コンスタンティノープル

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コンスタンティノープル古典ラテン語Constantinopolis コーンスタンティノポリス古典ギリシア語/中世ギリシア語Κωνσταντινούπολις コーンスタンティヌーポリス/コンスタンディヌポリス)は、東ローマ帝国首都であった都市で、現在のトルコの都市イスタンブルの前身である。

強固な城壁の守りで知られ、330年の建設以来、1453年の陥落まで難攻不落を誇り、東西交易路の要衝として繁栄した。正教会の中心地ともなり、現在もコンスタンディヌーポリ総主教庁が置かれている。

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東ローマ帝国時代のコンスタンティノープル

概要

コンスタンティノープルは、330年にローマ皇帝コンスタンティヌス1世が、古代ギリシアの植民都市ビュザンティオンΒυζάντιον, Byzantion)の地に建設した都市である。この地は古来よりアジアとヨーロッパを結ぶ東西交易ルートの要衝であり、また天然の良である金角湾を擁していた。当時の都市名の「コンスタンティーノポリス」は「コンスタンティヌスの町」を意味する。

395年のローマ帝国東西分割後は、東ローマ帝国の首都となり、「新ローマ」「第2のローマ」という意識が定着した。東ローマ帝国の隆盛と共に、30万~40万の人口を誇るキリスト教圏最大の都市として繁栄し、「都市の女王」「世界の富の3分の2が集まる所」とも呼ばれた。また古代の建造物が残る大都市としてその偉容を誇った。正教会の首長であるコンスタンディヌーポリ総主教座が置かれ、正教会の中心ともなり、ビザンティン文化の中心でもあった。都市の守護聖人聖母マリアである。

コンスタンティノープルは強固な城壁の守りでも知られ、東ローマ帝国の長い歴史を通じて外敵からの攻撃をたびたび跳ね返した。しかし1204年に第4回十字軍の攻撃を受けると衰退が加速した。1453年にオスマン帝国によりコンスタンティノープルが陥落し、東ローマ帝国が滅亡すると、この街はオスマン帝国の首都となった。日本ではこれ以後をトルコ語によるイスタンブルの名で呼ぶことが多い。ただし、公式にイスタンブルと改称されるのはトルコ革命後の1930年である。

現在も東方正教会およびアルメニア使徒教会は、コンスタンディヌーポリ総主教座をイスタンブルに置いている。東方正教会のコンスタンディヌーポリ総主教の正式称号は「新ローマ・コンスタンディヌーポリの大主教、全地の総主教」であり、この都市に付された「新ローマ」の称号は現在もなお生きている。

名称

日本語では、一般的に英語Constantinople の音訳である「コンスタンティノープル」がよく用いられているが、古典ラテン語では「コーンスタンティーノポリスConstantinopolis)」、古典ギリシア語では「コーンスタンティヌーポリスΚωνσταντινούπολις)」、中世ギリシア語およびそれを受け継ぐ近現代ギリシア文語(カサレヴサ)では「コンスタンディヌポリス(同綴り)」、現代ギリシア語(ディモティキ)では「コンスタンディヌポリΚωνσταντινούπολη)」のように呼称される。1453年にオスマン帝国に占領されてからは、オスマン語で 「コスタンティーニーイェقسطنطينيه)」と呼ばれた。現在の都市名としては、トルコ語の「イスタンブルİstanbul)」である。哲学・思想学の分野でギリシア語文献を日本語訳する際などは、ギリシア語ではなくラテン語の慣用的な音訳「コンスタンティノポリス」が使用されることが多い。

このほかの自称としては、「新ローマ(古ラNova Roma ノウァ・ローマ古ギΝέα Ῥώμη ネア・ローメー)」「その町(古ギἡ Πόλις ヘー・ポリス[1])」などがある。外名としては、ロシア語などのスラヴ系の史料の中で「皇帝の町(Цариград ツァーリグラード)」という呼び名が使われているほか、ヴァイキングから「偉大な町(古ノルド語Miklagarð ミクラガルズ)」と呼ばれることもあった。漢字では「君府」という当て字も用いられる。

