エベレスト
エベレスト、エヴェレスト(テンプレート:Lang-en-short)、またはチョモランマ(テンプレート:Lang-bo[1] Chomolungma, Qomolangma、テンプレート:Lang-zh-short Zhūmùlǎngmǎ Fēng)、サガルマータ(テンプレート:Lang-ne Sagarmāthā)は、ヒマラヤ山脈にある世界最高峰の山。英称“エベレスト”はインド測量局長官を務めたジョージ・エベレスト (George Everest) から取り命名された。
1920年代から長きにわたる挑戦の末、1953年に英国探検隊のメンバーでニュージーランド出身の登山家エドモンド・ヒラリーとチベット出身のシェルパテンジン・ノルゲイによって初登頂がなされた。
2014年6月、富士山とエベレストを姉妹山として提携するとした覚書を双方の山で清掃活動をしている日本とネパールの団体が結び、今後2つの山の環境保全に協力して取り組むこととなった。
目次
概説
エベレストの標高については諸説あり、1954年にインド測量局が周辺12ヶ所で測定しその結果を平均して得られた8,848 mという数値が長年一般に認められてきた。1975年には中国政府が雪面を含む標高を8,849.05 m(8,848.13 m+積雪0.92 m)と測定した。1999年、全米地理学協会はGPSによる測定値が8,850mだったと発表した。2005年10月9日、中国国家測量局が2005年5月時点での標高は8,844.43 m(3.5mの氷雪は標高に含まず)と発表した[2]。ただし、ネパール政府は現在もこれらの測定結果を認定せず、公式には8,848 mとしている。地殻変動、地球温暖化による影響などもあり、標高は年々変動していると考えられる。
エベレストの南麓に位置するネパールのサガルマータ国立公園はユネスコの世界遺産に登録されている。度重なる登山の遺留物、廃棄物で周囲はかなり汚れていることが指摘されており、野口健らによる清掃登山も行われている。
名称
古代この高峰はサンスクリット語でデヴギリDevgiri(神聖な山という意味)またはデヴァドゥルガDevadurga(19世紀の英語の発音はデオドゥンガ deodhunga)と呼ばれていた。現在、ネパールでの名称はサガルマータまたはサガルマタ(सगरमाथा Sagarmatha)で、「世界の頂上」という意味である[3]。チベット語ではチョモルンマ (ཇོ་མོ་ཀླུངས་མ་[1] jo mo klungs ma) またはチョモランマ (ཇོ་མོ་གླང་མ་[1] jo mo glang ma) で、語源は諸説ある(発音、表記も異種がある)が、現在定着している語は「大地の母神」という意味である。中国語では、チベット語を転写した珠穆朗瑪峰 (Zhūmùlǎngmǎ Fēng) または、意訳である聖母峰 (Shèngmǔ Fēng) と呼ばれている。日本でもエベレストという呼称に次いで多く用いられるチョモランマは、チベット名もしくはその中国語転写に基づく。中国語での漢字表記には、他にMount Everestを訳したものとして、香港で用いられる額非爾士峰 (Éfēiěrshì Fēng) や台湾で用いられる埃佛勒斯峰 (Àifólèsī Fēng) などがあるが、サガルマータの漢字表記は通常用いられない。
1865年、英国インド測量局長官だったアンドリュー・ウォー(Andrew Waugh)によって、前長官ジョージ・エベレストにちなんだ英語名がつけられた。ウォーは地元民の呼び名がわからないとした上で、手記に以下のように記している(当時、ネパールもチベットも外国人の立ち入りを認めていなかった)。 テンプレート:Quotation
ウォーはこの山にジョージ・エベレストに因んだ名称をつけることにした。綴りは初めはMont Everest、後にMount Everestに変更されている。しかし、現在のエベレストの発音(IPA:[/ˈɛvərɪst/]または[/ˈɛvərɨst/] EV-er-est)と実際のジョージ・エベレストの発音([/ˈiːvrɪst/] EAVE-rest)は異なっている。エベレスト本人は地元名を尊重する方針から、この名前をよく思っていなかったといわれている。
1960年代、ネパール政府はエベレストには元々現地での呼び名が存在していたことを発見した。これまでこの存在が知られていなかったのは、エベレストがカトマンズ盆地とその周辺地域の民族に知られておらず名づけられていなかったからで、政府はエベレストの名称を探し出すことに着手した。しかし、シェルパ族の間での名称・チョモランマはネパール統一国家の考えに反するとして採用されなかった。現在のネパール名・サガルマータはネパールの著名な歴史学者、バブラム・アチャリャ (Baburam Acharya) によって考案されたものである。しかしその後もしばらくの間は、カトマンズから東方に高く見えるガウリ・シャンカルがサガルマータだと思っている人が多かった。
