むつ (原子力船)
船歴 | |
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起工 | 1968年11月27日[1] |
進水 | 1969年6月12日[1] |
竣工 | |
その後 | 1993年3月 原子炉を撤去 1996年8月21日 みらいとして進水 |
主要目 | |
総トン数 | 8‚242 トン |
全長 | 130.46 m |
全幅 | 19.0 m |
深さ | 13.2 m |
満載吃水 | 6.9 m |
主機 | 加圧軽水冷却型原子炉 1基 蒸気タービン 1基 |
出力 | 36‚000 kW 10‚000馬力 |
最高速力 | 17.7ノット |
補機 | ボイラー 1基 |
乗員 | 80名 |
原子力船むつ(げんしりょくせんむつ)は、1968年11月27日に着工した、日本初の原子力船である。
1974年9月1日、青森県沖の太平洋上で行われた初の原子力航行試験中に放射線漏れを観測[2]。事故後、母港である陸奥大湊港への帰港を反対されたために、16年に亘って日本の港を彷徨って改修を受け、4度の実験航海後、新設されたむつ市関根浜港へ回航され、原子炉部分は撤去された。
これ以降、日本原子力研究所においての改良型舶用炉MRX[3]、深海探査艇用原子炉DRX[4]研究開発を除き、日本は原子力船の計画、建造や購入をしていない。
概要
軍艦を別にすれば、核動力、即ち原子炉を動力源とする船を建造した国は少なく、旧ソ連の原子力砕氷船「レーニン」(1959年-1966年改造後1970年-1989年)、アメリカの貨客船「サバンナ」(運航期間1965年-1970年)、当時の西ドイツ鉱石運搬船「オットー・ハーン」(運航期間1968年-1979年)に続く世界でも4番目の成果である。本船の名称は一般公募から選ばれ、進水時の母港である陸奥大湊港のある青森県むつ市にちなむ。
1963年に観測船として建造計画が決まり、1968年に着工して1969年6月12日に進水した。1972年に核燃料が装荷され、1974年に出力上昇試験が太平洋上で開始された。1969年の進水時には記念切手が発行されるなど、期待は大きかった。
しかし、1974年9月1日の航行中に、試験開始早々の低出力で放射線漏れが発生した。この放射線漏れで帰港を余儀なくされるが、地元むつ市の市民は放射線漏れを起こした本船の帰港を拒否したため、漂泊した。長崎県佐世保市、むつ市大湊港での母港化反対運動により帰る場所を失ったまま、長い話し合いの末に新母港としてむつ市関根浜港が決まった。第二次大戦後の日本を巻き込んだ原子力災害は、海外で焼津の「第五福竜丸」が巻き込まれた水爆実験が初めてであるが、この原子力船むつの放射線漏れ事故は、国内で初めて発生した原子力災害である。
1990年に、むつ市の関根浜港岸壁で低出力運転の試験を行い、その後4度の航海中に出力上昇試験と公試を行なった結果、1991年2月に船舶と原子炉について合格証を得た。その後、1992年1月にすべての航海を終了し、1993年に原子炉が撤去されて非核化された。
現在は、ディーゼル機関に積み替えられた船体が独立行政法人海洋研究開発機構(JAMSTEC)の「みらい」として運航されている。
なお、原子力船むつの操舵室・制御室、撤去された原子炉室がむつ科学技術館(むつ市)で展示されている。
海運業における原子力船
高度経済成長下にあった1960年代の日本では、大阪商船が南米航路用の定期旅客船を置き換える構想をのもとに、研究・開発が進められていた。また原子力船運航員養成のため、神戸商船大学に原子動力学科が開設された。しかし、原子力船は巨大かつ長期間運航させてたくさん稼ぎ続けなければ採算が取れないという経済性の観点から[5]、冷戦の西側諸国では原子力船計画は全て中止され、冷戦後の現在も建造を続けているのはロシアのみとなっている。ロシアでは、北極海を航行する原子力砕氷船を中心に、10隻(2007年現在)の原子力船が就航している。
安全設計