都市名の転写一覧

古典ギリシア語再建音 中世ギリシア語
近現代ギリシア文語(カサレヴサ)
現代ギリシア語(ディモティキ) 古典ラテン語再建音
コーンスタンティヌーポリス コンスタンディヌポリス コンスタンディヌポリ
コンスタンディヌーポリ
コーンスタンティーノポリス
英語 日本正教会奉神礼時) ロシア語 オスマン語
コンスタンティノープル コンスタンティノポリ コンスタンティノーポリ コスタンティーニーイェ

歴史

古代末期の繁栄(4世紀~6世紀)

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東ローマ帝国時代のコンスタンティノープル

ビュザンティオンは、古代ギリシアの植民都市に起源を持ち、古来よりアジアとヨーロッパを結ぶ東西交易ルートの要衝であり、また天然の良港である金角湾を擁していた。コンスタンティヌス1世(大帝)は、リキニウスとの内戦の中で324年にビュザンティオンを攻略すると、この地に着目し、都市計画を一新して「コンスタンティノポリス」を建設した。開都式は330年5月11日に行われた。この当時、コンスタンティノープルはローマ帝国の一地方都市の域を出ていなかった。コンスタンティヌス1世がローマに代わる「新しいローマ」を建設したという考えは、当時は存在しなかったようである[2]。市域もビュザンティオン時代と比べれば大幅に拡大されたが、後代より狭かった。コンスタンティヌスの後継の皇帝達もこの街に常住したわけではなかった。

治世の多くをこの街で過ごした最初の皇帝はテオドシウス1世である。テオドシウス1世の死後、ローマ帝国の東西分裂が定着すると、コンスタンティノープルは東ローマ帝国の首都となった。410年、ローマ西ゴート人により掠奪を受け、帝国の東方でもフン族ドナウ川の北に迫っていた。防衛体制を強化するため、テオドシウス2世は現在も残っている難攻不落の「テオドシウスの城壁」を建設し、413年に完成した。以後ローマが急速に衰退していったのに対して、コンスタンティノープルの人口は増加し続けた。市内には、宮殿やハギア・ソフィア大聖堂を始めとする教会、大浴場や劇場といった公共施設が数多く作られた。西ローマ帝国が滅亡した476年頃になると、東ローマ帝国の人々には「コンスタンティノープルは第2のローマ」という意識が芽生えていった。

6世紀には、毎年5月11日の開都祭が帝国の重要な記念日として盛大に行われるようになり、「コンスタンティヌスが新しいローマを建設した」という意識が定着した。時の皇帝ユスティニアヌス1世のもとで、東ローマ帝国は最初の隆盛を迎え、コンスタンティノープルはキリスト教世界最大の大都市、全世界的に見ても最大級の大都市[3]として繁栄した。市民にはパンが無料で支給されるいっぽう、競馬場では戦車競走が連日開催され市民はそれに熱狂していた。古代ローマにおける「パンとサーカス」はこの時代でも帝国の東方では維持されていたのである。

暗黒時代から再興へ(7世紀~8世紀)

ユスティニアヌス1世の死後、東ローマ帝国は急速に衰退し、領土は縮小していった。7世紀になるとサーサーン朝、次いでイスラム帝国によってシリアエジプトなどの穀倉地帯を奪われ、皇帝ヘラクレイオスはコンスタンティノープル市民へのパンの支給を廃止した。674年から678年にはコンスタンティノープルはイスラムの海軍によって毎年包囲された。この際は秘密兵器であるギリシアの火を用いてイスラム海軍を撃退することに成功したが、相次ぐ戦乱などから市民の人口も激減し、水道や大浴場といった公共施設は打ち棄てられ、市内には空き地が目立つようになった。

