エムレ・ベロゾール
エムレ・ベロゾール(Emre Belözoğlu, 1980年9月7日 - )は、トルコ・イスタンブル出身のサッカー選手。ポジションはミッドフィールダー。トルコ・シュペルリガ、フェネルバフチェ所属。 欧州のビッグクラブにトルコ人選手で最も若くして加入した選手である。
目次
経歴
クラブ
ガラタサライ
1996年にガラタサライで当時16歳でデビューを果たしキャリアをスタート。早くからその才能を見出され活躍。99-00シーズンにはガラタサライの一員としてリーグ・カップ・UEFAカップの三つのタイトルを獲得した(なお、UEFAカップ決勝には出場停止のため出場していない)。ガラタサライを退団する21歳までに、国内リーグ4回、国内カップ2回、UEFAカップ、UEFAスーパーカップ各1回の計8回のチームタイトルを獲得した。
インテル
01-02シーズンにはインテル・ミラノ、ACミラン、レアル・マドリードなどのビッグクラブからの誘いがあった中、イタリアの強豪インテル・ミラノにフリートランスファーで移籍した。移籍初年度は14試合の出場だったが、その才能は早くも認められた。
日韓W杯での活躍で自信をつけた02-03シーズンは大きく飛躍し、レジスタのポジションを獲得するばかりかチームにとって欠かせない選手へと成長し、シーズン終了後にはサポーターからシーズンのMVPに選出された。このシーズン、0-3から3点差を追い付いたラツィオ戦で挙げた2ゴールはインテリスタの語り草となっている。
03-04シーズンは主に左サイドハーフ、ボランチとして出場機会を得るも、故障の影響もあり前年ほどのインパクトは残せなかった。
そして、04-05シーズンにロベルト・マンチーニ監督が就任。シーズン序盤から度重なる故障に苦しんだ上に、マンチーニの戦術的意向、またポジション争いの激化により出場機会が減少した。
ニューカッスル
前年のシーズン終了前からマンチーニ監督との関係悪化もあり移籍は確実視され、インテルのライバルクラブであるACミランをはじめ、マンチェスター・ユナイテッド、アーセナル、エヴァートンFC、ニューカッスル・ユナイテッドの5クラブがオファーを出したと言われたが、出場機会を優先してニューカッスル・ユナイテッドに移籍した。
加入1年目の序盤はデビュー直後に肉離れで戦線離脱した影響もあり環境に馴染めず苦戦したが、最大のライバルであるサンダーランド戦で直接フリーキックでのゴールをあげたことにより実力を認められ、20試合に出場し2得点を挙げた。
翌年もチームの司令塔としてポジションを獲得したが、このシーズンも怪我が重なり出場試合数は24試合にとどまった。
07-08シーズンは、サム・アラダイス監督の戦術の都合で途中出場が増え、ケビン・キーガン監督が就任した1月以降は怪我でほとんど出場できなかった。ニューカッスル時代のプレーを振り返ると、時折高度な技術も見せたものの、チームの不調もあり本来のパフォーマンスを見せたとは言い難かった。
フェネルバフチェ
08-09シーズンからは母国の強豪フェネルバフチェへの移籍が決定した。古巣ガラタサライの最大のライバルであるため、両チームのサポーターの間で物議を醸した。
08-09シーズンは序盤は左右両サイドのアタッカーとして、中盤以降はボランチの一角として25試合に出場した。しかし序盤は負傷を繰り返すなどなかなか体調が整わず、中盤以降もチームの不振に引きずられ、結局チームは4位、エムレ自身も持ち味をほとんど発揮出来ないままシーズンが終了した。
09-10シーズンはセンターハーフとして前年よりも攻撃への積極参加を見せた。また、このシーズンより副キャプテンに就任し、アレックス欠場時はキャプテンを務めるようになった。このシーズンは前年やニューカッスル時代に比べるとコンディションが良く、存在感は際立っていた。その活躍が認められ、シーズン終了後に09-10シーズンのトルコリーグ最優秀選手賞を受賞した。
10-11シーズンはセンターハーフの一角として移籍後最多となる27試合に出場し、チームのリーグ優勝に大きく貢献した。
11-12シーズンは負傷により序盤は出遅れたものの、復帰後のシーズン中盤から終盤にかけて存在感を示し、フェネルバフチェ移籍後最多の6ゴール(うち1ゴールはこの年限りで導入されたプレーオフでの得点)を記録した。
アトレティコ・マドリード
2011-12シーズン後、フェネルバフチェとの契約満了に伴いアトレティコ・マドリードと2年契約を結んで移籍した。 主にヨーロッパリーグで先発出場の機会があったものの、リーグ戦では満足な出場機会が得られず、入団後わずか半年で古巣のフェネルバフチェに復帰することとなった。
