アルフレッド・アドラー
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アルフレッド・アドラー(Alfred Adler、テンプレート:IPA-de(アルフレート・アードラー)、1870年2月7日 - 1937年5月28日)は、オーストリア出身の精神科医、心理学者、社会理論家。ジークムント・フロイトおよびカール・グスタフ・ユングと並んで現代のパーソナリティ理論や心理療法を確立した1人。
アドラーについては、初期の頃のフロイトとの関わりについて誤解があるが、アドラーはフロイトの共同研究者であり、1911年にはフロイトのグループとは完全に決別し、個人心理学(アドラー心理学)を創始した。
目次
生涯
アルフレッド・アドラーは、1870年2月7日、ウィーンの郊外ルドルフスハイム(de:Rudolfsheimで、ハンガリー系ユダヤ人の父とチェコスロヴァキア系ユダヤ人の母との間に生まれた。アドラーが育った家庭は、ユダヤ人の中産階級に属していて、父親は穀物商を営んでおり、母親は夫の仕事を手伝う勤勉な主婦だった。アドラーは、7人兄弟の次男で、上に、2歳年上の兄がいた。アドラーは、このような大家族の中で育ったことが、アドラー自身のパーソナリティの成長と、後に独自の理論を発展させる基盤になったことを認めている。
アドラーは、幼い頃に、声帯のけいれんとくる病に苦しんだ。また、3歳年下の弟が生後1年でジフテリアで死んだこと、そして、アドラー自身が4歳頃に肺炎にかかって危うく死にかけたことから、医師になる決心をした。
1888年、アドラーはギムナジウムからウィーン大学の医学部に進み、1895年に卒業して、1897年、ロシア系ユダヤ人のライザ・ティモフェヤーニャ・エプシュタインと結婚した。
アドラーは、ユダヤ人が多く中下層階級の人が多く住むウィーン2区レオポルトシュタットで診療所を始めた。アドラーの患者は、概して裕福ではなかった。アドラーの診療所は、プラーター遊園地の近くにあったので、アドラーの患者の中には、プラーター遊園地で働く、空中ブランコ乗りなどの軽業師や大道芸人など、自分の身体能力に生計がかかっている人がたくさんいた。アドラーはそのような自分の技に生活がかかっている遊園地の患者たちを援助していくうちに、後に「器官劣等性」と呼ぶことになるアイディアについて考え始めた。なぜなら、遊園地の患者の中には、幼い頃には身体が弱かったのに、それを努力によって克服して、逆にその弱かった部分を強くしたり活かしたりして生計を立てている人が少なくなかったからだった。これはアドラーが「補償」「過補償」の理論を発展させるのに役立った。
1898年、アドラーは最初の著作となる『仕立て業のための健康手帳』を刊行した。アドラーは、あくまで医学の正しい知識を通じて社会をよりよくしようと考えていたので、当時沸騰していた政治運動とは一線を画していた。
1902年、アドラーは、フロイトから招かれてフロイトの研究グループに参加した。1907年、『器官劣等性の研究』出版。1910年、アドラーはウィーン精神分析協会の議長に就任し、『精神分析中央雑誌』の編集長を務めた。しかし、1911年、アドラーは主だった仲間と共にフロイトのグループと決別し、自由精神分析協会を設立した。1912年、『神経質について』出版。1913年、自由精神分析協会を個人心理学会に改称。
アドラーは、1916年、軍医として招集され、第一次世界大戦に従軍した。アドラーは、戦争と大勢の負傷者、とりわけ、その中でも、神経症の患者を大勢観察する中で、共同体感覚こそが何にもまして重要であることを発見し、1918年から、共同体感覚を個人心理学の最新の基礎として語り始めた。
終戦の混乱から新しいオーストリアの建設が目指される中で、アドラーは生涯でただ1度だけ、政治活動に関わることになった。アドラーは、ウィーン1区の労働者委員に就任して教育改革に従事した。その成果のひとつが1922年の児童相談所の設立である。
1920年代には、アドラーは、教育、医学、心理学、ソーシャル・ワークなどを含む学際的な努力を通じて、子どもたちの精神的な健康のために革新的な考えを持つ心理学者として知られるようになっていた。アドラーは親や教師を含む多くの非専門家の聴衆に対して精神医学や心理学の知識を伝えていった。アドラーは、診療所での診療の他に、児童相談所やフォルクスハイムで講義を行った。さらに、1924年にはウィーン教育研究所治療教育部門の教授に就任して講義を行った。
アドラーは、絶え間ない診療、頻繁なる講演、著作活動、スーパーヴァイズ、そして、夜な夜な友人や仲間とカフェで議論をし合っていて、多忙を極めていた。なぜなら、家庭と学校において、子どもの教育についての効果のある新しい方法が求められていたからである。アドラーは、仕事のペースを緩めることなく精力的に活動し、彼の名声は年々国際的に高まっていった。