2002年、中国の人民日報は西洋でも英語名エベレストの使用をやめて、チベット名のチョモランマを採用すべきと主張する記事を掲載した。人民日報はチョモランマというチベット名は280年以上前の地図にも記載されており、英語名よりも歴史が長いと主張している。
標高と測量
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1852年、インド測量局の技師でベンガル出身のインド人測量技師、ラダナス・シクダール (Radhanath Sikdar) が240 kmはなれたインドから三角測量した結果、P-15 (Peak XV) という仮称で呼ばれていた山が世界最高峰であることを発見した。当時ネパールは「禁断の王国」であり、外国人は入ることはできなかったため、より近距離での測量は不可能だった。測量の結果によればP-15 (Peak XV) の標高は約8,840 m (29,002 ft) だった。
現在最新の標高は8,848 mとされているが、他にもいくつかの異なる標高が測量結果として報告されている。2番目に高い山はK2で、標高8,611 mである。2005年5月22日、中国のエベレスト測量隊はエベレストに登頂、数ヶ月に渡る測量の結果、同年10月9日にエベレストの標高は8,844.43 m±0.21 mと公式に発表した。彼らはこの数値がこれまでで最も正確な標高であるとしている。しかしこの標高は最も高い岩石の部分に基づくもので頂上部分の氷や雪は含んでおらず、モンブランやテンリタグといった他の高峰の標高の基準と異なっている。測量隊は雪と氷の厚みも測量しており、この結果は3.5 mだったことから、8,848 mという従来の測量結果に誤りはなかったことになる。しかし実際のところ雪と氷の厚みは変化するため、正確なGPSによる測量がなければ、厳密な標高を求めることは不可能とされている。
現在最もよく知られている8,848mという標高は、1955年のインドによる従来より近距離からの測量によって、初めて求められたものである。1975年の中国による測量でも同様の結果が得られた。どちらも頂上部分の氷雪の厚みを含んだものである。1999年5月、ブラッドフォード・ウォッシュバーン率いるアメリカエベレスト遠征隊は山頂にGPSユニットを設置、8,850mという測量結果を発表した。これによれば岩石部分の標高は8,850m、氷雪を含めると更に1 m高いとされている。ネパール政府は正式にこの測量結果を認めていないが、この数値は広く用いられている。1999年と2005年の調査双方にジオイドの不確かさという問題が指摘されている。
エベレストの標高は周辺のプレートテクトニクスにより年々高くなっており、山頂も北東へと移動していると考えられている。現在2つの報告書が、エベレストは年4 mmの速さで標高が高くなっており、また山頂は年3-6 mmの速さで北東へ移動しているとしている。しかし、他の報告書の中には横方向への移動はもっと速く(年27 mm)、標高は縮むことさえあるとしているものもある。またエベレスト山頂では風化が激しいので、地殻変動によって一時的に8,848 mを超えてもその分は侵食されてしまうため、エベレストの標高はこれ以上高くならないという説もある。
エベレストは最も高い海抜高度をもつ山である。しかし、ハワイのマウナケアとエクアドルのチンボラソがエベレストに代わる「世界最高峰」とする主張もある。マウナケアの海面からの標高は4,205 mだが、海底からの高さを考慮すればその標高は10,203 mを超えることになる。また海抜高度6,267 mのチンボラソ頂上はアンデス山脈の最高峰ですらないが、地球の形状は赤道に近づく程に膨れており、地球の中心からの高さは6,384.4kmになる。これは、エベレストの6,382.3 kmよりも2,168 m高い。
また、最も深い海であるマリアナ海溝のチャレンジャー海淵はエベレストの標高よりも遥かに深い。もしエベレストをチャレンジャー海淵の深さに沈めたとすれば、山頂ですら2 kmもの深度に沈むこととなる。
なお、エベレストを初めて上から撮影したのはスコットランドの貴族、第14代ハミルトン公爵ダグラス・ダグラス=ハミルトンである。彼は1933年4月3日に操縦席がむき出しの複葉機(ウエストランド機)に乗り込み、エベレスト山頂の上を飛び越えると共に上空から写真撮影も行った。
地質
- 3つの層
- 山体はチョモランマ層、ノース・コル層、ロンブク層の3つに区分される。それぞれが低角度の衝上断層で境される異地岩体である。ゴンドワナ大陸の一部であったインド亜大陸が白亜紀にマダガスカル島から分離し、新生代にユーラシア大陸に衝突し、ヒマラヤ山脈ができた。頂上から8,600 mのチョモランマ層はエベレスト層とも呼ばれ、石灰岩、ドロマイト、シルト岩から成る。オルドビス紀を示す三葉虫やウミユリの破片を含む。
- 標高ごとの地層