フェネルバフチェ
2013年1月31日、古巣のフェネルバフチェへの復帰が決定した。移籍金は35万ユーロで、契約期間は2年半。復帰早々にキャプテンを任されセンターハーフの一角を担うも負傷離脱し、シーズン終盤に復帰したもののライバル・ガラタサライを追い上げることはできず、2位でシーズンを終了した。なおチームはヨーロッパリーグでベスト4に進出したが、エムレは復帰前のアトレティコ・マドリードで同大会に出場していたため、規則の関係上フェネルバフチェではヨーロッパリーグには出場していない。
引き続きキャプテンを務めた2013-14シーズンは開幕直後から怪我を繰り返し、前半戦の出場は6試合にとどまった。しかし後半戦に復帰すると自身最多タイとなるシーズン6ゴール(うち4ゴールがPK)を挙げ、2010-11シーズン以来のリーグ優勝に貢献した。
代表
負傷の影響もありEURO2000には招集されなかったが、2002年の日韓W杯では6試合出場し1ゴール を挙げ、3位の快挙に大きく貢献した。なお、決勝トーナメント1回戦で対戦した日本戦は、出場停止のため欠場している。
2006年のドイツW杯プレーオフスイス戦では、1stレグを出場停止で欠場しチームは大敗。本大会出場のためには3点差での勝利が必須となった2ndレグに出場し1アシストを記録するなど4-2の勝利に貢献するも、得失点差で敗退。この試合後に相手選手とのトラブルを起こし、代表での公式戦6試合出場停止の処分を受けた。
EURO2008では予選のノルウェー戦でゴールを上げるなど本大会出場に貢献。主将として出場した本大会はチームはベスト4と躍進したが、自身は負傷のため初戦のポルトガル戦のみの出場となった。
2007年頃から、代表ではキャプテンを務めている。2014年3月現在のキャップ数91は、トルコ歴代5位の出場試合数である。
エピソード
- 同じトルコ代表で、インテル・ミラノでもともにプレーしたオカン・ブルクと仲が良く、特にインテル時代は部屋をルームシェアしていた。
- 気性が荒いことで知られ、前述の2006年ドイツW杯プレーオフでのトラブルで6試合の出場停止処分をはじめ度々の出場停止処分を受けている。
- 2011年の韓国戦における退場処分の際には元トルコ代表監督のフース・ヒディンクにも、気性の荒さを名指しで批判されている。
- そのプレースタイルから、故郷イスタンブルにちなんでボスポラス海峡のマラドーナという愛称も付いている。
- 肉離れなどの筋肉系のケガが多く、シーズン通してケガなく過ごせたことはほとんどない。
- 2009年に結婚。2011年3月22日には長男が誕生した。
個人成績
- 2014年5月17日現在
クラブ | シーズン | ディビジョン | 背番号 | リーグ | カップ | 欧州カップ | 通算 | ||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
テンプレート:Flagicon ガラタサライ | 1996-97 | シュペルリグ | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | |
1997-98 | 24 | 2 | 9 | 0 | 2 | 0 | 35 | 2 | |||
1998-99 | 27 | 2 | 6 | 2 | 2 | 0 | 35 | 4 | |||
1999-00 | 24 | 5 | 4 | 0 | 13 | 1 | 41 | 6 | |||
2000-01 | 27 | 4 | 3 | 5 | 10 | 0 | 40 | 9 | |||
合計 | 103 | 13 | 22 | 7 | 27 | 1 | 152 | 21 | |||
テンプレート:Flagicon インテル | 2001-02 | セリエA | 33 | 14 | 0 | - | - | 6 | 0 | 20 | 0 |
2002–03 | 5 | 25 | 3 | - | - | 12 | 1 | 37 | 4 | ||
2003–04 | 21 | 0 | - | - | 6 | 0 | 27 | 0 | |||
2004–05 | 19 | 0 | - | - | 6 | 0 | 25 | 0 | |||
合計 | 79 | 3 | - | - | 30 | 1 | 109 | 4 | |||
テンプレート:Flagicon ニューカッスル | 2005–06 | プレミア | 5 | 20 | 2 | 4 | 0 | 1 | 0 | 25 | 2 |
