桜木町事故
テンプレート:Infobox 鉄道事故 桜木町事故(さくらぎちょうじこ)は、1951年(昭和26年)4月24日13時45分頃、神奈川県横浜市の日本国有鉄道(国鉄)東海道本線支線(京浜東北線、現在は根岸線の一部)桜木町駅構内で発生した列車火災事故である。乗客はドアが開かなかったため脱出できず、多くの死傷者を出した。犯罪的所業によるものではないが、桜木町事件と呼ばれることもある。この事故後、自動扉つきの客車内には乗降扉非常圧搾空気開放弁(非常ドアコック)の設置と表示が義務化され、緊急時にドアを乗客が手動で開けられるよう法律が改正された。
事故概要
京浜東北線桜木町駅構内の上り線で碍子(がいし)交換工事を行っていた電気工事作業員が誤ってスパナを落とし、上り線の架線が固定されず垂れ下がってしまっていた。作業員は上り線のみ列車を進入させないよう手配を行ったが、下り線は通常通り運行できるとした。結果、京浜東北線の赤羽発桜木町行き下り第1271B電車(63系5両編成、所定ダイヤより9分遅れ)が下り線からポイントを渡って上り線に進入、垂れ下がっていた上り線の架線に先頭車のパンタグラフが絡まった。運転士は急いでパンタグラフを下ろそうとしたが、先頭車のパンタグラフは破損して車体と接触した状態になり、そこに電流の短絡が発生。激しい火花とともに可燃性の塗料に着火し、車両は木製の屋根から炎上を始めた。結果、先頭車のモハ63756が全焼、2両目のサハ78144が半焼して焼死者106人・重軽傷者92人を出す大惨事となった。
事故車両の窓は中段を固定した3段構造で開口部の高さは29cmしかなく、ここからの脱出は非常に困難だった。短絡が起きていたため自動扉は作動せず、乗務員や駅員すらも非常用ドアコックの位置を知らなかったため扉を外部から手動で開けることもできなかった。運転士が車端貫通路から乗客を救出しようとしたが、当時の車両の貫通路は車両同士の乗客の貫通を目的としたものではなかったため内開きの開き戸で、しかも外側から施錠されていた。辛うじて2両目の貫通路だけは開けられたものの1両目は脱出しようとする乗客の圧力で開かなかったとされる。結果として1両目の乗客は窓ガラスを破る以外に脱出路が全くなく被害を拡大することとなった。また、このような脱出困難な状況は、高架線上での事故だったこともあり集まった群衆も何もできず、助けを求める乗客がなすすべなく焼け死んでいく姿を見ているしかないという地獄絵図を生んだ。
事故当時、桜木町駅付近の架線に電気を供給していたのは横浜変電所と鶴見変電所であったが、横浜変電所は高速度遮断器が作動し給電を停止できたものの鶴見変電所の高速度遮断器が作動せず、約5分に渡って架線に電気が流れたままになったことも火勢を強めたとされている。
桜木町事故の2年前、1949年9月27日に京阪1200型電車が香里園駅付近で短絡により起こした火災事故でも自動扉は開かず、乗客は窓を破って脱出せざるを得なかった[1]。桜木町事故と状況が類似しているが、その教訓は生かされなかった。
被害拡大の原因
被災した63系電車は、重要な安全部品を省略したり粗悪な代用品を使用した、いわゆる戦時設計により製造された車両であった。可燃性材料の多さについては戦前期の電車にも共通する部分があるものの、63系では可燃性の塗料やベニヤ板の天井内張りなど燃焼性の高い材料が多用されており、不燃構造は戦前車よりも劣るものであった。
さらに63系は通常、絶縁被覆と防護鋼管で覆われているべき室外配線を碍子(がいし)支持の裸電線としていたり、一部の引き通し線を化粧板覆いもなく室内に露出させていたりするなど、電気配線の絶縁の質が劣悪な設計で、このような電流短絡事故の際に必要な保安機器の一部も省略されていた。そのため、車体に架線の電流が流れた場合に炎上し易い構造であった。それを示す事実として、本事故が発生する以前から、外的要因(本事故では架線切断)がなくとも、小規模な発煙・発火事故を日常的に起こしており、ひどい場合は全焼して事故廃車となるものさえあった。