- 8,600 mから7,000 mのノース・コル層のうち、上部8,200 mまでが有名な「イエローバンド」で、エベレストの写真にはっきり写る白い帯である。大理石が風化して黄褐色になったもので、ウミユリを含む。8,200 mから7,600 mは千枚岩と片岩から成る。7,600 mから7,000 mは片岩に大理石薄層が挟まれる。以上の変成岩は泥岩、頁岩、砂岩、石灰岩などから成るフリッシュが変成作用を受けたものである。7,000 mより下のロンブク層は片岩と片麻岩で、様々な厚さの白粒岩の岩脈と岩床が無数に貫入している。
登山
登頂史
1893年、東アジアで軍人として活躍したフランシス・ヤングハズバンド (Francis Younghusband) とグルカ連隊の勇将チャールズ・グランヴィル・ブルース准将 (Charles Granville Bruce) がエベレスト登頂について話し合ったのが具体的なエベレスト登頂計画の嚆矢であるといわれる。1907年には英国山岳会の創立50周年記念行事としてエベレスト遠征隊の派遣が提案された。この時代、北極点到達(1909年)および南極点制覇(1911年)の競争で敗れていたイギリスは帝国の栄誉を「第三の極地」エベレストの征服にかけようとしていた。第一次大戦の勃発によって計画は先送りになるが、戦争の終結とともに英国山岳会と王立地理学協会がエベレスト委員会 (Mount Everest Committee) を組織し、ヤングハズバンドが委員長となって、ここにエベレスト遠征が具体化し始めた。
1921年、エベレスト委員会によって第一次エベレスト遠征隊が組織される。隊長にはグルカ連隊で長年勤務し、地理に明るく、地元民の信頼も厚いチャールズ・グランヴィル・ブルース准将がふさわしいと思われたが、軍務のため断念し代わってチャールズ・ハワード=ベリ (Charles Howard-Bury) 中佐が選ばれた。隊員としてカシミール地方に詳しく高度と人体の影響に関しての専門家であったアレキサンダー・ミッチェル・ケラス博士、ハロルド・レイバーン、そして気鋭の若手として有名なジョージ・マロリー (George Mallory) とジョージ・イングル・フィンチ (George Ingle Finch) が選ばれた。フィンチは後に健康状態を理由に交代させられ、代わってマロリーの推したガイ・ブロック (Guy Bullock) が選ばれた。この第一次遠征隊の目的はあくまで本格的な登頂のための準備偵察であったため、一行はエベレストのノース・コル(North Col、チャン・ラとも呼ばれる、標高7020m)にいたるルートを確認し、初めてエベレスト周辺の詳細な地図を作成した。
1922年には第二次遠征隊が送り込まれた。隊長にはかねてより宿願であったチャールズ・グランヴィル・ブルース准将がつき、エドワード・リーズル・ストラット (Edward Lisle Strutt) 大佐を副隊長に迎え、前回参加できなかったジョージ・イングル・フィンチ、ハワード・サマヴィル (Howard Somervell) 博士や エドワード・ノートン (Edward Norton) 、同地方の地理にも詳しい医師のトム・ロングスタッフ (Tom George Longstaff)、 同じく医師のアーサー・ウェイクフィールド (Arthur Wakefield) 博士、ブルース准将の甥でやはりグルカ連隊所属のジェフリー・ブルース (Geoffrey Bruce) 大尉と同僚のジョン・モリス (John Morris) 大尉、さらに前回のメンバーであるマロリー、ヘンリー・モーズヘッド (Henry T. Morshead)、遠征隊の模様を映写機で撮影することになるジョン・ノエル (John Baptist Lucius Noel) 大尉らが選ばれた。第二次遠征隊は三度の頂上アタックを行った。7620mの地点に設けられた第五キャンプから第一次アタックチームを率いたマロリーは、酸素ボンベなどは信頼性が低いと考えてこれを用いず、サマヴィルやノートンらと無酸素で北東稜の稜線に達した。薄い空気に苦しみながら、一同は8,225 mという当時の人類の最高到達高度の記録を打ちたてたが、天候が変化し、時間が遅くなっていたため、それ以上の登攀ができなかった。次にジョージ・フィンチとウェイクフィールド、ジェフリー・ブルースからなる第二次アタックチームは酸素ボンベをかついで5月27日に8,321 mの高さまで驚異的なスピードで到達することに成功した。ブルースの持っていた酸素器具の不調で第二次チームが戻ってくると、マロリーはフィンチ、サマヴィルと第三次アタックチームを編成して山頂を目指そうとした。しかし、マロリーらがシェルパとともにノース・コル目指して斜面を歩いているとき、雪崩が発生して7名のシェルパが命を落としたため、一行は失意のうちにベースキャンプに戻り遠征は終了した。