2006–07 | 24 | 2 | 2 | 0 | 12 | 1 | 38 | 3 | |||
2007–08 | 14 | 1 | 5 | 0 | - | - | 19 | 1 | |||
合計 | 58 | 5 | 11 | 0 | 13 | 1 | 82 | 6 | |||
テンプレート:Flagicon フェネルバフチェ | 2008-09 | シュペルリグ | 5 | 25 | 1 | 6 | 0 | 9 | 1 | 40 | 2 |
2009–10 | 25 | 1 | 7 | 0 | 8 | 1 | 40 | 2 | |||
2010–11 | 27 | 4 | 1 | 0 | 4 | 2 | 32 | 6 | |||
2011–12 | 26 | 6 | 2 | 0 | - | - | 28 | 6 | |||
合計 | 103 | 12 | 16 | 0 | 21 | 4 | 140 | 16 | |||
テンプレート:Flagicon アトレティコ | 2012-13 | リーガ | 21 | 7 | 0 | 3 | 0 | 6 | 1 | 16 | 1 |
合計 | 7 | 0 | 3 | 0 | 6 | 1 | 16 | 1 | |||
テンプレート:Flagicon フェネルバフチェ | 2012-13 | シュペルリグ | 25 | 10 | 2 | 1 | 0 | 0 | 0 | 11 | 2 |
2013-14 | 20 | 6 | 1 | 0 | 2 | 0 | 23 | 6 | |||
合計 | 30 | 8 | 2 | 0 | 2 | 0 | 34 | 8 | |||
通算 | 380 | 41 | 54 | 7 | 103 | 9 | 533 | 55 |
タイトル
クラブ
- テンプレート:Flagicon ガラタサライSK
- スュペル・リグ 1996-97, 1997-98, 1998-99, 1999-00
- テュルキエ・クパス 1998-99, 1999-00
- トルコ・スーパーカップ 1997
- UEFAカップ 1999-00
- UEFAスーパーカップ 2000
- テンプレート:Flagicon インテル・ミラノ
- コッパ・イタリア 2004-05
- テンプレート:Flagicon ニューカッスル・ユナイテッド
- UEFAインタートトカップ 2005-06
- テンプレート:Flagicon フェネルバフチェ
- スュペル・リグ 2010-11, 2013-14
- テュルキエ・クパス 2011-12, 2012-13
- トルコ・スーパーカップ 2009
- テンプレート:Flagicon アトレティコ・マドリード
- UEFAスーパーカップ 2012
個人
トルコ代表での得点記録
# | 日付 | 場所 | 相手 | 結果 | 大会 |
---|---|---|---|---|---|
1. | 2000年9月2日 | テンプレート:Flagiconイスタンブル | テンプレート:Fb | 2-0 | 2002 FIFAワールドカップ欧州予選 |
2. | 2002年6月9日 | テンプレート:Flagiconインチョン | テンプレート:Fb | 1-1 | 2002 FIFAワールドカップ |
3. | 2002年11月20日 | テンプレート:Flagiconペスカーラ | テンプレート:Fb | 1-1 | 親善試合 |
4. | 2007年11月17日 | テンプレート:Flagiconオスロ | テンプレート:Fb | 2-1 | EURO2008予選 |
5. | 2008年9月10日 | テンプレート:Flagiconイスタンブル | テンプレート:Fb | 1-1 | 2010 FIFAワールドカップ欧州予選 |
6. | 2009年9月9日 | テンプレート:Flagiconサラエボ | テンプレート:Fb | 1-1 | |
7. | 2010年8月11日 | テンプレート:Flagiconイスタンブル | テンプレート:Fb | 2-0 | 親善試合 |
8. | 2011年8月10日 | テンプレート:Flagiconイスタンブル | テンプレート:Fb | 3-0 | 親善試合 |
9. | 2012年9月11日 | テンプレート:Flagiconイスタンブル | テンプレート:Fb | 3-0 | 2014 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選 |