717年から718年にはイスラム帝国の大遠征軍がコンスタンティノープルを包囲したが、皇帝レオーン3世によってイスラム軍は撃退された。徐々に東ローマ帝国が国力を回復させていくと、コンスタンティノープルにも再び活気が戻ってきた。766年には人口増加に対応するために水道が修復された。コンスタンティノープルは戦車競走に熱狂していた古代の市民に代わって、絹織物や貴金属工芸などの職人や東西貿易に従事する商人などが住む商工業都市として甦ったのである。

黄金時代(9世紀~11世紀)

東ローマ帝国が東地中海の大帝国として復活した9世紀になると、宮殿や教会・修道院が多数建設され、孤児院病院のような慈善施設も建てられた。古代ギリシア文化の復活とそれを受けたビザンティン文化の振興も進み(マケドニア朝ルネサンス)、コンスタンティノープルは東地中海の政治・経済・文化・宗教の拠点として、またロシアブルガリア・イスラム帝国・イタリアエジプトなどの各地から多くの商人が訪れる交易都市として繁栄を遂げ、10世紀末から11世紀初頭の帝国の全盛期には人口30万~40万人を擁する大都会となった。当時の西ヨーロッパにはこの10分の1の人口を抱える都市すら存在せず[4]、コンスタンティノープルはキリスト教世界最大の都市であった。

11世紀後半になると、東ローマ帝国はセルジューク朝の攻撃などを受けて弱体化するようになり、コンスタンティノープルの繁栄はいったん衰えるが、11世紀末から12世紀のコムネノス王朝の時代に帝国が再び強国の地位を取り戻すと、国際交易都市としての繁栄を取り戻した。

帝都陥落と荒廃(12世紀~13世紀)

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ギュスターヴ・ドレ(1832-1883), 『コンスタンティノープルに入城する十字軍』

11世紀以降、イタリア都市国家が東地中海に勢力を伸ばしてきた。特にヴェネツィア共和国は東ローマ帝国と徐々に対立を深め、1204年第4回十字軍を教唆してコンスタンティノープルを海側から攻撃させた。海側の城壁は高さも低く、コンスタンティノープルの弱点だった。4月13日、コンスタンティノープルは陥落し、十字軍兵士による暴行・虐殺・掠奪が行われた。

十字軍はコンスタンティノープルを首都としてラテン帝国を建てたが、存立基盤が弱く、ヴェネツィアの海軍力・経済力に依存していた。このためコンスタンティノープルにあった美術品や宝物は、食糧代などとしてほとんどヴェネツィアに持ち去られ、壮麗さを誇った宮殿・教会といった建造物も廃墟と化していった。1261年7月に東ローマの亡命政権ニカイア帝国は、たまたま守備兵が不在だったのを突いて、コンスタンティノープルを攻撃、奪回した。これによって東ローマ帝国は再興されたが、国力は以前に比べて格段に弱くなっており、帝都の大半は荒れるに任された。人口も4万~7万人に減少し、貿易もヴェネツィアやジェノヴァといったイタリアの都市に握られてしまい、都に富をもたらすことはなかった。

終焉(14世紀~15世紀)

テンプレート:See also 14世紀になるとコンスタンティノープルはオスマン帝国軍に度々包囲され、東ローマ帝国の命運も風前の灯火となった。ただ、文化だけは最後まで栄え、古代ギリシア文化の研究がさらに進み、ビザンティン文化の中心としての地位を維持した。この文化の繁栄は、当時の皇室の姓(パレオロゴス王朝)を取って「パレオロゴス朝ルネサンス」と呼ばれ、西欧のルネサンスに非常に大きな影響を与えた。