1924年の第三次遠征隊では1922年同様隊長はブルース将軍がつとめ、副隊長にはノートン大佐がえらばれた。隊員として経験者のジョージ・マロリー、ジェフリー・ブルース、ハワード・サマヴィルが選ばれ、さらにベントリー・ビーサム (Bentley Beetham) 、E・シェビア (E.O. Shebbeare)、地質学者でもあったノエル・オデール (Noel Odel)、マロリーと最期を共にしたアンドリュー・アーヴィン (Andrew Irvine) らが選ばれた。一行は2月28日にリヴァプールを出航、3月にダージリンへ到着し、3月の終わりにダージリンから陸路エベレストを目指したが、道中でマラリアのためブルース将軍が離脱、ノートンが隊長になった。4月28日、遠征隊はロンブクに到着してベースキャンプを設営し、そこから順にキャンプをあげていった。彼らは7000m付近に第四キャンプを設けて頂上アタックの拠点とし、そこから頂上までの間に2つのキャンプを設けることにした。マロリーはジェフリー・ブルースおよびノートン、サマヴィルらと山頂を目指したが失敗し、6月6日、22歳の若いアンドリュー・アーヴィン1人を連れて第四キャンプを出発、再びノース・コル経由で山頂を目指した。2人はこのまま行方不明になり、第三次遠征隊は山を下りた。
第三次遠征隊が許可のないロンシャール谷に入っていたこと、彼らが帰国後に上映した記録映画の中で紹介されたチベット人の習俗が不正確であったことが当時のダライ・ラマを怒らせ、以後9年間エベレスト入山の許可が出なかった。[4]
1933年、イギリス第四次遠征隊。隊長ヒュー・ラットレッジ (Hugh Ruttledge)、隊員にはフランク・スマイス (Frank Smythe)、ジャック・ロングランド (Jack Longland)、パーシー・ウィン・ハリス (Percy Wyn-Harris)、レイモンド・グリーン (Raymond Greene)、ローレンス・ウェイジャー (Lawrence Wager)、 エドワード・シェビア (Edward Shebbeare)、 トム・ブロックルバンク (Tom Brocklebank)、 1922年隊にも参加したコリン・クロフォード (Colin Crawford) らがおり、後に遠征隊の隊長をつとめる歴戦の登山家エリック・シプトン (Eric Shipton) もその中に含まれていた。この遠征では高度8570mが最高で登頂はできなかったが、ウィン・ハリスが頂上近くでアーヴィンのものとされるアイス・アックスを発見したことで有名になる。同隊ははじめてエベレスト遠征にラジオを持参した。
1934年、イギリスの奇人モーリス・ウィルソン (Maurice Wilson) が飛行機を山腹に不時着させ単独登頂をするという計画を立てたが、不許可となる。登山経験のないウィルソンは「霊的な助け」によって頂上にたどりつけると信じ、2人のシェルパを雇ってノース・コルのふもとまであがったが行方不明になる。
1935年、イギリス第五次遠征隊。登頂目的でなく、エリック・シプトンをリーダーにモンスーン時の気候を調査する目的で派遣された小規模のグループだった。ノース・コルのふもとでテントに包まれたモーリス・ウィルソンの遺体と日記を発見。隊には1938年隊の隊長になるビル・ティルマン (Bill Tilman) がいた。また、ニュージーランド出身のダン・ブライアントをシプトンが気に入ったことが後にエドモンド・ヒラリーが遠征隊に参加する道を開くことになる。有名なテンジン・ノルゲイが若手シェルパとしてエベレスト行に初参加。
1936年、イギリス第六次遠征隊。1933年の失敗を批判されて以来、隊長就任を固辞していたラットレッジが適任者不在を理由で再び隊長に引っ張り出された。1924年隊のノエル・オデールも参加を打診されたが年齢を理由に辞退している。エリック・シプトン、フランク・スマイス、ウィン・ハリス、チャールズ・ウォレン、ピーター・オリヴァーらが参加。日程の当初は雪も少なく天候にも恵まれて成果が期待されたが、直後に例年よりも早いモンスーンが到来したため、隊はほとんど何も成果を得られず帰国し、「最低の遠征隊」と酷評されることになる。[5]
1938年、イギリス第七次遠征隊。隊長ビル・ティルマン。再び小規模な遠征隊を組むことにし、隊員としてシプトン、スマイス、ウォレン、オリバーら経験者が選ばれた。古参のノエル・オデールも再び参加。天候の悪化のため登頂を断念し、遠征隊は帰還。
翌年以降は第二次世界大戦の影響で登山は行われず。
1949年、ネパールが鎖国を解き、初めてネパール側の登山が可能になる。逆にそれまで唯一のルートだったチベット側は中国の支配下におかれたことで閉鎖された。ネパールの開国は、戦前アジアに強い影響力を持ったイギリスが独占してきたエベレスト遠征に世界各国が参加できるようになったということを意味していた。
1951年、イギリスのマイケル・ウォード、トム・ボーディロン (Tom Bourdillon)、ビル・マーリがネパール側から入って山頂へのルート探索を行うことにし、エリック・シプトンを隊長として迎える。ネパール到着後、クムト・パルバット遠征を終えたニュージーランド隊から2名、アール・リディフォードとエドモンド・ヒラリーが参加。シプトンは1935年にメンバーだったニュージーランド人ダン・ブライアントに好印象を持っており、そのことがニュージーランド人の参加につながった。一行は難所アイスフォールを突破しウェスタン・クウムに至る現在でもよく使われる南東稜ルートを発見する。この遠征の帰途メンルン氷河の近くでシプトンは雪上に残る「巨大な足跡」を発見、後に未知の生物「イエティ」のものだと喧伝されることになる。[6]
