ナイアガラ・レーベル
ナイアガラ・レーベルは、かつて大滝詠一が主宰していたレコードレーベル。
名前の由来
ナイアガラという名前は、大瀧が尊敬してやまないフィル・スペクターのレコードレーベルが、自分の名前をもじった「フィレス」という名前であったため、それに倣ったものである。大滝=「大きい滝」の代表格であるナイアガラの滝にちなんで付けられた。レコード盤(CD)のレーベル面には"Fussa Tokyo Niagara Records"と表記されている。
サブレーベル
サブレーベルとして、Yoo-Loo(養老の滝から? 読みは「ユールー」である)、Keg-on(華厳滝から? 読みは「ケグ・オン」)の2つがある。大滝自身、レーベル創設当時に度々ナイアガラの由来を聞かれ、上述の理由を述べた後、「華厳でも養老でも良かったんですけどね」とオチを付けていたとインタビューで語っている。
設立の経緯
大滝が自身の1stソロ・アルバム『大瀧詠一』の原盤管理に関して、ベルウッド(キングレコード)に疑問を抱いたことが発端。同社ではマスターテープ以外のレコード製作過程のマルチテープの音源が廃棄され、未発表の原盤のほとんどが失われてしまっていた。大滝は自身の作成する原盤すべてを管理・保存することを目的に、1974年にザ・ナイアガラ・エンタープライズという会社を設立。パシフィック音楽出版(PMP、現フジパシフィック音楽出版)も出資し、PMPが制作費を出す代わりに原盤権を持つことになった[1]。
なお『大瀧詠一』の原盤は、マスターテープ以外はキングレコードには残されておらず、ボーナストラックに収録された楽曲は、大滝が個人的に所有していたものである(『大瀧詠一』ソニー再発盤の解説より)。
1975年4月にその会社から発売された初の作品が、シュガー・ベイブのシングル「DOWN TOWN」、およびアルバム『SONGS』である。大滝自身がナイアガラ・レーベルからアルバムを発売するのは、翌月の『NIAGARA MOON』が最初となる。
ヒストリー
1970年代
70年代は、大滝にとっては不遇の時代であり、彼の世間での知名度は皆無であった。
- 1975年
- 1973年より担当していた「三ツ矢サイダー」のCMソングをシングル盤で発表することを目論んでいたが、当時の大手レコード会社は全て「CMソングなんかレコードにしても売れない」と難色を示す。しかしながらエレックレコードが「面白い」と大滝の話に飛び付き、「どうせやるならレーベルを作らないか?」との話でエレックレコードと契約し、プライベート・レーベル「ナイアガラ・レコード」を設立。また、レコード会社の原盤管理に疑問を抱き、自分の作品の原盤権を「ナイアガラ・エンタープライズ」を設立し、会社で管理するようになる。所属第1号アーティストはシュガー・ベイブであった。
- しかし、同年エレックレコードは倒産する。
- 1976年
- 前年のエレックレコード倒産に伴い日本コロムビアに移籍。16チャンネルテープレコーダを貰うことを条件に、とんでもない枚数(3年で12枚のアルバム)の作品の制作契約を結んでしまう。なんとかアルバムを制作したが当時の世間の大滝の作品への評価は皆無に等しく、大滝周辺やナイアガラ・レーベル作品の愛好者にしか受けなかった。因みに大滝作品およびナイアガラレーベル作品の愛好家は「ナイアガラー」と呼ばれている。大滝作品は制作作品数が多い割りに売れなかったため、会社に経営の危機をもたらすことになり(「NIAGARA CALENDAR」収録の「名月赤坂マンション」はこの会社存続の危機を歌にしたノンフィクションソングである。)、その後会社はCBSソニー移籍まで休眠状態となり、運営をPMPに委託する状態となる(1978年頃のコンサートのパンフレットでは、会社の所在地が当時PMPの本社があったニッポン放送内となっている)。
- 1979年
- 「LET'S ONDO AGAIN」の制作を最後にコロムビアを去る。
- 1980年
- 前述の契約にアルバムが1枚足りていなかったこともあり、コロムビア主導(大滝と山下達郎は制作にノータッチ)のコンピレーション・アルバム「TATSURO YAMASHITA FROM NIAGARA」が発売された。