1453年4月、コンスタンティノープルの奪取に並々ならぬ意欲を燃やすメフメト2世が、10万のオスマン帝国軍を率いてコンスタンティノープルを包囲した。オスマン側は大型の大砲ウルバン砲)を用いたり、艦隊を陸越えさせて金角湾に入れるなど、大規模な攻囲作戦を行なった。コンスタンティノープルの堅固な防壁は健在であり、東ローマ帝国軍とイタリア人傭兵部隊はわずか7千の兵力だったにもかかわらず2か月に渡って抵抗を続けた。しかし5月29日未明、オスマン軍は総攻撃を行い、閂を閉め忘れた城門からついに城内へと侵入した。コンスタンティノープルは陥落し、最後の皇帝コンスタンティノス11世は乱戦の中で戦死、東ローマ帝国は滅亡した。 メフメト2世は兵士たちに都市を3日間略奪するように命じたが、古代から続くこの帝国への敬意を忘れなかったため、数時間後に一転して軍の行動を阻止するように命じた。 その後ハギア・ソフィア大聖堂などはモスクへ改修された。

古代ローマ帝国・東ローマ帝国時代の主な建造物

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ハギア・ソフィア大聖堂
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ヴァレンス水道橋
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コンスタンティノス・ポルフュロゲネトスの宮殿
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ブーコレオン宮殿
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ゼイレク・モスク(旧パントクラトール修道院付属教会)
ハギア・ソフィア大聖堂テンプレート:Nobold
初期ビザンティン建築の最高傑作。帝国最大の教会で、東ローマ帝国期には総主教座が置かれていた。コンスタンティノープルの陥落後、モスクに改修され、現在は無宗教の博物館として公開されている(「アギア・ソフィア」は中世以降のギリシア語読み。古典ギリシア語では「ハギア・ソピアー」)。
ハギア・エイレーネー大聖堂テンプレート:Nobold
初期の総主教座所在地。オスマン帝国期にはトプカプ宮殿の倉庫に改修され、建物としては現存している。
聖諸使徒聖堂
歴代皇帝の多くが埋葬された教会で、ヴェネツィア聖マルコ教会のモデルとして知られる。現存せず、跡地にはファーティフ・モスクが建てられている。
テオドシウスの城壁
5世紀の皇帝テオドシウス2世の命によって建設された三重構造の大城壁。難攻不落を誇り、コンスタンティノープルへと攻め寄せた敵を度々撃退した。オスマン帝国期にある程度の修復が行われ、一部が現存している。
大宮殿
現在のブルー・モスク近辺にあった宮殿。「聖なる宮殿」とも呼ばれた。歴代の東ローマ皇帝が住んだ宮殿で、盛時には絢爛豪華さを誇った。現在では一部の床モザイクが残存し、博物館で展示されているほか、近年では発掘調査が進められている。
競馬場テンプレート:Nobold
首都となる以前、ビュザンティオン時代に建てられたといわれている。大宮殿に隣接しており、宮殿と競馬場の貴賓席は通路で結ばれていた。ここは、競馬(戦車競走)のほか、7世紀頃までは皇帝即位式、それ以降も凱旋式などの国家的行事の会場に使用された。オスマン帝国期にも祝祭のパレードに用いられ、競馬場としての施設は消失したが、競馬場中央に置かれていたオベリスクデルポイから運ばれた青銅製の蛇の柱が現存している。また青銅製の4頭の馬の像があったが、第4回十字軍の時にヴェネツィアによって掠奪され、いまではヴェネツィアの聖マルコ教会にある。
ゼウクシッポス浴場
競馬場の隣りにあった、古代ローマ式の大浴場。7世紀後半の暗黒時代に打ち棄てられてしまい、後には兵舎や監獄、絹織物の国営工場などに転用されてしまった。
コーラ修道院
東ローマ帝国末期のフレスコ画で有名な教会。のちにモスクに転用され、現在は博物館として公開されている。
テオトコス・パンマカリストス教会
コーラ修道院に似た構図の「パントクラトール」のモザイク画などが残されている。のちにモスクに転用され、現在は一部が博物館として公開されている。
パントクラトール修道院付属教会
12世紀にコムネノス王朝が建てた修道院の付属教会。モスクに転用され、現存。
ウァレンス水道橋
4世紀のウァレンス帝が建設した古代ローマ時代の水道橋。補修が繰り返されて19世紀まで使われ、現在は遺跡として整備保存されている。
コンスタンティヌス1世フォルムテンプレート:Nobold
元老院の議事堂などがあった。現在では、コンスタンティヌスの銅像が乗っていた円柱の一部のみが残っている。
地下宮殿
ハギア・ソフィア大聖堂そばに設けられた地下貯水池。現存。
聖セルギオス=バッコス教会
ユスティニアヌス1世時代に建てられた教会。モスクに転用され、現存。
ブルケラナエ宮殿
市内北東部にあった、12世紀以降の皇帝が主に居住した宮殿。現存しない。
コンスタンティノス・ポルフュロゲネトスの宮殿テンプレート:Nobold
帝国末期の宮殿で市の北東部にあった。一部遺構が現存している。
ブーコレオン宮殿
大宮殿の南、マルマラ海沿いにあった宮殿。一部の遺構が現存している。