また、窓については63系では立ち客への通風の改善とガラス不足を補うべく三段式になっており、中段が固定されている構造のために脱出が不可能であった。63系より前の車両のように二段式であったなら、あるいは三段式であっても中段も可動する構造になっていたならば、開口部が大きいため脱出が可能であり、犠牲者数は激減したであろうといわれている。乗降扉についても、1946年(昭和21年)6月4日に発生した中央線乗客転落事故の反省より木製扉から鋼製扉への交換が進行していたことが、ドアコック表示不備[2]と相まって結果として裏目となった。
同じく、車両の妻面[3]にある貫通扉も、引き戸ではなく内側に開く構造であった。もともと当時、近距離輸送手段であった「電車」には、客車のような幌つきの貫通路は設置されておらず、乗客がここを通ることは想定されていなかった[4]。そのため、超満員の乗客の圧力で扉を開けることができず、ここからの脱出も不可能であった。
地上側の要因として、鶴見変電所が即座に饋電力停止[5]しなかった点が挙げられる。現場に一番近い横浜変電所は事故電流を検知して即座に遮断器が開放して饋電停止したが、鶴見変電所(饋電区分所)の遮断器はそれより遠方のため事故電流を検出できず、川崎変電所からの饋電が継続され続けた。本来、横浜変電所の遮断器が開放すれば遠方からの饋電は行われないはずであるが、この事故の前に起きた汐留変電所の火災復旧のため遮断器4機のうち2機が取り外されており、饋電回路がT形となっていたため、川崎変電所からの電流を止めることができなかった。当時の変電所は連絡遮断装置や遠方制御装置がなく有人運転であり、事故時の隣接変電所の遮断は電話連絡に頼っていた。このことが契機となって、電流変化率(⊿I)を元に事故電流を検出する直流饋電線故障選択装置が開発された[6]。
なお、事故に対する直接・間接の要因ではないが、当時の桜木町駅が終着駅でホームの先端に改札口があったことから、乗客が先頭車両に集中していたことも犠牲者が多くなった一因であった。
事故後の対策
当時の国鉄は、事故の翌日にはモハ63形全車両の車体に車外コック位置を「▽」で標記した上、車内にも座席下のコック位置を記したガリ版刷りの張り紙をするという素早い対策を打った。そして戦時設計の電車に対し、まず車内への防火塗料の塗布、パンタグラフの絶縁強化、車端部の貫通路と貫通幌の設置などの応急処置を施した(1951年内に完了)。後に車内天井の鋼板化、貫通路拡張、三段窓の全段可動化など、徹底的な体質改善工事を実施し、800両にも及ぶ対象車の体質改善工事はわずか2年強で完了した。これらのことは、この事故が社会に与えた衝撃の大きさを物語るものといえる。
なお、前述の体質改善工事によってモハ63形電車はモハ73形(制御電動車)、モハ72形(中間電動車)等に形式を改め、国鉄末期まで使用された。詳細は国鉄72系電車#改造内容を参照されたい。
刑事裁判
事故の関係責任者は起訴された。スパナを落下させた作業員3人と、桜木町駅の信号掛、電車運転士の計5人に禁固6か月 - 1年10か月の判決が言い渡された。
社会的影響
当時三大怪事件をはじめ、度々事故を起こしていた国鉄に対する国民の不信はこの事故をきっかけに爆発し、マスコミは国鉄に対するバッシングを行った。また、政界でも野党が国鉄の怠慢によって発生したものであるとして、当時の吉田内閣への倒閣と結びつける向きがあった。第2代国鉄総裁であった加賀山之雄は、事故の責任を取り引責辞任することになる。