1980年代
アルバム『A LONG VACATION』の大ヒットや、松田聖子の「風立ちぬ」などを手掛けたことにより徐々に名が知られ始める。セールス面などで見ると大滝の絶頂期といえる。
- 1981年
- CBSソニーレコード(後のソニーレコード、現在のソニー・ミュージックレコーズ)に移籍。当時PMPの常務だった朝妻一郎は、本来ならPMPの元上司であった羽佐間重彰が社長を務めるキャニオンレコード(現ポニーキャニオン。PMP、キャニオンともニッポン放送の子会社だった)に移籍させるのが筋だが、大滝の音楽はキャニオンには合わないと考え、CBSソニーに移籍させた[2]。アルバム「A LONG VACATION」のヒットがきっかけで大滝の名が世に広く知られるようになる。このヒットは「5年間も売れなかったアーティストが突如売れ出すことは奇跡」ということを言った業界人もいたほどの出来事だった。
- 1982年
- 佐野元春、杉真理とのアルバム「NIAGARA TRIANGLE Vol.2」を発売する。
- 1983年
- 『NIAGARA SONG BOOK』の映像版をサブレーベルのKeg-onよりリリース(後年DVDで再発売)。
- 1984年
- アルバム「EACH TIME」を発売する。大滝詠一名義では最後のオリジナル・アルバムとなっている。
- 1985年
- コンピレーション・アルバムとして『B-EACH TIME L-ONG』をリリース。
- 1986年
- 大滝自身の全てのアナログシングルを廃盤にする。これは本人曰く「邦楽第一号のCDがアルバム「A LONG VACATION」であったため、人一倍レコードに思い入れのある自分がCDの普及を早めた」とのことである。これにより大滝の歌手活動は、長期休業にはいる。
1990年代
過去の作品のリマスターを活発に行う。1990年代半ばにプロデューサー業を一時再開し、大滝自身も12年ぶりのシングル「幸せな結末」を発売した。
- 1991年
- 1980年代のカタログを「CD選書」シリーズにてリイシュー。
- 1994年
- 山下達郎『パレード』がeast west japanよりシングルカットされる際にナイアガラレーベル(青レーベル)を使用。シュガー・ベイブ『SONGS』もリイシューされ、再発盤としては異例の大ヒットを記録。
- 大滝がダブル・オーレコード取締役に就任。ダブル・オーではサブレーベルのYoo-Looを使用。
- 1995年
- 1970年代のカタログを「CD選書」シリーズでリイシュー開始。1997年まで続けられる。
- 1996年
- 渡辺満里奈のアルバム『Ring-a-Bell』のプロデュースを担当。
- 1997年
- ダブル・オーレコード解散。大滝が12年ぶりのシングル「幸せな結末」をリリース。ミリオン・ヒットを記録。
2000年代~現在
2005年からは「ナイアガラ30周年事業」と題して、1970年代から80年代にかけての作品をリマスター盤で再発している。また、2003年には最後の新曲である「恋するふたり」を発売している。しかし2013年12月30日の大滝の死去により、2014年以降のレーベルの活動が不透明になってしまう。
- 2001年
- 1980年代のカタログを「20th Anniversary Edition」としてリマスター開始。
- 2002年
- 初のトリビュート・アルバム『ナイアガラで恋をして』が発売される。
- 2003年
- 大滝が6年ぶりのシングル「恋するふたり」をリリース。現在のところ、大滝の最後の新曲となっている。
- 2005年
- 1970年代のカタログを「30th Anniversary Edition」としてリマスター開始。
- 2009年
- 「TATSURO YAMASHITA FROM NIAGARA」が約30年ぶりに公認盤としてリイシュー。
- 2011年
- 1980年代のカタログを「30th Edition」としてリマスター開始。
- 2013年
- 12月30日午後7時ごろ主宰の大滝詠一が東京都西多摩郡瑞穂町の自宅で倒れ、病院に搬送さたが、解離性動脈瘤でこの世を去る。享年65。