セルゲイ・パラジャーノフ
テンプレート:ActorActress セルゲイ・パラジャーノフ(テンプレート:Lang-hy;ラテン文字転写:Sargis Hovsepi Parajanyan;テンプレート:Lang-ru;テンプレート:Lang-uk、1924年1月9日 - 1990年7月20日)は、ソ連グルジアのトビリシに生まれた映画監督、脚本家、画家、工芸家。アルメニア人。
概要
略歴
1924年トビリシ(旧ティフリス)でサルキス・ヨシフォーヴィチ・パラジャニンと産まれる。父方の祖父は二輪馬車職人の家にうまれ四輪馬車の御者であった。第二ギルド商人の資格をえるため名字をロシア名にする必要がありパラジャーノフと変えた。父親は皇帝軍の年少士官であったが、革命後は古美術と中古品を商う店であった。幼少の頃にはヴァイオリンや歌やバレエや絵画のクラスなどをとり芸術的に恵まれた環境であったようである。姉が二人おり三兄弟の末っ子であった。1946年モスクワの全ソ国立映画大学(VGIK)監督科に入学する。アレクサンドル・ドヴジェンコやイーゴリ・サフチェンコ、ミハイル・ロンムなどの名匠の元で映画製作を学ぶ。1947年の夏に悪ふざけにふけっていたトビリシの学生らとともに逮捕され、同性愛の嫌疑をかけられ初めて投獄される。1948年の初めに釈放。卒業後、いくつかの共同監督作品を経る。タタール人の女学生と結婚するものの女学生の家族の報復により彼女は殺害される。
1953年パラジャーノフはキエフに落ち着く。1954年ヤーコフ・バゼリャンと共同監督でモルダヴィアの詩人エムリアン・ブーコフの物語を脚色した長編『アンドリエシ』を撮る。57年から60年にかけてテレビ放映用に3本の短編ドキュメンタリーを制作。55年にウクライナ人のスヴェトラーナ・チェルバチュークと結婚し、一子をもうけたが、61年に離婚している。1961年には戦争の悲劇を扱った長編『ウクライナ・ラプソディ』を制作。翌年には宗教セクトに蝕まれるドンバスの坑夫たちを撮った『石の上の花』を撮影する。この時期の諸作品には、形式の面でも内容面でも当局が求めた“社会主義リアリズム”に忠実であろうとする志向性が顕著であり、後年の作品との共通性は全く見られない。
1964年にウクライナの作家ミハイル・コテュビンスキイの誕生百年祭に向けドヴジェンコ名称キエフ映画スタジオが「忘れられた祖先達の影」の脚色を依頼する。撮影はカルパチア山脈の東側ジャビー村でグッツールの協力の下に行われる。チーフカメラマンとしてユーリイ・イリエンコが質の高い映像を作り上げ、パラジャーノフは長編映画デビューを果たす。この作品はサンフランシスコ、ローマ、モントリオールなど世界中の映画祭でその独自のスタイルと色彩が賞賛されるが、モスクワでは映画祭の枠外で上映されたものの評判は今ひとつで全国的な配給にはいたらなかった。1965年キエフで封切りの時にはウクライナのインテリ達の不当な逮捕と拘留に公に反対した。『忘れられた祖先達の影』はパラジャーノフの名前を世界に知らしめただけでなくウクライナの民族主義的な知識人達にも歓迎された。1965年から66年にかけてドヴジェンコ名称キエフ映画スタジオから依頼された映画『キエフのフレスコ画』を撮影しはじめたが、シュールレアリスムを思わせる前衛的なスタイルが不信感を呼び制作は中止となった。1966年には『忘れられた祖先達の影』がフランスで上映されるものの、タイトルは『火の馬』とされ95分版に短縮されている。作品のオリジナル版は100分である。現在は日本では『火の馬』のタイトルをとっているが、英語版では『Shadows of the forgotten ancestors』となっている。