1952年、スイスがネパールから1952年の入山許可を得、イギリスは1953年の入山許可しか得られなかった。動揺したイギリスは合同遠征隊を提案するが拒否される。スイス隊はエドゥアール・ウィス・デュナンを隊長とし、アルプスで鳴らした屈指の登山家たちレイモン・ランベール (Raymond Lambert)、アンドレ・ロッシュ、ルネ・ディテール、エルンスト・ホッフシュテッターらを擁してエベレストに挑んだ。同隊はシェルパとしてテンジン・ノルゲイを指名して参加を要請、テンジンはこれが4度目のエベレスト登攀になった。一行はアイス・フォールを超え、巨大なクレパスに道をさえぎられたが、ジャン・ジャック・アスパーがザイルをつかってクレバスの反対側に渡ることに成功し、そこに橋をかけてウェスタン・クウムへの道を開いた。最終的にランデールとテンジンがそれまでの最高高度8,611 mに達し、頂上は目前だったが天候に恵まれず撤退。この年、ソ連が秘密裏に遠征隊を送り込んで壊滅したといううわさが西側メディアで流れたが、詳細は明らかにならず。
1953年、酸素装備の改良、登攀技術の研鑽などによって満を持したイギリス隊が送り込まれる。この機会を逃せば次の派遣は数年後になっており、翌年以降各国が続々と隊を送り込む予定だったため、イギリスは強い意気込みで1953年隊を送り出した。隊長はベテランのシプトンにいったん決まったものの、第60ライフル連隊のジョン・ハント (John Hunt) 大佐が推挙されてもめにもめた。その後、突如シプトンが隊長という決定がくつがえされ、ハントが隊長に代わった。この時のトラブルに心を痛めたシプトンは登山界の表舞台を去ることになる。遠征隊は順調にキャンプを前進させていき、2つの頂上アタックチームを送り出した。まず最初のチャールズ・エバンスとトム・ボーディロンのチームが5月26日にアタック、南峰を制したが酸素不足で撤退した。
後に続いたエドモンド・ヒラリーとシェルパのテンジン・ノルゲイの第2チームが5月29日午前11時30分に世界で初めての登頂に成功、エリザベス2世の戴冠と時期を同じくする偉業にイギリスは沸き、マロリー以来の宿願を果たした。
1960年5月25日、史占春率いる中国隊がセカンドステップを超えて北東側からの初登頂に成功。同隊が夜間登頂したため、頂上での写真をとっていなかったことなどから、この登頂は長く西側諸国から疑いの目で見られていたが、現在では認められている。(下記リスト参照)
1963年5月22日、アメリカ隊が登頂に成功。初縦走も成し遂げる。
1965年5月20日、21名からなるインド隊(M・コーリ隊長)が登頂に成功、シェルパのナワン・ゴンブは史上初めて2度エベレストの頂上に立った人物となった。(1度目は1963年のアメリカ隊と。)
ネパール政府によって外国人による登山が1969年まで全面禁止となる。
1970年5月11日、松浦輝夫と植村直己が日本人として初めて登頂に成功した。
1973年イタリア隊のリナルド・カレル、ミルコ・ミヌッツォら5人が登頂しイタリア人として初のエベレスト登頂。 実業家グイド・モンジーノが組織したこの隊はイタリア人隊員は隊長も含め64人、雇用したシェルパも100人にのぼり、ジェット機とヘリコプターで搬入した物資は50トンに及ぶなど単独の登山隊としては最大級の規模であった。
1996年5月10日 11名が死亡する大量遭難死が発生した(エヴェレスト大量遭難参照)。同月にさらに1名の遭難があり1シーズンで12名の死者が出た。
1999年5月1日、アメリカのマロリー&アーヴィン捜索隊が標高8,160m付近でマロリーの遺体を発見した。マロリー達が持参していたカメラ、ヴェスト・ポケット・コダックが発見されたならばエベレスト登山史上最大の謎が解けることになるが、未だ発見に至っていない。しかし、登頂に成功した暁に置いてくるつもりだった彼の妻の写真が遺留品になかったことから、ジョージ・マロリーが登頂に成功していたのではないかという説を唱える人も多い。なお、マロリー&アーヴィン捜索隊は2001年にも捜索活動を行い、前回発見できなかったアーヴィンの遺体とカメラを捜索したが、この時の捜索では何も発見できなかった。
2012年5月19日、異常高温によりルート工作が難航したため待機させられていた大量の登山隊が開通時に一斉に押し寄せ、1日で234人が登頂し大渋滞が発生。これを遠因として登頂後に高山病を発症し4人が死亡した。この年はいくつかの登山ツアーは山頂までの登頂を諦めている。
