ラーマ9世

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
プミポンから転送)
移動先: 案内検索

テンプレート:Infobox テンプレート:チャクリー王 ラーマ9世テンプレート:Lang-th1927年12月5日 - )は、チャクリー王朝第9代のタイ国王(在位:1946年6月9日 - )。

通称はプーミポンアドゥンラヤデートテンプレート:翻字併記、「大地の力・並ぶ事なき権威」の意)。英語や日本語では一般に長母音を無視し、プミポン国王とも通称されるが、本来はタイ語においては(称号なども含めて)後ろのアドゥンラヤデートと不可分一体であり、プーミポンだけで呼ばれることはほとんどない。

生涯

生い立ち

ファイル:Bhumbol and Sirikit.jpg
婚姻後のプーミポンと王妃シリキット

1927年12月5日、アメリカマサチューセッツ州ケンブリッジで生まれる。ラーマ5世の69番目の子息、ソンクラーナカリン王子を父に持つ。

学業はスイスローザンヌ大学で修めた。学業中にいったん休学し、第二次世界大戦終結後の1945年にタイへ帰国するが、翌年の1946年6月9日に兄・ラーマ8世が怪死したため、兄王の死の12時間後にタイ国王に即位。その後すぐにローザンヌ大学へ復帰し、1952年に帰国した。

国王時代

1950年4月、フランス滞在中に出会ったシリキット・キッティヤーコーンと結婚する。彼女も王族であり、ラーマ9世の従姉妹にあたる。同年5月5日に戴冠。その後1956年にはタイの仏教の伝統に基づき、仏門に入って一時的に俗世間を離れ、還俗(再び俗世に復帰)した。この期間はシリキット王妃が摂政として一部公務を代行した。

タイは1932年6月24日の立憲革命以降立憲君主制ではあるものの、実質的には軍事政権の下に置かれた時期が長い[1]。民政移管とその失敗に軍事クーデターが繰り返されており、今日まで政権の不安定な状況は続いている[2]。ラーマ9世は国民からも絶大な支持と敬愛を集めていったが、若き国王は政治の象徴的頂点に過ぎなかった。

1960年代から1970年代にかけて、世界的な植民地・保護領独立の趨勢や共産主義の波及を受け、ベトナムカンボジアなど東南アジア諸国が混乱に陥った時代[3]、ラーマ9世は表だった政治行動は避けつつ、軍政と市民運動に対して硬軟両様で対応する。やがてタイが東南アジア諸国連合において重要な地位を占め、経済力が増強すると、ラーマ9世は国内政治に対して直接の干渉をせず[4]、官僚・軍部など利害関係の調停役として采配を振るい、困難な情勢の打開収拾に手腕を見せた[5]。ラーマ9世によってタイ王家は、ラーマ7世以来失墜した地位を大きく回復したといえる。

1992年の「暗黒の5月事件」は、その象徴的な事件であった。ラーマ9世は、政府の武力弾圧によってバンコク市内などが流血の事態に陥った際、軍を背景にするスチンダー首相と、民主化運動グループの民間人指導者チャムロンを玉座の前に等しく正座させ、「そんな事で国民のためになると思うか、双方ともいい加減にせよ」と叱りつけ、騒乱を一夜にして沈静化させた。「人間性が高く慈悲深い人物である」という、タイ国王が伝統的に行うべきとされるノブレス・オブリージュ[6]に一層の真実味を与えた一方で、ラーマ9世自身の政治的な成熟を見せつけ、権力のバランサーとしての側面を強調するものとなった[7][8]。結果スチンダー内閣は解散し、同年の選挙以降タイ王国は民主体制となった。[9]

2003年に隣国カンボジアとの間で小競り合い[10]が発生し(プノンペン・タイ大使館焼き討ち事件[11]を参照)、1月30日に扇動されたタイ国民がバンコクのカンボジア大使館に約500人押し寄せた際に、ラーマ9世は「悪党の言葉に惑わされてはならぬ」と発言、この明快無比な表現が報道され暴徒はただちに解散し事件は終息に向かった。2006年4月には、野党が立候補をボイコットした下院総選挙に対して「民主主義的ではない」との理由でやり直しの意向を示唆、これを受けて憲法裁判所が再選挙を命じ、与野党も決定に従った[12]

2006年6月には即位60周年を祝う祝賀行事が国を挙げて執り行われた。ベルギーサウジアラビアオランダなど世界24か国の君主制を採る国々から国王皇太子を始めとする王族(日本からも天皇皇太子皇族が参加した)が参列し、ラーマ9世の即位60年を祝った。一般市民も国王の誕生色である黄色のシャツを着用して街を埋め尽くし、盛大な祭りとなった。