1926年終わり、アドラーは初めてアメリカ合衆国を訪問し、講演旅行を行った。数ヶ月に渡る講演旅行は大成功で、新聞は個人心理学について詳細にそして讃美にあふれた記事を書くまでになっていた。これより後、アドラーは、1年の半分ずつをヨーロッパ大陸と北米大陸とで過ごすことになった。しかも、そのどちらも、大陸中をカウンセリングと講演旅行して回るのである。
アドラーのアメリカでの活動の拠点は、長らく、ニュースクール大学での連続講演だったが、1932年、ロングアイランド医科大学の医学心理学招聘教授に任命された。さらに、アドラーは大学付属の教育診療所の指導も任された。つまり、アドラーは、ニュースクールでの講演とは別に、医学生に対しても教育を行うようになったのである。また、教育診療所の評判も上々だった。1932年、『人生の意味の心理学』刊行。
1929年の大恐慌以来、オーストリアでは政治が不安定となり、隣国イタリアのファシズム、ドイツのナチズムの介入の中、ついに1934年共和政府が倒され、アドラー一家は1935年、アメリカに移住した。
1937年、アドラー一家を苦しめ悩ませていたのは、長女ヴァレンタインと音信不通になっていることだった。ヴァレンタインは社会学の博士号を取り、ジェロ・サスという名前のハンガリー人ジャーナリストと結婚して、ヒトラーのドイツからストックホルムを経てモスクワへ移っていた。しかし、1937年1月半ばから連絡が取れなくなっていた。アドラー一家は手を尽くしたが、ヴァリの安否はわからなかった。そのような中、アドラーはヨーロッパへ講演旅行に出かけた。4月半ばにフランスに着いて、講演旅行が始まり、ほとんど10週連続で、フランス、ベルギー、オランダを回り、その後、イギリスに渡る計画だった。イギリスでは、娘のアレクサンドラと共同で授業を行う予定だった。1937年5月28日、スコットランドのアバディーン大学での連続講義の4日目、それは、最終日の金曜日だった。アドラーは1人で朝食を済ませた後、ホテルを後にして散歩に出かけようとした。その直後、アドラーは、ユニオンストリートの舖道の上で意識を失い倒れた。アドラーは病院に搬送される救急車の中で、心臓発作のために亡くなった。67歳だった。遺体はエジンバラ郊外のテンプレート:仮リンクにて荼毘に付された。遺骨は長らく不明だったが2007年、同斎場にて骨壷が発見され、2011年、国際個人心理学会の協議を経てテンプレート:仮リンクに名誉改葬された。
事績
器官劣等性・劣等感・優越追求
幼い頃、アドラーは声帯に軽いけいれんがあった。しかし、それを克服したのは明らかのようだった。なぜなら、アドラーは、いつも患者にやさしく穏やかに語りかけ、歌声はとても美しかったと伝えられており、彼の講演は多くの人を魅了したからである。
アドラーの最初の診療所は、プラーター遊園地の近くにあったので、彼の患者には、遊園地で働く、料理人や軽業師、芸人等が少なくなかった。それらの人々を援助する中で、アドラーは、彼らが、身体的な弱点を克服して、むしろそれを強みにしたり活かしたりして遊園地での仕事を得ていることに気がついた。
アドラーは、自分自身の体験と、そして、主にプラーター遊園地の患者を援助する中で、器官劣等性がある人は、そのような自分の身体的な弱点を努力によって、補償あるいは過補償を行うという理論を発展させた。
しかし、アドラーは、この理論が、器官劣等性のように客観的に劣っている身体的機能等がある場合にだけ当てはまるのではなく、主観的に「自分は劣っている」と劣等感を覚えてそれを補償する場合にも当てはまることを発見した。
そして、ついに、人は、常に、理想の状態を追求していて(優越追求)、理想の状態は仮想であるから、それに到達できない自分について劣等感を覚える、という優越コンプレックスの理論へと発達させていった。
共同体感覚
児童相談所・ウィーン教育研究所
戦間期のウィーン市政は、社会民主党によって運営されていた(「赤いウィーン」)。社会民主党は、様々な改革を行ったが、中でも教育改革は重要な改革であった。アドラーは戦前の息の詰まるような伝統的な権威主義的な教育に反対で、友人のカール・フルトミューラー(Carl Furtmuller)と共に教育改革に取り組んだ。
アドラーは児童相談所を設立し、クラスの様々な生徒への対処の仕方について助言を求める教師や子どものことについて助言を求める親にカウンセリングを行った。また、この頃には、各学校では関心のある親のために親の会が開かれるようになっていた。アドラーは、ここでも子どもの教育に関する講義を行ったりその援助を行った。こうして、児童相談所はウィーンのみならず、ヨーロッパへと拡がっていった。
アドラーはまた、1924年にウィーン市が独自に設立した教育研究所の治療教育部門教授に就任して、教師の再教育を援助した。教師は、発達および教育心理学のトレーニングを受けることができて、個人心理学の子どもの発達と治療に関する基本的な知識を得ることができた。
児童相談所、ウィーン教育研究所の取り組みは成功し、国際的に高い評価を得た[出典 1]。
自助グループ
世界をよりよくすること
