ヤーセル・アラファート
ヤーセル・アラファート ياسر عرفات ノーベル賞受賞者 | |||||
ファイル:ArafatEconomicForum.jpg |
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任期 | 1996年1月20日 – 2004年11月11日 | ||||
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出生 | 1929年8月24日 テンプレート:Flagicon エジプト、カイロ | ||||
死去 | テンプレート:死亡年月日と没年齢 テンプレート:Flagicon フランス、パリ |
政党 | ファタハ | 配偶者 | スハー・アラファート |
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ヤーセル・アラファート(テンプレート:Lang-ar、Yāser ‘Arafāt、英語表記: Yasser Arafat など、1929年8月24日 - 2004年11月11日)は、パレスチナの軍人、政治家。パレスチナのゲリラ指導者で、天才的な戦術家として知られる。
パレスチナ自治政府大統領[2](初代)。パレスチナ解放機構(PLO)執行委員会議長、報道等ではヤセル・アラファトの表記が多い。
名前
ヤーセル・アラファートという名前は通名であり、本名はムハンマド・アブドゥッ=ラウーフ・アル=クドゥワ・アル=フサイニー (محمد عبد الرؤوف القدوة الحسيني) という。名前に含まれるフサイニーは、彼がエルサレムの名家フサイニー家の出自であったことを意味する。
通り名のヤーセルは、知り合いのパレスチナ人の名前を死亡時に受け継ぎ、自ら名乗ったものという[3]。のちには、アブー・アンマール (ابو عمّار) という通称も帯びた。この通称が、いわゆる「ゲリラ名」として国際社会に知られているものである。
生涯
アラファートは、長らくパレスチナ解放運動においてイスラエルに対するゲリラの指導者として活躍し、幾度もの挫折を経ても復活したことから「不死鳥」と呼ばれた。しかし、後に穏健路線に転じ、1993年にはイスラエルとの歴史的な和平協定を果たしてパレスチナ暫定自治政府を建設する。これによって1994年にノーベル平和賞を受賞したが、イスラエル側で和平を主導していたイツハク・ラビンが暗殺されてからはイスラエルとの和平プロセスは停滞し、晩年にはイスラエル政府やパレスチナ内の和平に反対する運動との対立に苦しめられた。
生い立ち
エルサレムのアラブ系スンナ派ムスリム(イスラム教徒)の名門フサイニー家に属する裕福な織物商家の7人中5番目の子として生まれた。アラファート自身の主張によれば、彼は1929年8月4日、エルサレムに生まれたことになっているが、1929年8月24日にカイロに生まれたという見解もあり、彼の誕生日と誕生地は彼が生粋のパレスチナ人であったかという問題と絡んで議論の的となっている。
少年時代をカイロおよびエルサレムで送った後、カイロ大学で工学を学んだ。学生時代にはパレスチナ学生連合に所属し、1952年から1956年まで議長として活躍した。
パレスチナ解放運動
1956年にスエズ危機が起こるとエジプト軍に入り、第二次中東戦争に工兵大尉として従軍。戦後はクウェートで技師として働きながらパレスチナ解放運動を続け、後のPLO主流派となるファタハを結成。1963年にシリアに迎えられ、イスラエルに対する武装闘争に入ってファタハをパレスチナ解放運動の主流勢力に成長させた。のちにファタハがパレスチナ解放機構 (PLO) に加入すると、アラファートは1969年にその議長に就任し、パレスチナ解放運動の指導者に立つ。
ヨルダンへ
アラファート指導下のPLOは、パレスチナ難民が多く居住するヨルダンに拠点を作ってイスラエルに対する越境攻撃を行い、イスラエル軍の反撃を撃退して一挙にアラブ・パレスチナの英雄となる。しかし、勢力を拡大したPLOはヨルダンにおける「国家内国家」となってしまい、ヨルダン政府と利害を衝突させるようになった。
翌1970年、PLOによるテロがヨルダンを巻き込んで国際的に行われるようになると、このことがパレスチナ難民の不安定化によるヨルダン情勢の悪化を恐れるフセイン1世国王の逆鱗に触れ、フセイン国王は9月14日に戒厳令を敷いて国王親衛隊のベドウィン(アラブ遊牧民)部隊を投入、PLOを攻撃した(ブラック・セプテンバー事件)。
アラファートはこの事件によってヨルダンから追放されるものの、今度はレバノンの首都ベイルートに移って1970年代を通じてイスラエルに対する武装闘争を続けた。しかし、1982年のレバノン戦争(イスラエル軍のレバノン侵攻)の結果ベイルートを追放され、武装闘争の根拠地を失って政治生命を実質上絶たれた。
方向転換
その後、イスラエルとの対話路線に転じて穏健派の指導者として復活を図り、1993年和平(オスロ合意)を成立させてイスラエルのイツハク・ラビン首相と会見した。翌1994年、和平協定に基づいてパレスチナ自治政府が設立されるとパレスチナに戻り、1996年1月の選挙でその長官(大統領)に選出された。1994年、この政治決断に対してノーベル平和賞が贈られた。
和平の失敗
