リバタリアニズム

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テンプレート:混同 テンプレート:リバタリアニズムのサイドバー リバタリアニズムテンプレート:Lang-en-short)は、個人的な自由、経済的な自由の双方を重視する、自由主義上の政治思想[1][2]。リバタリアニズムは、他者の権利を侵害しない限り各人は自由であり、政府が干渉すべきでなく、最大限尊重すべきであるとする。日本語においてもそのまま「リバタリアニズム」と表現される場合が多いが、本来の思想から語意が変遷している「リベラリズム」と区別する意味で、単に「自由主義」と訳されることはあまりなく、完全自由主義自由至上主義自由意志主義など多数の訳語が存在する。また、リバタリアニズムを主張する者をリバタリアンと呼ぶ。

なお、哲学神学形而上学においては決定論に対して、自由意志と決定論が両立しないことを認めつつ(非両立説 incompatibilism)、非決定論から自由意志の存在を唱える立場を指す。この意味では、日本語では自由意志論等の形に訳されることのほうが多い。

概要

リバタリアンはレッセフェール(自由放任)を唱え[3]経済社会に対する国家政府の介入を最小限にすることを主張する[1]。リバタリアンは「権力は腐敗する、絶対権力は絶対に腐敗する」という信念を持っている[1]。 また、自律の倫理を重んじ、献身や軍務の強制は肉体・精神の搾取であり隷従と同義であると唱え、徴兵制福祉国家には強く反対する。なお、暴力詐欺、侵害などが起こったとき、それを起こした者への強制力の行使には反対しない。自然権的リバタリアンと帰結主義的リバタリアン[4]などに分類される場合がある。

アメリカ合衆国では、選挙年齢に達した者のうちの10%から20%が、リバタリアン的観点を持っているとされている。[5]

リバタリアニズムの基本理念

リバタリアニズムでは私的財産権もしくは私有財産制は、個人の自由を確保する上で必要不可欠な制度原理と考える。私的財産権には、自分の身体は自分が所有していることを自明とする自己所有権原理を置く。(→ジョン・ロック)私的財産権が政府や他者により侵害されれば個人の自由に対する制限もしくは破壊に結びつくとし、政府による徴税行為をも基本的に否定する。法的には、ハイエクに見られるように、自由とは本質的に消極的な概念であるとした上で、自由を確保する法思想(法の支配/rule of law)を追求する。経済的には、市場で起きる諸問題は政府の規制や介入が引き起こしているという考えから、市場への一切の政府介入を否定する自由放任主義(レッセフェール/laissez-faire)を唱える。[6]

リバタリアニズムにおける自由

リバタリアンの唱える自由とは消極的自由を指している。これは、他からの制約や束縛がないことという意味である。リベラリズムにおける、政府のサポートを必要とする積極的自由(国家による自由)と、リバタリアニズムにおける消極的な自由(国家からの自由)とは対照的で多くの場合相反する概念である。

生存権、自由権、財産権の根拠

ロバート・ノージックマレー・ロスバードのようなリバタリアンは生存権、自由権、財産権を自然権、すなわち擁護するに相応しいものとみている。彼らの自然権に対する見方はトマス・ホッブズジョン・ロックの著作に由来している。 アイン・ランド(リバタリアニズムに多大な影響を与えた人物)は、そのレッテルを拒絶していたが、これらの権利が自然法に基づくと考えていた。ロバート・ノージックの「アナーキー・国家・ユートピア」では「自由な社会では、新たに所有するという行為は、個々人の自発的な交換や行動から生じる」といわれる。

ルートヴィヒ・フォン・ミーゼスフリードリヒ・ハイエクといったリバタリアンは、道徳上の観点と同様に実用主義または帰結主義の観点から、これらの権利を説明した。彼らは、リバタリアニズムが経済効率の追求と社会福祉の増進とが矛盾しないことを主張し、緊急事態のような限定的な状況下での実力の行使を認めた。ディビッド・ゴティエやジャン・ナーヴソンのようなリバタリアンは、これらの権利が理性的な人々の間で結ばれた一種の契約であるとする社会契約論者の立場をとった。

