スパーク3人娘
スパーク3人娘(スパークさんにんむすめ)は、当時渡辺プロダクションに所属していた中尾ミエ・伊東ゆかり・園まりの3人の総称で、1960年代中頃に名付けられた。「ナベプロ3人娘」や単に「3人娘」と呼ばれることもある。漢字書きの「三人娘」として表記される事が多かった。
経歴
1962年より1965年頃まで3人揃って活躍する機会が多かった。また、3人が司会した「森永スパーク・ショー」と言うテレビ番組も放送されていた。冠にある「スパーク3人娘」の「スパーク」は、その番組に由来する。また、3人揃って映画に出演したこともあり、主演作『ハイハイ3人娘』『続・若い季節』(『続・若い季節』はモチーフとなったテレビ版にも出演)や、準主演作『若い仲間たち うちら祇園の舞妓はん』(主演はザ・ピーナッツ)がある。
グループの3人が揃ってNHK紅白歌合戦に出演した事が2度あった(1963年の第14回は「キューティー・パイ・メドレー」と称して3人が自身の持ち歌を順番に歌い(伊東ゆかり「キューティ・パイ」→園まり「女王蜂」→中尾ミエ「バイ・バイ・バーディ」の順番)、1964年の第15回は伊東ゆかりの持ち歌である「夢みる想い」を歌う)。この他にも3人が同時に紅白歌合戦に出場した年があるが3人1組のグループで共演で出場したのはこの2度のみである(但しこの時にはスパーク3人娘と言う名称は使用されなかった)。
元々、正式な音楽ユニットとして活動していたわけではない為「○○年に解散した」という概念があるわけではないが、2005年に発売されたCD-BOXの監修を務めた鈴木啓之は、1970年に伊東ゆかりが渡辺プロダクションを離れて独立した点と、1971年には同じ渡辺プロダクションから小柳ルミ子と天地真理が、小柳と天地の狭間に沖縄県出身の南沙織がデビューし次世代の "新三人娘" が事実上誕生した点を挙げ、この頃にユニットとしての役割は終えたのではないか、と想定している[1]。
エピソード
誕生当初は、中尾・伊東と第一プロ所属の沢リリ子の3人で構成されていた。だが、渡辺プロが「同一プロ3人でやったほうがいいだろう」という事から、沢に代えて園を加入させた。
2004年に再結成。同年のNHK「思い出のメロディー」にも出演していた。2005年より、「3人娘 Again Dream Concert Tour 2005」と言う全国ツアーを展開した。翌年2006年にも、「3人娘 Again Dream Concert Tour 2006」を開催していた。2009年秋、コンサートを再開する。
また、新潟県の旧山古志村に対して、2004年の新潟県中越地震災害の被災者に対して自立支援目的で三人娘コンサート会場で募金活動を行い、1500万円を集めて寄付した。基金を元に地元農家が「コシヒカリ三人娘生産者組合」を設立し、植酸栽培という自然農法で米作りを行っている。3人も夏ごとに山古志村を訪れ、雑草取りなどの農作業を行っている。また、2009年秋には、山古志村で三人娘コンサートを行うなど、息の長い支援活動を続けている。