宝暦暦
宝暦暦(ほうりゃくれき/ほうれきれき)とは、かつて日本で使われていた太陰太陽暦の暦法の和暦である。正式には宝暦甲戌元暦(ほうりゃくこうじゅつげんれき)という。
和暦の日付は、旧暦表示である。西暦の日付は、グレゴリオ暦表示である。
使用期間
宝暦5年1月1日(1755年2月11日)に貞享暦から改暦され、寛政9年12月30日(1798年[1]2月16日)までの43年間使用された。
寛政10年1月1日(1798年2月16日)、寛政暦に改暦される。
概要
清朝の暦法(時憲暦)が、実はイエズス会の宣教師が伝えた技法を採用していることを知った将軍徳川吉宗は、キリスト教色を排除した形で西洋天文学を取り入れた暦法を採用したいと考えるようになり、その意向を受けた西川正休・渋川則休らの手によって改暦の準備が始められ、仙台藩の戸板保佑、新庄藩の安島直円も協力した。しかし、吉宗の急死と幕府の天文方に政治力がなかったため、朝廷の陰陽頭・土御門泰邦(土御門家参照)に主導権を奪われてしまった。
その結果完成した暦法(宝暦暦)は貞享暦よりも劣ったものとなり、宝暦13年9月1日(グレゴリオ暦1763年10月7日)の日食を外してしまった。さらに、この日食は麻田剛立を始め、薩摩の磯永周英、土佐の川谷致真、京都の西村遠里、曽我部容所、仙台の戸板保佑、大塚頼充、高橋通三ら、多くの民間の天文家が予測しており、この暦法の欠陥があらわとなってしまった。
このため、幕府は明和元年(1764年)に佐々木文次郎に補暦御用を命じ、明和8年(1771年)から修正された暦(修正宝暦暦)が使われた[2]。
このように、急遽、修正された宝暦暦だったが、安永2年(1773年)・同4年(1775年)、天明6年(1786年)に置閏法の原則としてあってはならないとされていた「中気の無い閏月」が発生してしまう[3]など、不具合が多かった。
騙し騙し使っていたものの、先の暦である貞享暦よりも出来が悪いという評価は覆し難く、日本中で様々な不満が出て、改暦の機運が年々高まっていく事となった。結局、幕府や朝廷は不満の声に抗しきれず、改暦を決定した。評判の高かった天文学者の高橋至時を登用し、寛政暦が作成され、宝暦暦はその役割を終えた。