三河島事故

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

テンプレート:Infobox 鉄道事故 三河島事故(みかわしまじこ)は、1962年(昭和37年)5月3日21時37分頃、東京都荒川区日本国有鉄道(国鉄)常磐線三河島駅構内で発生した列車脱線多重衝突事故である。「国鉄戦後五大事故」の一つ。

事故概要

常磐線三河島駅構内で、貨物線から進行方向右側の下り本線に進入しようとした田端操車場水戸行の下り第287貨物列車(D51 364牽引、45両編成)が、出発信号機の停止信号を行き過ぎて安全側線に進入し脱線。先頭の機関車と次位のタンク車タキ50044)が下り本線上に飛び出した。

その直後に、三河島駅を4分遅れで出発し下り本線を進行してきた上野取手行きの下り第2117H電車(6両編成)が下り本線を塞いでいたタキ50044に衝突。先頭車(クモハ60005)と2両目の車両(クハ79396)が脱線し、上り本線上に飛び出した。

さらに約7分後、その現場に上野行きの上り第2000H電車(9両編成)が進入し、線路上に降りて移動中だった2117Hの乗客多数をはねた上、上り本線上に停止していた2117Hの先頭車と衝突した。これにより2117Hの先頭車と2両目の前部が原形を留めず粉砕された。上り2000Hは先頭車(クハニ67007)が原形を留めず粉砕され、2両目(モハ72549)は築堤下に転落して線路脇の倉庫に突っ込み、3両目(サハ17301)も築堤下に転落、4両目(モハ72635)が脱線した。

結果、死者160人、負傷者296人を出す大惨事となった。

事故発生状況

事故が発生した当日は、早朝に東北地方で発生した地震と、東北本線古河駅で発生した脱線事故の影響で、常磐線のダイヤが乱れており、夜になってもわずかながらダイヤの乱れの影響が残っていた。定刻では、287列車は通常では三河島駅を通過してそのまま下り本線に入るが、下りの取手行2117Hが上野駅出発の時点で2分30秒ほど遅れていたため、三河島駅で2117Hを待避することになった。

しかし、機関士は三河島駅の場内信号機の黄信号にもかかわらず駅構内へ進入し、出発信号機の赤信号に気付きあわてて非常ブレーキを作動させたものの、減速が間に合わず安全側線に進入し、下り本線を支障する形で脱線した。

ちょうどそのころ、2117Hは三河島駅での客扱いを終えて発車し、脱線した現場に差し掛かるところであった。運転士は緊急制動処置を行ったが、間に合わずに機関車に接触、上り線を支障する形で脱線した。

この時点では、2117Hは脱線こそしたものの、大きな怪我を負った乗客はいなかった。しかし、1〜2両目の車両については、パンタグラフが架線から外れた結果停電となり、乗客は桜木町事故1951年)の教訓をもとに分かりやすく整備された非常用ドアコックを操作して列車外へ避難していた。また6両目に乗車していた車掌は、運転士と連絡するために車内電話を操作したが応答がなかったので、車外に出て連絡を図ろうとしていた。

一方、現場近くの三河島駅信号扱所の係員は、事故発生を受けて下り本線の信号を赤に切り替えた上で三河島駅の助役に事故発生を連絡し、助役は常磐線の運転指令に事故発生を通知した。助役は関係箇所に事故発生を通知し、下り線の後続列車の運行を停止させたが、この時点では支障状況が確認されていなかった上り線へは、事故発生通知のみ行った。

一方、取手発上野行の2000Hは、地震の影響で定刻より約2分ほど遅れて南千住駅を発車しようとしていた。同じころ、南千住駅の信号扱所では、三河島駅信号扱所からの上り線支障の電話連絡を受けて、発車信号を赤に変えようとしたが、2000Hは信号扱所の前を通過している最中であり、もはや止める手はなかった。2000Hの運転士は、事故発生を知らずに運転を続け、事故現場の近くに接近したところで、線路上を南千住方向に歩く乗客を確認し、非常ブレーキを掛けたが間に合わず、乗客をはねながら、2117Hの1両目に激突した。

2000Hは、先頭車(クハニ67007)が粉砕し、2両目以降は高架下の倉庫に転落して大破した。また2117Hの1両目と2両目も、原形を留めない状態となった。この結果、線路を歩いていてはねられた2117Hの乗客と、2000Hの乗客と運転士の合計160名が死亡する大惨事となってしまった。

死傷者には、脱線した2000Hから外に出ようとして、高架下に転落した者もあったという。

原因

最初の下り貨物列車の脱線の原因は、機関士信号現示の誤認とされた。これは錯覚の一つである、仮現運動によって誤認が起こったという報告がある。

また、信号は視認していたものの、貨物列車は三河島駅の出発側で高架の本線に合流するため、地平レベルから右カーブの上り勾配を進行しており、蒸気機関車の機関士席からの視界は悪く、大量の貨車を牽引しているので勾配途中で停車すればその後の起動に苦労するので停車を躊躇した、あるいは、本線の閉塞信号機が先行列車のために進行現示しているのが見えたので、自分の進路が開通したと錯覚したという説もある。