リベラリズムとの違い

個人の自由を尊重する立場としては、元来「リベラリズム」という用語が存在するが、この語は社会的公正を志向するがゆえに政府による富の再分配(所得再分配)によって平等を実現しようとする社会主義~社会民主主義的、あるいは福祉国家的な文脈で使われるようになった。そのように語意の変化した概念と区別し、本来の自由主義を表す言葉として、リバタリアニズムという用語が使われるようになった。

現代のリベラリズムは自由の前提となるものを重視して社会的公正を掲げ、リバタリアニズムと相反する。例えばリベラリズムは、貧困者や弱者がその境遇ゆえの必要な知識の欠如、あるいは当人の責めに帰さない能力の欠損などによって、結果として自由な選択肢を喪失する事を防ぐために、政府による富の再分配や法的規制など一般社会への介入を肯定し、それにより実質的な平等を確保しようとする。しかし、リバタリアンは「徴税」によって富を再分配する行為は公権力による強制的な財産の没収であると主張する。曰く、ビル・ゲイツやマイケル・ジョーダンから税金を重く取り、彼らが努力によって正当に得た報酬を人々へ(勝手に)分配することは、たとえその使い道が道義的に正しいものであったとしても、それは権利の侵害以外の何物でもなく、そうした行為は彼らの意思によって行われなければならない。すなわち、貧困者への救済は国家の強制ではなく自発的な仕組みによって行われるべきだと主張する。

その他の思想との違い

リバタリアンの主張では、リバタリアニズムとは経済的自由と社会的自由(個人的自由、政治的自由)を共に尊重する思想であり、リバタリアン自身による右のノーラン・チャートによれば、社会主義などの左翼思想は個人的自由は高いが経済的自由は低く、保守主義などの右翼思想は経済的自由は高いが個人的自由は低く、ポピュリズム(ここでは権威主義全体主義などを指す)では個人的自由も経済的自由も低い、という位置づけとなる。

リバタリアンの多くは経済的自由と政治的自由の両方を重視するため、社会主義などによる国営化計画経済も、ファシズム軍国主義などによる統制経済開発独裁も、いずれも経済的自由が低い「集産主義」であるとして批判し、同時にまた、共産主義などの一党独裁も、ファシズム軍国主義などの言論統制も、いずれも政治的自由が低い「全体主義」であるとして批判する場合が多い。逆に左翼からリバタリアニズムへの批判には弱肉強食の強欲資本主義である、右翼からリバタリアニズムへは伝統的価値や社会の安定を軽視しているなどと批判される。

また、社会的自由をも尊重する立場であるため、家族性道徳などに対する保守的な価値観を重視する新保守主義とも異なる。

アナキズム(無政府主義)は多数の思想潮流を含むが、基本的には国家や政府を廃止する事で自由や平等を最大化する思想のため、リバタリアニズムとは関連性がある。社会主義の側面が強い社会的無政府主義とは対立する場合が多いが、個人主義的で自由放任的な側面が強い個人主義的無政府主義とは共通点が多く、特に自由市場無政府主義はリバタリアニズムの主張と呼ばれる事も多い。

しかしながら、リバタリアニズム自体にも多くの潮流があり、国家や政府を完全に廃止する無政府資本主義から最低限の国家や政府を認める最小国家主義まで幅広く、時に対立しつつも[7][8]政府が過剰に一般市民の生活に介入しているという主張で基本的に一致している(en:Anarcho-capitalism_and_minarchism)。

リバタリアニズムの類型

自然権的リバタリアンと帰結主義的リバタリアン

自然権的リバタリアン(Right Libertarian)と帰結主義的リバタリアン(Consequentialist libertarian)との違いは大まかに言えば自由を正当化する根拠の違いである。

自然権的リバタリアンはロック的伝統にのっとり、自由を、不可侵な自然権としての自己自身への所有権として理解する。他方で、帰結主義的リバタリアンは、最大多数の最大幸福は、相互の不可侵な自由が確立されている状態で最大化されるのであり、政府などによる意図的な規制・干渉は、自然な相互調整メカニズムを混乱させ、事態を悪化させると考える。