1968年の夏にはアルメニアのエレヴァンに召喚されアルメニア語で復活を意味するハルティンの名を持つアシューグ(吟遊詩人)に捧げる伝記絵巻『サヤト・ノヴァ』の準備に取りかかる。『キエフのフレスコ画』が制作中止になりウクライナに居られなくなった際にこの映画の構想をパラジャーノフに示唆したのは、文芸学者ヴィクトル・シクロフスキーである。1969年『サヤト・ノヴァ』がモスクワ、キエフ、エレヴァン、トビリシで封切られたものの難解で退廃的とみなされ、ソ連の国家映画委員会(ゴスキノ)は激しく糾弾。それ以降、彼の書いた10本の映画の企画をすべて却下してしまう。1970年にはセルゲイ・ユトケーヴィチによる字幕追加、再編集、短縮を経て『サヤト・ノヴァ』は『ざくろの色』とされ再び上映されたものの検閲により幾つものシーンは削除されており、現在はこの削除された部分を目にすることはできない。
1973年にはアンデルセンの童話集のテレビ用の脚本に許可が下りたものの、ウクライナ人歴史家ヴァレンチン・モロツの裁判で告発への証言を拒否したためか、ベラルーシのミンスクにおけるソ連当局への批判的で挑発的発言が問題視されたためか、その後12月にモスクワから短い旅行の帰りに尋問を受けキエフにて検挙される。パラジャーノフの逮捕に対しソ連政府に対し映画同業者からは抗議運動や擁護が国内外からあったものの、1974年パラジャーノフは有罪になり不当な罪状で5年間の懲役判決を受け投獄される。しかし国際的な映画祭を通じてすでにその名声が高まっていたパラジャーノフを救うために、フェデリコ・フェリーニ、ロベルト・ロッセリーニ、ルキノ・ヴィスコンティ、フランソワ・トリュフォー、ジャン=リュック・ゴダールといったヨーロッパ中の映画人が抗議運動を展開。その成果もあって、1977年12月に釈放される。しかしその後もソ連当局からの危険人物扱いはやまず、1982年2月に家宅捜査を受けてトビリシで逮捕されるものの、無罪となって同年11月に釈放。しかし重ねて2回の投獄に合い過酷な労働を課せられ苦痛を味わう。
1983年グルジア共産党第一書記エドゥワルト・シュワルナゼはトビリシにおいて改革的な文化政策をとり、パラジャーノフに再び撮影許可を出し、1984年にはグルジア民話の『スラム砦の伝説』を脚色し撮影することができた。1985年にはパラジャーノフのコラージュやデッサンなどの展覧会がトビリシで開催される。また『スラム砦の伝説』もモスクワでの封切りの際には強烈な支持を受ける。またヨーロッパでも高い評価を受ける。
1987年ミハイル・レールモントフの『アシク・ケリブ』に基づく映画に取り組みはじめ、同年10月にはアゼルバイジャンのシュリリ村で撮影を開始する。1988年にはエレヴァンでパラジャノフのコラージュや人形などの作品の展覧会が行われ大きな成功をおさめる。ミハイル・ゴルバチョフ書記長就任後は64歳になって初めて出国を許され、自由に映画制作ができるようになった。『アシク・ケリブ』はミュンヘン、ニューヨークやロンドンなどの映画祭に招待されその相変わらずの独自性で全世界から熱狂的な歓迎と賞賛をうける。フランスではカイエ・デュ・シネマとフェスティバル・ドトヌの先導によりパラジャーノフの全作品上映が行われた。
1989年体調は完全には元に戻らず、その後に製作開始された自伝的作品と言われる『告白』の準備途中に入院する。肺と心臓の疾患が悪化しておりまた左肺には癌が見つかり葉摘出手術を受けるためにトビリシからモスクワに移される。1990年にヨーロッパでの映画祭訪問前に肺炎をこじらせて訪問先のポルトーで入院。トビリシに帰ると呼吸器系の合併症があらわれエレヴァンにて手当を受ける。その後パリのサン・ルイ病院にて治療するが決定され病人運用機で運ばれ化学療法を受けるものの危篤状態に落ち入り、エレヴァンにもどることを希望。7月21日肺炎で死去。あとには生涯に監督した4本の長編映画と、映画化されることのなかった多数の脚本が残され、そのうち7本の撮影にいたらなかった脚本はロシアより先にフランス語訳され出版された。日本では「七つの夢」と邦訳されダゲレオ出版より出版されている。他の監督によって映像化された脚本や構想に、『ヴルーベリについてのエチュード』(1989、レオニード・オスィク監督)や『白鳥の湖―ゾーン』(1990、ユーリイ・イリエンコ監督)がある。また、73年以降の収容所生活で制作し始めた無数の絵画やコラージュ作品が残された。