2014年4月18日、ネパール側ルート上のクーンブ氷河中にある「ポップコーン・フィールド」付近を、西稜の肩の懸垂氷河の崩落を原因とした大雪崩が直撃。ルート工作中のシェルパが多数巻き込まれ16人が死亡。エベレスト登山史上で最大死者数の事故となった。この事故死をきっかけにシェルパ側から事故時の補償を拡充する声が高まり、登山のサポートを事実上ボイコット。334人が登頂を断念している。また、ネパール観光局は、シェルパの保険金を2014年9月以降、引き上げる措置を講じている[7]。
主な登頂者のリスト
- 1953年5月29日 - (東南稜、初登頂) - エドモンド・ヒラリー(ニュージーランド)、テンジン・ノルゲイ・シェルパ
- 1960年5月24日 - (北東稜、チベット側初登頂) - 中華人民共和国の史占春隊の王富洲、屈銀華、貢布が登頂。同隊の登頂成功については長らく西側諸国で疑問が持たれていたが、現在ではほぼ認定されている[8]。
- 1963年5月22日 - (西稜初登頂、世界初縦走) - トーマス・ホーンバイン、ウィリアム・アンソールド 東南稜から下山。アメリカ人初登頂。
- 1970年5月11日 - (日本人初登頂) - 松浦輝夫・植村直己
- 1973年10月26日 - (秋季初登頂) - 石黒久・加藤保男
- 1975年5月16日 - (女性初登頂) - 田部井淳子
- 9月24日 - (南西壁初登頂) - ドゥーガル・ハストン、ダグ・スコット
- 1978年5月8日 - (無酸素初登頂) - ラインホルト・メスナー、ペーター・ハベラー
- 1979年5月13日 - (ロー峠からの西稜完全縦走)アンドレイ・シュトレムフェリ、イェルネイ・ザプロトニク
- 1980年2月17日 - (冬期初登頂) - クシストフ・ヴィエリツキ、レーチェク・チヒ
- 1982年5月4日 - (南西壁~西稜ルート) - エドゥアルド・ミスロフスキ、ヴォロディア・バリベルディン
- 1983年10月8日 - (東壁初登頂) - ルイス・ライハルト、キム・モン、カルロス・ビューラー。
- 1988年5月5日 - (世界初山頂衛星生中継) - 日本テレビチョモランマ登山調査隊(同社の開局35周年記念特別番組の取材)
- 9月26日 - (初のパラグライダーによる下山) - ジャン=マルク・ボワヴァン、山頂から5900mのキャンプ2まで。
- 1995年5月11日 - (北東稜完全縦走による登頂)- 古野淳、井本重喜。
- 2000年10月7日 - (初のスキー下山) - ダボ・カルニカール、山頂からベースキャンプまで、スキーを脱がずに[9]。
- 2005年5月14日 - (航空機による山頂への初着陸) - ディディエ・デルサーユ(ユーロコプター社所属パイロット)。自身が操縦するヘリコプターが山頂に数分間にわたり着地。同時に航空機による世界最高高度への着陸記録も達成した。
- 2008年5月8日 - 北京オリンピックの聖火が午前9時17分(日本時間同10時17分)頂上に到達した。女性登山家の吉吉、世界7大陸の最高峰を制覇した隊長の王勇峰らの手でリレーされ、チベット民族女性のズレンワンモが“最終走者”を務めた。
- 最年少、最高齢
- 2003年5月22日 - (女性最年少登頂) - ミンキパ・シェルパ、15歳。2010年までは男性含め最年少。チベット側から登頂[10]。
- 2010年5月22日 - (最年少登頂) - ジョーダン・ロメロ、13歳。
- 2012年5月19日 - (女性最高齢登頂)- 渡辺玉枝、73歳[11]。
- 2013年5月23日 - (最高齢登頂)- 三浦雄一郎、80歳。(標高6500mのC2からヘリコプターで下山[12])
- 複数回登頂
- 2011年5月11日 - (最多登頂記録) - アパ・シェルパ、21回。
- 2012年5月19日 - (日本人最多登頂記録) - 村口徳行、7回。
- 2012年5月12日, 5月19日 - (女性初の2往復)チュリム・シェルパがベースキャンプと山頂の間を1週間で2往復[13]。
- 障害者による登頂
- 1998年 - (史上初の義足者による登頂) - トム・ホイッテーカー。
- 2001年5月25日 - (史上初の全盲者による登頂) - エリック・ヴァイエンマイヤー。
- 2006年5月15日 - (史上初の両足義足者による登頂) - マーク・イングリス。
- 2013年5月21日 - (義足者による登頂、女性初) - アルニマ・シンハ。
登山者数
登頂者数は2010年時点で3,142人(のべ5,104人)で[14]、その中の142人(のべ173人)が無酸素で登頂している[15]。2012年には登頂者数が3,842人(うち女性は219人)となり、1週間にベースキャンプから山頂まで2往復する女性も現れた[16]。商業登山や公募隊が盛んになり、登山者数はますます増加する傾向にある。登頂のためのノウハウが蓄積され、死亡率は減少傾向に、登頂成功率は上昇傾向にある。登山者の増加により、渋滞が問題になっており、渋滞によりヒラリー・ステップで2時間半〜4時間待つこともあり、ヒラリー・ステップを簡単に素早く登れるように2013年現在、固定ロープだけでなくハシゴも設置する事が検討されている[17]。