国鉄は、1949年にプロ野球球団「国鉄スワローズ」(現・東京ヤクルトスワローズ)を立ち上げ、その後も80系電車・70系電車などの新形式車両を投入し、特別急行列車・食堂車・寝台車など戦時中に廃止された列車サービスの復活を図るなど、復興に邁進していた。その最中に起こった事故であるため、国鉄内外における衝撃は大きく、「プロ野球に参入する暇があれば、欠陥電車の整備を先に行え」などと非難された。
なお、80系電車を開発したメンバーの一人であり、当時国鉄車両局長を務めていた島秀雄はこの事故の責任を取って辞職し、その後十河信二に請われて復帰する1955年まで、鉄道技術職から離れる事になった。
当時の朝日新聞で連載されていた『サザエさん』でも、この事故を題材とした回があった。
後年への影響
鉄道省 - 国鉄本社による正式設計としてははじめて貫通ほろを取り付けた80系電車だったが、80系のそれは電車用にと新規に設定されたサイズのものだった。一方、本事故を受けての緊急の改造で国電全車に貫通ほろを取り付けることになったため、新規に製造を依頼していたのでは到底間に合わないことから、各車両区に補修部品としてストックされていた旧型客車用の片持ち式ほろが動員された。結果、80系の方が圧倒的少数派となってしまい、後年80系のいわゆる『都落ち』と呼ばれる地方線区へのバラ転用の際は、80系の方が他車との連結に備えて貫通ほろを交換することになった。その後初代ブルートレイン20系や、キハ80系初期車等でほろ規格変更を目論むも後年の形式で結局元に戻る[7]現象を繰り返し、とうとう鉄道省発足以来国鉄終焉までこの片持ち式ほろが使われることになった。
国鉄ではハードウェアの対策を徹底せず運用規定の改定をもって対策とし、その結果後年それを皮肉るような事故を起こすことが多かったが、本事故でも火災発生時の取り扱い規定が“直ちに停車し運行を中止すること”とされたため、北陸トンネル列車火災事故を誘発する結果になった。
JR化後、さらに安全性と給電区分による状況の切り分けのため、エア・セクションと呼ばれる一種のデッドセクションが変電所区分ごとに挿入されたが、101系以降の新性能電車(JR化後の形式も含む)がいずれもパンタグラフのアーク(火花)による擦り板損傷を抑えるため母線引き通しとなっていて、その結果停車位置によっては変電所間を電車の母線が短絡してしまう状況が発生することになった。その状態が一定以上続くと双方の給電区画ごとにわずかに存在する電圧差から電車のパンタグラフを大電流が通過し、発熱や連続したアークによってパンタグラフまたは架線を溶断、また変電所の高速度遮断機が作動して停電となり、運行不能となる事態が、2004年から2007年ごろにかけて度々発生し、問題となった。
2005年、京浜東北線大森→蒲田間で209系がユニット故障で立ち往生、ブレーキシステムの違いから重い205系や機関車での救援ができず、同一構成の編成から救援列車を出すも、折からの降雨で粘着力が確保できなくなり4時間の立ち往生となった。窓は固定式で換気装置も電動のみと換気もままならない車内は急激に不快指数が上がり、限界を感じた十数名が最後尾乗務員室を通じて乗務員扉から脱出、うち16名が救急搬送される事態になった。この事件により、209系の窓開閉化工事が行われ、さらには故障に強いE233系1000番台を投入したことで、209系は京浜東北線から完全撤退した。209系の後に登場したE231系などは、製造時より開閉できるようになってる。
脚注
参考文献
- 中川浩一「桜木町事故とモハ63形のかかわり」
- 電気車研究会『鉄道ピクトリアル』2005年1月号 No.756 p64-p69
- 浅原信彦「桜木町事故報告書の謎 サハ78144と188はどちらが事故車だったのか」
- ネコ・パブリッシング『Rail Magazine』2006年8月号 No.275 p114-p115