アドラーは楽観的な意見の持ち主で、個人心理学の知識を通じて世界をよりよくするための機会を提供できると確信していた。アドラーは、アドラー心理学の未来について次のように述べている。
「誰ももう、わたしの名前など覚えていないときがくるかもしれません。個人心理学という学派の存在さえ、忘れられるときがくるかもしれません。けれども、そんなことは問題ではないのです。なぜなら、この分野で働く人の誰もが、まるでわたしたちと一緒に学んだように行動するときがくるのですから。」[出典 2]
後継者の育成
アドラーの死後、その教えは多くの者に引き継がれた。オーストリアでは、カール・フルトミューラー、フェルディナンド・ビルンバウム(Ferdinand Birnbaum)を中心に仕事が再開され、そして、アメリカでは、シカゴを拠点としてルドルフ・ドライカース(Rudolf Dreikurs)が活発なグループを設立し、個人心理学国際ニュースレターを発行した。ハインツ・L・アンスバッハー(Heinz L. Ansbacher)とロヴェナ・R・アンスバッハー(Rowena R. Ansbacher)はヴァーモント大学を拠点にしてアドラー心理学の教科書とも言える"THE INDIVIDUAL PSYCHOLOGY OF ALFRED ADLER"を著した。
エピソード
アドラーの人柄を伝えるエピソードには次のようなものがある。
- アドラーは、ある講演の間中、毎日毎日サンドウィッチと温かい飲み物という簡単な食事であった。そのことで、ある婦人が憤慨して言った。「アドラー博士。あなたのような立派な方に、毎日毎日サンドウィッチを食べさせるなんて非常識ですわ。」アドラーは静かに答えた。「奥さん。もし、仮に、わたしに立派なところがあったとしても、それは、わたしが食べてきたもののせいじゃありませんよ。」[出典 3]。
邦訳
- 『問題児の心理』高橋堆治訳 刀江書院 1941
- 『現代人の心理構造』山下肇訳 日本教文社 1957
- 『問題児の心理』高橋堆治訳 刀江書院 1959
- 『子どもの劣等感 問題児の分析と教育』高橋堆治訳 誠信書房 1962
- 『問題児の診断と治療』高橋堆治訳 川島書店 1973
- 『子どものおいたちと心のなりたち』岡田幸夫,郭麗月訳 ミネルヴァ書房 1982
- 『器官劣等性の研究』安田一郎訳 金剛出版 1984
- 『人生の意味の心理学』高尾利数訳 春秋社 1984
- 『人間知の心理学』高尾利数訳 春秋社 1987
- 『アドラーのケース・セミナー ライフ・パターンの心理学』ウォルター・ベラン・ウルフ編 岩井俊憲訳 一光社 2004
- 岸見一郎訳
- 『個人心理学講義 生きることの科学』一光社 1996
- 『子どもの教育』一光社 1998 のちアルテ
- 『人はなぜ神経症になるのか』春秋社 2001 のちアルテ
- 『生きる意味を求めて』アルテ 2007 アドラー・セレクション
- 『教育困難な子どもたち』アルテ 2008 アドラー・セレクション
- 『人間知の心理学』アルテ 2008 アドラー・セレクション
- 『性格の心理学』アルテ 2009 アドラー・セレクション
- 『人生の意味の心理学』アルテ 2010 アドラー・セレクション
- 『個人心理学の技術 1 (伝記からライフスタイルを読み解く)』アルテ 2011 アドラー・セレクション
- 『個人心理学の技術 2 (子どもたちの心理を読み解く)』アルテ 2012 アドラー・セレクション
- 『子どものライフスタイル』アルテ 2013 アドラー・セレクション
- 『性格はいかに選択されるのか』アルテ 2013 アドラー・アンソロジー
- 『勇気はいかに回復されるのか』アルテ 2014 アドラー・アンソロジー
出典
- ↑ Edward Hoffman, (1994) "The Drive for Self"(岸見一郎訳 2005 アドラーの生涯)
- ↑ Edited by G.J.Manaster, G.Painter, D.Deutsch, B.J.Overholt, (1977) "Alfred Adler as We Remember Him" (柿内邦博,井原文子,野田俊作訳 2007 アドラーの思い出)
- ↑ Edited by G.J.Manaster, G.Painter, D.Deutsch, B.J.Overholt, (1977) "Alfred Adler as We Remember Him" (柿内邦博,井原文子,野田俊作訳 2007 アドラーの思い出)
参考文献
- Edward Hoffman, (1994) "The Drive for Self"(岸見一郎訳 2005 アドラーの生涯)
- Edited by G.J.Manaster, G.Painter, D.Deutsch, B.J.Overholt, (1977) "Alfred Adler as We Remember Him" (柿内邦博,井原文子,野田俊作訳 2007 アドラーの思い出)