アレクセイ (モスクワ大公)

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アレクセイ・ミハイロヴィチАлексей Михаилович / Alexei Mikhailovich, 1629年3月19日 / ユリウス暦3月9日 - 1676年2月8日 / ユリウス暦1月29日)は、モスクワ・ロシアツァーリ(在位1645年 - 1676年)。ミハイル・ロマノフの長男、母はエヴドキヤ・ストレシニョヴァ。その治世にはツァーリ専制体制が確立された。


治世

国内政策

アレクセイの治世には、ロシアの国家・社会体制に大きな変質がもたらされた。貴族会議や全国会議の存在感が急速に薄れ、官僚の補佐を受けたツァーリが自ら専制政治を行うようになった。官庁が次々に増設された結果、官僚制による国政運営が可能になったため、アレクセイは旧来の大貴族層の影響力を骨抜きにする方向で政治を進めた。代わりに、アルタモン・マトヴェーエフオルディン=ナシチョーキンといった新興層の側近集団が政権を担った。また全国会議も1649年以後は殆ど開かれなくなった。全国会議は各地方の代表者である中小貴族層の発言機関であったが、彼らが中央政府の軍隊など各種機関に組み入れられていった結果、地域的な自治意識が急速に弱まったためと考えられる。

治世初期には傅育官で義兄のボリス・モロゾフを中心とした顧問団が政治を担当したが、1648年の塩一揆で彼らが追放されて親政が始まった。1649年に開かれた全国会議において制定された会議法典は、都市民と農民は移動の自由を奪い、特にこの法典によって農奴制は法的完成に至った。大貴族や高位聖職者修道院が免税特権を利用して商人を保護することも禁止されている。またロシア正教会はこの時に新しい領地の所有を大幅に制限され、政府による教会領の監督制度が定まって修道院庁が設けられた。辺境地域も中央の干渉を免れなくなり、1660年代後半から、ドン・コサックや逃亡農民を中心とした大規模なステンカ・ラージンの乱が起きたことを契機に国家の統制が強まった。当初ステンカ・ラージンの率いる集団はカスピ海北岸を荒らしたが、モスクワ国家と敵対し始めて国内の南東部を勢力下に置いた。反乱は1671年になってコサック側の内部分裂により消滅し、コサックの自治的性格は弱められた。

経済改革も積極的に行われたが、民衆の不満のために反乱が起きた。1648年には塩税などの導入による税制改革に不満なモスクワ市民の蜂起を招いて、モロゾフら顧問団が失脚した。1656年基準通貨銀貨から銅貨に切り替えた際も、政府要人の汚職を誘発したことでモスクワ市民は再び暴動を起こしている。この時は銀貨への引き戻しに応じた一方、アレクセイは反乱者に対する苛烈な鎮圧を軍隊に命じている。さらに徴税の効率化を狙って課税対象を耕地から世帯に変更した。また外国商人の招致による経済活性化も進められ、1652年に外国人居留地が首都郊外に設けられた。彼ら外国商人の経済活動には法的保障が与えられたが、ロシア商人や教会の反発を招く難点があった。

教会分裂

ニーコン総主教およびその後の改革参照

対外戦争

ポーランドが内戦に入り諸外国の侵略を受ける事態(大洪水時代)に陥ると、反乱者であるウクライナ・コサック首長フメリニツキーと結んで、1654年にポーランド領ウクライナ方面に侵攻した(13年戦争)。モスクワ軍はミンスクヴィルノリヴォフなどを次々にを陥落させたが、ワルシャワに進駐した強国スウェーデンの脅威を恐れ、1656年4月にポーランド側と休戦。翌5月からはスウェーデンと交戦状態に入った(北方戦争)。モスクワ国家は、スウェーデン軍がポーランドの大反撃に苦戦する最中を突いて、フィンランドエストニアラトヴィアなど広大な領土の占領に成功した。しかしウクライナで親ポーランド派が反旗を翻し、ポーランドも停戦を破棄してきたため、この危機に対応する必要からスウェーデンと1658年末に休戦。1661年のカルディス講和条約では占領中の全スウェーデン領の放棄を余儀なくされた。

その後もポーランドとの戦闘は続き、1667年になって和平が成立した。モスクワ国家は結局、この戦争での占領地域のうちドニエプル川東岸地域(主にウクライナ東部)を獲得しただけに終わった(アンドルソヴォ条約)。この戦いの間、アレクセイ、若しくはその息子がポーランド王位に就くよう試みたが(当時のポーランド王ヤン2世には子供がいなかったので、ロマノフ家から次期国王が選ばれる可能性があった)、成功しなかった。ウクライナを獲得したことはオスマン帝国との対峙を招き、1672年にはオスマン軍のウクライナ侵攻が始まったため、ポーランドの新王ヤン3世と協同してこれを迎え撃った。早くに勝敗は決したもののオスマン側の攻撃は続き、停戦はアレクセイ没後になってからだった。長期の戦争は国家財政を圧迫し、近隣諸国との関係を急速に悪化させた一方、モスクワ国家がヘーチマン国家を分断し、ポーランドの穀倉地帯を奪ったことは、モスクワ・ロシアの東欧における覇権を築く契機となった。また東欧における人文主義の中心都市の一つキエフを獲得したことは、ロシア人に西欧文化への関心を高めさせる契機となった。さらに一時的に広大なバルト海沿岸地域を占領したことは、この地域へ進出する契機ともなった。

後継者問題

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花嫁コンテストでマリヤを選ぶアレクセイ

16歳で即位したアレクセイは、1648年に傅育官モロゾフの妻の妹であったマリヤ・ミロスラフスカヤと結婚、5男8女をもうけた。ところが後継者として残った男子は三男フョードル、五男イヴァンの2人のみで、いずれも病弱なため王朝存続には不安が残った。マリヤが1669年に没すると、アレクセイは重臣マトヴェーエフの養女であったナタリヤ・ナルイシキナと1671年に再婚し1男2女を授かった。1672年5月にナタリヤが健康な男子ピョートルを出産すると、先妻マリヤのミロスラフスキー家と、後妻ナタリヤのナルイシキン家はそれぞれの皇子を擁して熾烈な派閥争いを開始した。アレクセイは1676年1月に崩御し、ツァーリの座はフョードル3世に引き継がれた。

アレクセイは短気で怒りっぽい反面、思いやり深く信仰心が篤い人物でもあった。君主の地位は神により与えられるものと信じており、1649年にイングランドチャールズ1世が処刑されると、怒りに駆られて共和国側のイギリス商人全員を国内から追放している。彼は西欧の学術や文化に強い関心を持ち、子供達の家庭教師に人文主義者シメオン・ポロツキーを、宮廷侍医にイギリス人サミュエル・コリンズを雇っていた。また軍事面でも外国人の専門家、特に軍指揮官や技師を登用している。鷹狩りを趣味としていたのは有名で、3000羽の鷹を飼育させていた。

関連項目

参考文献

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先代:
ミハイル
全ロシアのツァーリ
1645 - 1676
次代:
フョードル3世

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