2007年10月中旬には、右半身の不調を訴えたためにシリラート病院に入院し、脳血流障害の診断が下された。その後投薬治療を受け急速に回復に向かい、11月7日に退院した際には、病院前からチットラダー宮殿までの沿道に、黄色の服を着た数万人の市民が集まって退院を祝ったほか、記帳者の数も100万人を超えたと報じられた。

なお、退院の際に国王がピンク色のジャケットを着ていたことを受け、その後タイ国内では国王の健康と長寿を願う意味を込めて、ピンク色のシャツやブラウスを着ることが流行している。

2009年9月19日に発熱などのため再びシリラート病院に入院、翌10月中旬には容態に関する噂が流れたためタイ王室庁が国王は快方に向かっていると強調するなど[13]、タイ国民の間で不安が高まっているとされている[14]。2012年5月に一時退院し、アユタヤ県の洪水対策工事の視察に出かけ健在をアピールした[15]。現在、世界で最も在位期間の長い国王であり、タイ史上においても稀にみる長い期間王位に就いている。現在は高齢のため普段はフワヒンにあるクライカンウォン宮殿に居し、公務の数を減らしている。

家族

シリキット王妃との間に1男3女がいる。1972年ワチラーロンコーン王子へ、1975年シリントーン王女へそれぞれ王位継承権が贈られている。

人物

国民からの敬愛

ファイル:Chiangmai Bhumibol image.JPG
チェンマイ市内に置かれた誕生日を祝う肖像画

「王室プロジェクト」と呼ばれる農業を始めとする地方経済の活性化プログラムを自ら指導する他、自ら土地改革運動のために王室の所有地を提供したり、農村開発や旱魃対策の人工雨等の各種王室プロジェクトを推進している。また、王妃と共に地方視察も非常に精力的に行い、泥濘や雨天の中でも人々の輪の中に積極的に入っていくなど国民に近い立場を取り続けることから、確実にタイ国民の尊敬と信頼を勝ち得た。実際に、毎年誕生日前になると全国各地に肖像画が飾られ、国王の色とされる黄色いシャツを着用した市民で埋め尽くされるほどである。

サリット独裁政権は悪化した治安改善に強権発動と同時に王室を崇めるキャンペーンを進め、そこには朝鮮戦争以降の世界状勢から共産主義対抗の政治利用が進められたことも影響しているという意見や、1973年10月14日タノーム([1])政権へ民主化を求めた学生決起での介入(血の日曜日事件、タノーム政権崩壊)、1976年10月6日 血の水曜日事件(またはタンマサート大学虐殺事件[2])制圧へ助言、「暗黒の5月事件」など[16] 、政治関与は将来の検証にゆだねられる。しかし即位から人格への批判言及は皆無に等しく、政府の王室関係への言論統制[17]を考慮しても、清廉な人柄と様々な功績が評価され国民の自発的な尊敬を集めている事実は揺るぎない。その人物像についてタイ国民への世論調査、「暗黒の5月事件」政変の際に当事者と謁見し、憂慮の様子が報道されるなどして、国内外から高く賞賛されている[18]

広くタイ国民からの敬愛を受け続けているが、反王制派思想[19][20]やアジア人に対する侮蔑的感情を持つ外国人等による批判を受けることもあり、たとえ自国民でなくても不敬罪を以って処される。2007年に国王のポスターに黒ペンキを塗布したスイス人男性には禁固10年(最高刑は75年)[21]、著書で王室を批判したオーストラリア人男性が2009年 テンプレート:いつ1月に懲役3年の実刑判決を受けたケースがある[22]。また海外で出版された書籍の執筆者がタイ国内に長期滞在していたために不敬罪に問われたケースもある[23]。しかしながら諸外国の政府や国民からの評価は高く、NHKラジオ深夜便の海外レポートコーナーなどで紹介する際も、「(タイ国民が)敬愛するプミポン国王」という表現が使われることが多い。

日本との関係

長きに亘ってアジアにおける数少ない独立国であり続け、共に君主制を採り続けてきたタイの王室と日本皇室は歴史的に縁が深く、国王自身も1963年5月に初来日し、当時の皇居仮宮殿で昭和天皇と会談を行っている他、今上天皇と皇后とも数度に渡り会談を行っている。

また、タイを公式、非公式で訪れることの多い秋篠宮文仁親王を「我が子と同様」であるとして懇意にしている[24]