自然権的リバタリアンを支持する側は、人と人、または個人と政府の関係においては、全ての行動が自発的で合意に基づくものであることは道徳的に必須であるとする。(従って倫理的リバタリアンとも呼ばれる)彼らは、個人または政府が、個人または個人の財産に強制力を及ぼすとき ― 強制力とは、身体・物質的な強制、それを行うという脅迫、または詐欺的行為 ―、それが相手から初めに仕掛けられたものでないのなら、そのような強制力は自発的で合意に基づくとの理念に対する違反行為であると主張する。この考え方は、客観主義(Objectivism)や個人主義的無政府主義と通じるものがある。

また、帰結主義的リバタリアンを支持する側にとっては、「誰が初めに行動を起こしたか」ということは道徳的な束縛を持っておらず、たとえ最初の強制が政府からなされたものだとしても、政治的、経済的自由を大規模に推進すれば、それが最も生活に適し、最も効率のいい社会につながるのだと考えている。しかしながらそのような政府の行動は、帰結主義者が描くような社会の中では限られた対象に関してでしか起こらない。この考え方は、 ルートヴィヒ・フォン・ミーゼスハイエクのような者達の考えに結びついている。リバタリアンだとみなされる者には、古典的自由主義者だと、自認、もしくは他の者から言われている者もいる。

リバタリアニズムの政策(リバタリアンの一部が主張する内容の例)

政治面では国家による個人への関与を可能な限り否定する。具体例として、結婚制度の廃止、教育制度の廃止、麻薬売春に対する規制の撤廃、賭博同性愛の容認、君主制の廃止が挙げられる。もちろん退廃的な社会を是とするわけではない。これらの個々人の自律に委ねるべき領域は、国家が過剰干渉するべきではないと説く。

経済面では、個人の経済活動の自由を実現するため、市場による代替的な供給が可能なあらゆる財への国家による関与を否定する。具体的には、公共事業・財政政策の廃止、相続税贈与税固定資産税・譲渡所得税の廃止、累進税率の廃止、都市計画反対、中央銀行の廃止、公的年金の廃止、金本位制の復活である。

また、他者からの不可侵が保障されるべき自由は人身所有権のみであるということから、それ以外のいわゆる「新しい人権」(名誉権環境権プライバシー権など)は認めない。他者の人格批判なども一切公権力による取締りの対象とはならないが、自生的な秩序としてそのような悪趣味な行為が非難の対象となる社会が形成されるだろうというのがリバタリアンの一部の者たちの考えである。

ミルトン・フリードマンが提唱した負の所得税は再分配政策であり自然権を尊重する思想であるリバタリアニズムは再分配に否定的である。フリードマンは純然たる功利主義者の観点から政策を提言していて、金融政策や再分配政策等の積極的介入を多々主張しているのでオーストリア学派の学者からは彼はリバタリアンではないとの声も多い。負の所得税は実際にはイギリスカナダオーストラリアニュージーランドで一部導入されているが、これ等の政策は福祉の一本化、公務員の削減とセットでは無い唯の再分配政策になっていてリバタリアニズムとの相関性は当然無いが、仮に一本化したとしてもそれは私有財産の侵害を伴う積極的介入であることに違いはない。リバタリアンは私有財産の尊重の観点から再分配政策に否定的なのであって福祉を廃止したのに伴い新たな再分配でこれを補うべきであるという発想は福祉リベラリズムや功利主義からの派生でありリバタリアニズムではない。

現代のリバタリアニズム

脚注

  1. 1.0 1.1 1.2 テンプレート:Cite journal
  2. Merriam-Webster Dictionary definition of libertarianism
  3. 嶋津格訳『アナーキー・国家・ユートピア――国家の正当性とその限界(上・下)』序(ⅰ)(木鐸社, 1985年二巻本・1995年一巻本) ISBN 4833221705
  4. Barry, Norman P. Review Article:The New Liberalism. B.J. Pol. S. 13, p. 93
  5. [1]
  6. 嶋津格訳『アナーキー・国家・ユートピア――国家の正当性とその限界(上・下)』序(ⅰ)(木鐸社, 1985年二巻本・1995年一巻本) ISBN 4833221705
  7. Antman, Less. "The Dallas Accord Is Dead". Lewrockwell.com. May 12, 2008.
  8. Knapp, Thomas, "Time for a new Dallas Accord?", Rational Review.

参考文献

関連項目

外部リンク

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