入山料と費用
エベレストに入山するには入山料を支払わないと登れないシステムになっている。ネパール側からの入山料は2002年に大幅な引き下げが行われ、かつては通常ルートから入山の場合は1人あたり70,000ドルであったが、10,000ドル(7名以上のチームの場合)〜25,000ドル(1名の登山の場合)[18]に引き下げられた。ただし、通常ルート以外からの入山の場合は1人あたり70,000ドルに据え置かれている。チベット側は、2005年当時、1人あたり30,000-35,000ドルが必要だったが[19]、2013年現在、5,500ドル(2名以上のチームの場合)〜10,000ドル(1名の登山の場合)[20]。
登山ツアー(商業公募隊)が多数あり、2013年現在、ネパールからの通常ルートの場合、入山料などの全ての諸経費込みで$35,000〜$85,000程度となっている[18]。ネパールからの通常ルートは、シーズン毎に各隊のシェルパが固定ロープ、ハシゴを設置し、それに沿って登山する形となり、氷壁などを登る必要などはない。チベット側からの登山は難易度が相対的に高くなっているが[21]、こちらも公募隊が多数組まれている[18]。商業公募隊には品質のばらつきがあり、死亡率の高いものも存在する。最近の日本人による登頂のほとんどが商業公募隊かテレビ局の撮影を伴う物になっている[22]。
商業登山への懸念と批判
エドモンド・ヒラリーは登山ツアーを「商業活動」と批判している[19]。田部井淳子も、現地ネパール人の助けがあって登頂に成功したが、今では助けを得られるかはお金次第であると述べ[19]、登山の過度の商業化を危惧した[19]。また登山者数の増加に伴い、ネパール側、チベット側の2つのノーマルルートで渋滞が発生し[19]、それが誘引となって遭難する案件も出てきている。2005年にはチベット側だけで35グループのエベレスト登山ガイド隊が活動しており[19]、一連の登山ビジネスの活発化が山に対する敬意や畏怖の念を薄れさせると懸念する声も上がっている[19]。テンプレート:Main
遭難
登山ルートには、随所に120体もの遭難者の遺体が放置され凍結ないしは乾燥によりミイラ化している。遺体の中には登山ルートの目印となっているものもある。遭難死の7割は下山時に発生している。
ネパール側のエベレスト以外(K2など)の山も含めたヒマラヤ山脈での標高8500m以上の山の登山での死亡率は以下の通り[23]。
時期 | 登山者数 (シェルパ・ガイド除く) |
登山者 死亡者数 |
登山者 死亡率 |
シェルパ・ガイド数 | シェルパ・ガイド 死亡者数 |
シェルパ・ガイド 死亡率 |
全登山者数 | 全死亡者数 | 全死亡率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1950年〜1989年 標高8500m以上の山 |
3,451 | 75 | 2.17% | 2,705 | 47 | 1.74% | 6,156 | 122 | 1.98% |
1990年〜2006年 標高8500m以上の山 |
6,401 | 92 | 1.44% | 4,379 | 30 | 0.69% | 10,780 | 122 | 1.13% |
1990年〜2006年 エベレスト通常ルート |
4,549 | 64 | 1.41% | 3,380 | 22 | 0.65% | 7,929 | 86 | 1.08% |
登山ツアーの1つ Himalayan Experience の客の登頂成功率は悪天候とシェルパの死[24]により誰も登らなかった2012年を除くと、客を毎年20名前後取るようになった2003年〜2011年で60%〜82%[25](この数字はガイド・シェルパを含まず)。
日本人専用の登山ツアーとしてアドベンチャーガイズがあり、2004年〜2013年にガイドを除いて23名[26]参加し、17名登頂成功、2名[22]死亡(死亡事例はいずれもガイド自身がエベレスト登頂未経験のケースに発生)。
年齢制限
ネパール側の登山ルートは成人(16歳以上)のみ登山ができる年齢制限がかかっており、2010年9月よりチベット側登山ルートによる登山が18歳から60歳に年齢制限がかかる。このため、2010年6月現在の最年少登頂者(13歳)の記録を更新するのは不可能になる。制限導入の背景は、従来より若年層による登山にはより大きな危険が伴うと批判が出ていたこと、最年少記録更新のヒートアップが予想されたこと、などがある[27]。
トレッキング
上記のようにエベレストの山頂へと登ることは熟練の登山家でも危険を伴うが、一方で南麓であるネパール側の6,000 m以下のエベレストの山腹まではそれほどの難所もなく、高山病対策さえあれば一般の観光客でもトレッキングを楽しむことは可能であり、世界中から多くの観光客が訪れる。日本でも、いくつかの旅行社がエベレスト・トレッキングツアーを催行しており、参加者も多い。また、単独で、または登山ガイドをつけての個人トレッキングも可能である。