作品リスト
- アンドリエシ(1954年)
- ドゥムカ(1957年)テレビ用短編ドキュメンタリー
- ナタリア・ウジヴィ(1959年)テレビ用短編ドキュメンタリー
- 村一番の若者(1958年)
- 黄金の手(1960年)テレビ用短編ドキュメンタリー
- ウクライナ・ラプソディー(1961年)
- 石の上の花(1962年)
- 火の馬(1964年)
- キエフのフレスコ画(1966年、パラジャーノフ自身が後に15分の短編として再編集)
- Hakob Hovnatanyan(1967年、短編、ドキュメンタリー)
- サヤト・ノヴァ(1968年)……オリジナルのフィルムは散逸したと伝えられている。
- ざくろの色(1969年)……「サヤト・ノヴァ」のフィルムからセルゲイ・ユトケーヴィチ監督が再編集したもの。アルメニア共和国以外での公開を見送ろうとしたソ連当局に対し、映画をより観客に「知覚しやすい」ものにしようとした結果、このヴァージョンが作られた。
- スラム砦の伝説(1984年)
- ピロスマニのアラベスク(1985年、短編、ドキュメンタリー)
- アシク・ケリブ(1988年)
作品のビデオ化の現状
日本においてはパラジャーノフの作品は、以前はダゲレオ出版社から『ざくろの色』『スラム砦の伝説』『アシク・ケリブ』の3作品がVHSで、また同タイトルが別の会社からレーザー・ディスクでリリースされていたが、すでにいずれも廃盤になっており、2004年ごろまで手軽に入手できた、アイ・ヴィー・シー社の『火の馬』も現在絶版状態になってしまっているようである。しかし2004年6月23日にコロムビアミュージックエンタテインメントが『ざくろの色』の日本初のDVD版を発売し、『火の馬』をリリースしていたアイ・ヴィー・シー社よりデジタル完全復元版と銘打った『アシク・ケリブ』と『スラム砦の伝説』がリリースされ、『火の馬』に関してもコロムビアミュージックエンタテインメントが2008年にDVDを発売しており、ここしばらく続いた鑑賞困難な状態は改善されている。
2010年現在、コロムビアミュージックエンタテインメントからは、本編に加え、3時間超のドキュメンタリー集「パラジャーノフ・コード」をセットにした「ざくろの色 -プレミアムエディション-」というDVD-BOXも発売されている。
世界的には、アメリカのKINO International社が全作品の英語字幕付きのDVDをリリースしており、これらを輸入するという形で作品に触れることは可能である。これらのソフトは最近リリースされた日本版よりも画質の点ではるかに劣るものの、若干編集が異なっていたり、ドキュメンタリー「パラジャーノフ・レクイエム」が追加されており、資料価値は相変わらず衰えていない。またイギリスではSecond Sight Filmsから「ざくろの色」がArtificial Eyeからデジタルリマスターされた残りの3作が現在の時点では比較的廉価な値段で発売されている。
参考文献
- パトリック・カザルス『セルゲイ・パラジャーノフ』、ISBN 4-7720-0458-0、永田靖・永田共子訳、国文社、1998年
- Лебон Григорян "Параджанов", ISBN 978-5-235-03438-9、Молодая гвардия,М.,2011.