コンスタンティノープルを取り上げた文学作品

脚注

テンプレート:Reflist

関連項目

テンプレート:Sister

参考文献

  • 浅野和生『イスタンブールの大聖堂 モザイク画が語るビザンティン帝国』中央公論新社中公新書〉、2003年、ISBN 9784121016843
  • 井上浩一『生き残った帝国ビザンティン』講談社講談社学術文庫〉、2008年、ISBN 9784061598669
  • 井上浩一・粟生沢猛夫『ビザンツとスラヴ』中央公論社〈世界の歴史〉、1998年、ISBN 9784124034110
  • 今谷明『「王権と都市」を歩く 京都からコンスタンティノープルへ』NTT出版、2004年、ISBN 9784757140615
  • ジョフロワ・ド・ヴィルアルドゥアン『コンスタンチノープル征服記 第四回十字軍』伊藤敏樹訳、講談社〈講談社学術文庫〉2003年、ISBN 9784061596092
  • ロベール・ド・クラリ『コンスタンチノープル遠征記 第四回十字軍』伊藤敏樹訳、筑摩書房、1995年、ISBN 9784480857071
  • 陳舜臣『イスタンブール 世界の都市の物語』文藝春秋文春文庫〉、1998年、ISBN 9784167150167
  • 尚樹啓太郎『コンスタンティノープルを歩く』東海大学出版会、1988年、ISBN 9784486010203
  • 尚樹啓太郎『ビザンツ帝国史』東海大学出版会、1999年、ISBN 9784486014317
  • 長場紘『イスタンブル 歴史と現代の光と影』慶應義塾大学出版会、2005年、ISBN 9784766411959
  • 野中恵子『寛容なる都 コンスタンティノープルとイスタンブール』春秋社、2008年、ISBN 9784393332870
  • 橋口倫介『中世のコンスタンティノープル』講談社〈講談社学術文庫〉、1995年、ISBN 9784061591806
  • ジョナサン・フィリップス『第四の十字軍 コンスタンティノポリス略奪の真実』野中邦子・中島由華訳、中央公論新社〈INSIDE HISTORIES〉、2007年、ISBN 9784120037917
  • ジョン・フリーリ『イスタンブール 三つの顔をもつ帝都』鈴木薫監修、長縄忠訳、NTT出版、2005年、ISBN 9784757140660
  • スティーヴン・ランシマンコンスタンティノープル陥落す』新装版、護雅夫訳、みすず書房、1998年、ISBN 9784622049302

外部リンク

  • 英語でいう the City に相当する。
  • 井上浩一『生き残った帝国ビザンティン』講談社〈講談社学術文庫〉、2008年
  • テンプレート:Cite web
  • 現在のスペイン領のコルドバはコンスタンティノープルに匹敵する大都市であったが、当時のコルドバはイスラム王朝後ウマイヤ朝の支配下にあった。