思いおさえがたく、女三宮が紫の上同様に藤壺の姪であることにも心動かされた源氏は、これを断る事が出来なかった。しかし結婚してみればただ幼いだけの女三宮に源氏は失望し、また女三宮降嫁に衝撃を受けた紫の上も苦悩の末病に倒れて、六条院の栄華にも次第に影が射し始めた。
やがて源氏自身がかつて父桐壺帝を裏切ったように、女三宮の密通が発覚する。一度は女三宮とその愛人の柏木に怒りをつのらせた源氏であったが、生まれた子ども(薫)を見て、これが若い日の罪の報いであったことに気づかされる(因果応報)。その後女三宮の出家と柏木の死でさすがに怒りも和らぎ、また亡き父帝も源氏の過ちを悟っていながら咎めなかったのではないかと思いを馳せて、源氏は生まれた子の秘密を誰にもいわず自分の子として育てる事になった。
最愛の紫の上の死後は、嵯峨に隠退して二、三年出家生活を送った後に死去したことが、後に「宿木」で述べられる。なお出家から死までは作中には描かれず、本文の存在しない「雲隠」が源氏の死を暗示するのみであるとも、また本文は失われたとも言われる。
現世の繁栄を享受しながら常に仏道を思い、にもかかわらず女性遍歴を繰り返すという人物造形は、次の世代の薫と匂宮にそれぞれ分割して受け継がれる。また、しばらく後に書かれた『狭衣物語』の主人公である狭衣大将にも影響を与えている。
堺屋太一は著書「日本を創った12人」(1996年、PHP新書全二巻、のちPHP文庫全一巻)において源頼朝・織田信長・徳川家康らと並んで光源氏を取り上げ、「平安貴族の典型としての光源氏は虚構の人物ながら後世の日本人に大きな影響を与えた」「光源氏は日本人が考える『貴族』『上品な人』の概念の原点」としている。堺屋はまた、「日本には今なお『上品で名門で善人だが行財政の実務など現実の政治には能力も関心もない』という『光源氏型』の政治家が時々現れ、国民に支持される」として近衛文麿を例に挙げている。