また、最初の衝突の後、約6分間にわたって両列車の乗務員も三河島駅職員も、上り線に対する列車防護の措置を行わなかったことが、上り2000H電車の突入の原因になった。

事故現場は三河島駅からは数百メートル先で、駅員が直接確認することは困難であった。一方、三河島駅信号扱所の職員は、事故現場により近い位置で勤務していたとはいえ当夜は新月で月明かりがなく、事故の状況を確認するには現場に行って視認するしかなかったため、上り線支障の報告が遅れたことは否めない。また、列車指令が事故発生を確認した時点で現場付近の上り線の運転を下り線同様に停止しなかったことも、事故を防げなかった原因とされた。列車乗務員である貨物列車の機関士は駅に事故発生を知らせに行き、機関助手は足を負傷して動けずにいた。2117Hの運転士は貨物列車と衝突した際に頭を打って失神したものの、上り列車衝突直前に運転室から脱出して無事であった。しかし、裁判では運転室を脱出することができたにもかかわらず2000Hに事故を知らせる行動を取らなかったことで過失に問われた[1]

事故後

1962年5月8日運輸大臣斎藤昇から国鉄に対して運転事故防止についての警告が出された。

対策

国鉄内には三河島事故特別対策委員会が設置された。

自動列車停止装置の整備

この事故を機に、自動列車停止装置(ATS)が、計画を前倒しにする形で国鉄全線に設置されることになり、1966年(昭和41年)までに一応の整備を完了した。それまで使われていた車内警報装置(国電区間での採用後、1956年六軒事故を受けて全国主要各線へ設置を行う予定になっていた)には列車を自動停止させる機能がなく、この種の信号冒進事故を物理的に防ぐことができなかった。

信号炎管・列車防護無線装置の整備

この事故を承けて全列車に軌道短絡器など防護七つ道具の整備を行い、常磐線に乗り入れる全列車を対象にまず信号炎管が取り付けられ、のちに列車防護無線装置が開発され装備された。

鉄道労働科学研究所の設立

人間工学心理学精神医学的見地から職員の労働管理を行うことが求められた。この対策として中央鉄道学園能率管理研究所と厚生局安全衛生課を統合し、1963年(昭和38年)6月に鉄道労働科学研究所を設立した(現在は組織統合により鉄道総合技術研究所となっている)。

裁判

最初の衝突から上り2000H電車の進入までの約6分の間、列車防護の措置を怠ったことが問題視されたことから関係責任者が起訴され、287列車の機関士機関助士、2117H電車の乗務員、三河島駅助役・信号掛にそれぞれ禁錮3ヶ月 - 8ヶ月の有罪判決が言い渡された。

犠牲者

ファイル:Mikawashima accident-Avalokiteśvara statue.jpg
慰霊のため建立された聖観音像

未だに身元不明の犠牲者が一人おり、駅近くの行旅死亡人として葬られている。線路を歩いて事故に巻き込まれた、20代後半から30代ぐらいの丸顔の男性で、身長は163cm、手に数珠を持っていたと言われている。遺体からモンタージュ写真が作成され公表されたが、知り合いであると名乗り出た人はいない。

事故の犠牲者の中には、当時の人気漫才コンビであった栗友一休・三休栗友一休も含まれている。事故後、栗友三休は春日三球として再起した。

事故発生から1年後に駅北東の浄正寺に慰霊聖観音像が建立され、現在も献花が続けられ当時の惨事をしのばせる。

後日談

国鉄はこの事故をきっかけに、保有するプロ野球球団国鉄スワローズフジサンケイグループに売却することになった。また、この事故により「三河島」という地名が全国にマイナスイメージとして持たれるようになったため、1968年の住居表示施行を機に一帯の「三河島町」という町名は消滅した。

国鉄は安全性をPRするために事故防止のための新技術を紹介する映画を企画したが、映画製作の発注を受けた岩波映画製作所は、監督土本典昭のアイデアをもとに、鉄道の安全な運行がいかに機関士たちのぎりぎりの労働によって支えられているかを示した記録映画『ある機関助士』を完成させた。この映画は水戸から上野までの常磐線を舞台に撮影されている。

テレビ朝日系・東映制作のテレビドラマ『特捜最前線』第163話「ああ三河島・幻の鯉のぼり!」は、本事故をモチーフとしている。身元不明男性に焦点を当てたもので、男性を沖縄からの密入国者と設定(当時は沖縄返還前だった)しており、「全国紙に掲載しながら誰からも連絡がなかったのは、沖縄には報道されていなかったため」としている。また、財布など身元を分かる物を持っていなかったのは「事故現場で盗られたため」とされ、犯人は発見されたものの、18年前(放送当時から見て)の事件のため、時効が成立していた。

出典

  1. 三輪和雄著「空白の5分間 三河島事故 ある運転士の受難」講談社

関連項目

外部リンク