佐竹義久
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佐竹 義久(さたけ よしひさ、天文23年(1554年) - 慶長6年11月28日(1601年12月22日))は日本の戦国時代の武将。家系は清和源氏の一家系・河内源氏の新羅三郎義光の孫・佐竹昌義を祖とする佐竹氏。常陸国の戦国大名佐竹氏の一門。佐竹東家の当主佐竹義堅の次男。東義久とも。受領名は山城守、中務大輔従五位下。武熊城城主。
経歴
佐竹東家の当主として、本家の当主佐竹義重に従って各地を転戦し、武功を挙げる。外交においても、天正7年には相模国後北条氏に対抗するための甲斐国の武田氏との同盟(甲佐同盟)締結に携わっている。一族の重鎮として重用され、佐竹氏の陸奥方面の軍権を任されたという。
のち豊臣秀吉と懇意になり、秀吉直轄地の代官を務めた。天正19年(1591年)1月2日、豊臣姓を下賜された[1]。また文禄・慶長の役では、文禄2年(1593年)6月から約一ヶ月の間、義久が佐竹勢1,440人を率いて出陣している[2]。これらの功績により、秀吉から直接、常陸国の鹿島郡・真壁郡に6万石を与えられ、さらに豊臣氏直轄領1,000石の代官も務め、独立大名の処遇となった。
佐竹家の動向が不安定だった関ヶ原の戦いの後、徳川家康と交渉し、佐竹本家の本領安堵を取り付けたと言われるが、直後に死亡。
病死とも、家康により佐竹本家当主を義久とされることを嫌う勢力に暗殺されて死亡したとも伝わる。
子息
- 佐竹義賢(よしかた) - 嫡男。諱は義賢。佐竹東家を継ぐ。
- 伊達宣宗 - 伊達盛重養子。
- 小野崎宣政(のぶまさ) - 小野崎氏へ養子入り。人取橋の戦いの陣中に刺殺された小野崎義昌(佐竹義篤の子)の跡を継ぐ。
*宣宗・宣政の2名は佐竹義宣(義重の子)より偏諱の授与を受けた。