なお、日本製品を日常に数多く使用することでも知られ、一時期王宮内の移動用にホンダ・アコードを3代に亘り使用していた他、キヤノンの一眼レフカメラを長年愛用している。また日本楽器製造(現ヤマハ)はサクソフォーンを献上したことがある。

逸話

著書

系譜

テンプレート:Ahnentafel top テンプレート:Ahnentafel-compact5 テンプレート:Ahnentafel bottom

脚注

テンプレート:脚注ヘルプ テンプレート:Reflist

関連項目

外部リンク

テンプレート:タイ国王
  1. 1932年からの歴代タイの首相[3]
  2. タイにおける政変一覧 [4]
  3. ラオス革命による王室廃止とその後(ラオス国王サワーンワッタナー[5]の項目参照)はタイ皇室にとって深刻な事態だった。
  4. ラーマ9世にとって、国民の生活水準が向上した1990年代は(同時に皇室財力も向上した)ソ連共産圏勢力弱体化で反政府そして反皇室の根本である非合法組織タイ共産党の不安が完全消滅し治安の細心より経済面に立った時代といえる。暗黒の5月事件でのラーマ9世の真意は国民の立場ながら、経済面でタイの海外戦略に乗取った意図が大きい。
  5. 事件の顛末と政府官僚の証言述懐による推察が多く、情報開示による検証が望まれる。
  6. いわゆる十徳 (ทศพิธราชธรรม) 。十徳については 田中忠治『タイ入門』日中出版、1988年、55頁参照のこと。ただし、法的な根拠はない。
  7. 赤木攻『タイ政治ガイドブック』Meechai & Ars Legal Consultants、1994年、162 - 163頁
  8. ただし、タイ政府に対して批判的なアメリカのジャーナリストポール・ハンドリーはその著書の中で、国王とスチンダーの関係を示唆し、最初の衝突があって国王が行動に出るまで3日間の日時がかかっている事を強調しているが、これの根拠は明らかになっていない。Handley, Paul M. The King Never Smiles Yale University, 2006, P.9
  9. その後タクシン・チナワット政権でタイ軍事クーデター (2006年)が発生する。
  10. タイ、カンボジア間の国境扮装問題[6]、最近はプレアビヒア寺院地区の帰属で軍事衝突に発展した。
  11. [7]
  12. 2000年代は中国の増大する経済権勢からタイ国内にある従来の経済地域格差が増幅され、民族問題では中東、西アジアの影響刺激に南部のイスラム過激派の台頭など治安問題は大きく変化した。タクシン・チナワット政権以降日常的な倒閣市民運動に及び、憲法裁判所の違憲判決から首相失脚が相次ぐなどラーマ9世の関与影響以外に検証する必要がある。
  13. テンプレート:Cite news
  14. テンプレート:Cite news
  15. タイ国王、アユタヤ訪問 市民が歓迎行事 - U.S.Frontline、2012年5月25日
  16. タイにおける政変一覧[8]
  17. ネット検閲[9]「タイでは非合法活動の表現を規制するために著しい労力が払われた。タイが管轄するDNSサーバの管理やプロキシの管理によりポルノ、薬物の使用、ギャンブルが厳しく禁じられている。また王室批判は不敬罪で処断される。これによりそれらウェブサイトはアクセス困難になっている。政府はネット検閲を回避する方法を論じたサイトをもブロックした。」タイ国内の言論統制事情から直接的な王室批判言及はほぼ封殺状態に等しい。顕著な例にワチラーロンコーン王子の素行は一般市民において「公然の秘密」だが言及すら出来ない。
  18. しかし、最近ではタクシン元首相派の集会で国王を批判したとしてタイ人女性(当時51歳)に懲役18年の実刑判決を言い渡した。2009年4月にはウェブサイトに王室を侮辱する画像を掲載したとして不敬罪とコンピュータ関連犯罪法違反に問われたタイ人男性が懲役10年の判決を受けた
  19. 君主制廃止論
  20. 王制廃止を目指した非合法政党タイ共産党といった少数派も存在する。
  21. その後、逮捕から約10日後にラーマ9世自身からの恩赦による減刑が行われ、国外追放刑となった。
  22.  王室を擁護する厳格なタイの法律が適用され禁固3年の有罪となったオーストラリア人被告は、2005年に自費出版で発行した著書の一節がタイ王室を侮辱したという罪状を認めた。テンプレート:Cite news
  23. 2000年8月マガジンハウス刊「チェンマイの田舎暮らし」の著者高橋公志は、2003年7月22日に禁固15ケ月執行猶予2年の刑を受けた。
  24. テンプレート:Cite web