しかし、その後イスラエルとの和平プロセスはイツハク・ラビンの暗殺がきっかけで幾度となく危機を迎え、2000年9月28日にイスラエルのアリエル・シャロン(後の首相)がエルサレムの神殿の丘にあるイスラム教の聖地に踏みこんだ事件をきっかけにハマースら非PLO系の組織を主流とするインティファーダ運動が起こり、イスラエルとパレスチナの対立は決定的となった。パレスチナ人による自爆攻撃とイスラエルの攻撃が相次ぎ、ガザ地区や西岸の状況が置かれている状況は悪化した。そのためイスラエルとの戦闘を呼びかけるイスラム主義勢力がパレスチナ人の支持を強め、交渉で解決しようとする穏健派アラファトの人気は低下した。欧米諸国はアラファトではなく新しいリーダーによるパレスチナの統治を模索し、2002年末に和平ロードマップを作成したが、結局アラファトの抵抗によって屯坐した。 この「改革」の失敗により、イスラエルのシャロン首相は「アラファトがいる限り和平交渉はできない」として、イスラエル政府からの信頼を失っていった。アメリカ政府も、アラファトを排除しなければパレスチナは統一できないと考えるようになった。ハマースやダハランもアラファトの辞任を要求するようになった。イスラエルはアラファートをテロ蔓延の原因とみなして敵視を強め、ヨルダン川西岸地区のラマッラー(ラマラ)にあるアラファートの議長府(大統領府)は2001年より長らくイスラエル軍による包囲・軟禁状態に置かれた。
死去
アラファートには、軟禁状態となったころから健康不安の噂があった。また多数の敵を抱える状況から、シャロン首相は「アラファートは、ハマースのアフマド・ヤースィーン師と同様(イスラエルによって)暗殺されるかもしれない」と発言していた。アラファートは2004年10月10日に体調を崩し、10月15日のラマダン(断食月)入りの金曜礼拝では気分不良のために途中で退出して客人への対応もしなかった。10月19日にはエジプトから招かれた医師団が診察した。10月27日より嘔吐を繰り返すようになり、何度か意識を消失した。アラファートは、入院中に大統領府がイスラエル軍によって破壊され戻れなくなることを恐れていた。10月29日、体調の悪化を理由に治療のためヨルダン政府によりアンマン経由でフランスに移送されたが、脳出血のため昏睡状態に陥り、11月11日午前3時30分にパリ郊外クラマールのペルシー仏軍病院で死去した[4]。アラファートは生前に遺体を東エルサレムまたはその近郊に埋葬してほしいと希望していたが、東エルサレムを自国の不可分の領土としているイスラエル政府はこれを拒否したため、遺体はカイロに運ばれて国葬された後、11月12日にラマッラーにある議長府敷地内に埋葬された。
アラファートの死因に関しては毒殺疑惑があり、スーハ夫人がアラファートの遺品をアルジャジーラに持ち込んだ。スイスのローザンヌ研究所が検査した結果、遺品からは高濃度の放射性物質ポロニウム210が検出された。スーハ夫人は毒殺の証拠であると主張し、フランスの裁判所に刑事告訴した。パレスチナ自治政府はアラファートの死因究明のための遺体掘り返しと検体サンプルの採取を承認し、2012年11月27日、アラファートの墓を掘り返して遺体の検体を採取したこと、および、フランス、スイス、ロシアの科学捜査研究者が死因を鑑定すると公表し[5][6][7]、毒殺が確認された場合は国際刑事裁判所(ICC)に提訴すると表明した[7]。12月にスイスの調査団は遺体の組織からポロニウム210が発見されたと発表したが、フランスの調査団は自然死であるという調査結果を発表した[4]。
アラファートの死後も、諸外国が期待していたパレスチナの意思統一は遅々として進まず、パレスチナ内部およびイスラエルとの紛争はその後も継続している。
脚注
- ↑ "The Nobel Peace Prize 1994" NobelPrize.org
- ↑ アラファートのパレスチナ自治政府における役職は英語で President、アラビア語では رئيس (ra‘īs) という。 日本語の報道では「自治政府議長」と呼ばれることが多いが、自治政府の行政機構内での位置づけから言えば「自治政府大統領」に近い。日本の外務省では自治政府における彼の役職を「パレスチナ暫定自治政府長官」と訳した上で、PLO執行委の議長という意味で「アラファト議長」という肩書き・呼称を用いていた。
- ↑ ヤーセルは「静かな」「落ち着いた」「のんきな」といった意味をもつアラビア語の男性名。アラファートは、イスラム教の聖地マッカ(メッカ)の郊外にある巡礼対象の聖山アラファートの名にちなむ。
- ↑ 4.0 4.1 CNN>日本語版>2013年12月4日>World>仏当局、アラファト氏の毒殺説否定 夫人は反論
- ↑ CNN>日本語版>2012年11月27日>World>アラファト氏の遺体を掘り出し 毒殺説で死因鑑定へ
- ↑ AFP BBNews>日本語版>2012年11月27日>災害・事故・事件>毒殺疑惑で捜査、アラファト氏遺体からサンプル採取
- ↑ 7.0 7.1 Wall Street Journal>日本語版>2012年11月28日>国際>欧州・中東>アラファト氏の死因調査で遺体を掘り起こす
関連項目
- ヤーセル・アラファト国際空港
- 松本明子 - TV番組『進め!電波少年』の企画により、日本の芸能人で初めて本人に接触した人物。アラファトの目の前で、てんとうむしのサンバの替え歌で「♪アラファト わたしが 夢の国~」と歌う企画だった(結果は歌えず)。
- ナオト・インティライミ - 日本のミュージシャン。本人に接触するだけでなく"上を向いて歩こう"(坂本九)を披露する
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設置
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マフムード・アッバース
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ヤヒア・ハマウダ
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第3代: 1969年 - 2004年
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発足
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マフムード・アッバース
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