トレッキングを行う場合、まずネパールの首都カトマンズから飛行機でルクラ村へと向かう(テンジン・ヒラリー空港も参照)。ここから北のエベレスト山腹へと向かう道はエベレスト街道と呼ばれ、多くの登山客が行きかう。ルクラ村の手前にある路線バスの終点ジリ村から徒歩で数日かけルクラまで歩くことも出来る。
ルクラから北へ向かうと、この地方で最も大きく登山基地となっているナムチェ村を通り、やがて西のゴーキョ・ピークと東のカラ・パタールへ向かう二つの登山道が分岐する。ゴーキョ・ピークは標高5,483 m、カラ・パタールは5,545 mの地点にあり、どちらも眼前にエベレストを望むことが出来る。
脚注
関連書籍
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関連項目
- 山の一覧
- 七大陸最高峰
- エクソニム
- ホテル・エベレスト・ビュー
- 公募隊
- エヴェレスト大量遭難
- シャールツェ - チベット語で「シャール=東、ツェ=峰」の意で、エベレストの東峰であることを意味する。ローツェの東側に連なりエベレストの南東6.3kmにⅡ峰(7,591m)、同7kmにⅠ峰(7,459m)がある。
- ヌプツェ - チベット語で「ヌプ=西、ツェ=峰」の意で、エベレストの西峰であることを意味する。
- ローツェ - チベット語で「ロー=南、ツェ=峰」の意で、エベレストの南峰であることを意味する。
- チャンツェ - チベット語で「チャン=北、ツェ=峰」の意で、エベレストの北峰であることを意味する。7,543 m、エベレストの北4km、中国チベット自治区内にある。
外部リンク
- エベレストからの眺望
- コンデ・リゾート(世界一高い場所にあるホテル、4200m)
テンプレート:8000メートル峰 テンプレート:七大陸最高峰
- ↑ 1.0 1.1 1.2 チベット文字による表記。環境によっては「ཇོ་མོ་ག」と字化けして表示される。
- ↑ 引用エラー: 無効な
<ref>
タグです。 「cas
」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません - ↑ 冬のヒマラヤ山脈、エベレスト ナショナルジオグラフィック 2014年1月6日
- ↑ ピーター・スティール、『エリック・シプトン』、山と渓谷社、p63
- ↑ ピーター・スティール、上掲書、p101
- ↑ ピーター・スティール、上掲書、p217
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ ヨッヘン・ヘムレブ著『そして謎は残った 〜伝説の登山家マロリー発見記』、pp316-318
- ↑ 1996年にもハンス・カマランダーが山頂からスキー滑降に成功したが、所々でスキーを脱いで下山した。三浦雄一郎は1970年に7900mからスキー滑降し、「The Man Who Skied Down Everest」として映画化されたことで有名。
- ↑ 2002年、ネパール政府は未成年者(16歳未満)のエベレスト登山を禁止している。
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ ツイッターやネットの書き込みを読んで、三浦雄一郎の下山時のヘリコプター使用について様々な意見がある... - Yuichiro MIURA Everest 2013
- ↑ 女性で初、エベレスト登頂1シーズン2回成功 ギネス記録に認定 2013年02月25日 AFPBB News
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ Ascents - Everest (without supplementary oxygen) 8000mers.com
- ↑ CNN.co.jp : 1週間に2回エベレスト登頂 ネパール人女性がギネス認定
- ↑ 「渋滞難所 はしごでスイスイ エベレストで設置計画に反発も」:イザ!
- ↑ 18.0 18.1 18.2 How much does it cost to climb Mt. Everest?
- ↑ 19.0 19.1 19.2 19.3 19.4 19.5 19.6 エベレストツアーが人気 登山の商業化危ぶむ声も 共同通信 2005年05月02日
- ↑ 世界の「入山料」相場は? - web R25
- ↑ 日刊勝ち組スポーツ エベレストっておいくら?
- ↑ 22.0 22.1 日本人登頂者一覧
- ↑ The Himalaya by the Numbers
- ↑ Everest 2012 Newsletter #17 - Himalayan Experience
- ↑ HIMALAYAN EXPERIENCE STATISTICS
- ↑ 公募登山隊 - Adventure Guides Web
- ↑ テンプレート:Cite news