むつは建造当時の大型タンカーがむつの船腹に全速力で衝突しても、タンカーの船首が原子炉にまで到しないほどの強度設計がなされていた。また、万一むつが沈没した場合は深海の圧力で原子炉格納容器が圧壊することがないよう、海水の圧力で早期に格納容器に海水を導入するよう設計されていた。
多くの商用原子炉では、安全のため緊急炉心停止の場合は、制御棒を駆動装置から切り離して炉心に落とし込む方法がとられているが、むつの原子炉ではバネの力で炉心へ押さえ込みたとえ転覆しても制御棒が抜けない設計がなされていた。
主要目
- 総トン数:8242トン
- 全長:130.46m
- 全幅:19m
- 型深:13.2m
- 最大速力:17.7ノット(約32.78km/h)
- 定員:80名
- 原子炉:三菱原子力工業製加圧水型軽水炉(熱出力約36MW)、蒸気発生器による蒸気タービン(出力10000PS)
- 船体建造:石川島播磨重工業
略歴
- 1969年6月12日 石川島播磨重工業東京第2工場にて進水式。
- 1969年6月12日、原子力船進水記念として郵政省から記念切手が発行された。
- 1970年7月 船体工事完了、定係港大湊へ補助機関のみでの回航。
- 1971年11月 原子炉艤装工事完了。
- 1972年8月 日本原子力船開発事業団へ引き渡し。
- 1974年8月26日 漁船団の包囲網の、台風14号によるスキを突いて、大湊を出港(予定は25日であった)。
- 1974年8月28日 原子炉が初臨界に達する。
- 1974年9月1日 遮蔽リングの設計ミスにより、北太平洋航行中に放射線(中性子)漏れを観測する。試験中止。
- 1974年9月5日 陸奥湾漁民ら、帰港反対を決議。むつの「漂流」が始まる。
- 1974年10月14日 自由民主党総務会長、青森県知事、むつ市長、県漁連会長の4者、合意調印(2年半以内に母港撤去、半年以内に新母港決定、地元対策に12億円)。
- 1974年10月15日 帰港、原子炉を封印、係留。
- 1976年2月7日 長崎県佐世保市に修理港受入を要請。
- 1977年2月27日 佐世保市で受入賛否両派が集会、反対派デモに右翼が突入。
- 1977年4月30日 長崎県議会、核燃料ぬきで、佐世保修理受入を議決。
- 1978年5月13日 政府、長崎県と佐世保市に核封印で修理寄港を要請。
- 1978年7月21日 長崎県、佐世保市、修理受入協定調印。
- 1978年10月16日 佐世保入港。
- 1978年長崎県佐世保で改修工事開始。(~1982年)
- 1979年7月9日 改修のため佐世保重工業ドック入り。
- 1980年8月14日 大湊の再母港化を要請。
- 1981年5月24日 政府、地元関係者五者会談、母港をむつ市関根浜に建設で合意。
- 1981年9月29日 むつ市、大湊仮母港拒否。
- 1982年9月6日 むつ市大湊港に再入港。
- 1984年1月17日 自民党科学技術部会廃船決定発表。
- 1988年1月26日 大湊港を出港。
- 1988年1月27日 新母港、むつ市関根浜港入港。
- 1988年8月4日 関根浜港で原子炉の蓋容器開放、点検はじまる。
- 1989年10月30日 蓋開放点検終了。
- 1990年3月6日 起動前試験終了。
- 1990年7月 原子力航行を行う。
- 1991年2月~12月 実験航海、82000km(地球2周以上)を核動力で航行。
- 1992年 原子炉停止。
- 1993年3月 原子炉を解体撤去し、海洋地球研究船への改装工事に着手。
- 1996年8月21日 海洋地球研究船みらいとして就航。
脚注
参考文献
- 軍事研究2007年8月別冊 21世紀の原子力空母 原子力商船と商船用原子炉
- 倉沢治雄著 1988年8月25日 『原子力船「むつ」虚構の航跡』 現代書館 ISBN 4768455638
- 下川速水著 1988年4月1日 『原子力船「むつ」の軌跡』 北の街社
原子力船「むつ」を取り扱った作品
- 西村京太郎『原子力船むつ消失事件』角川書店 1981年(1984年 角川文庫)
- ブラック・ジャック
- 第46話「死に神の化身」に原子力船ムツゴローが登場し、患者は原子炉の缺陥により被曝した船員。しかし、単行本での収録の際にタイトルは「恐怖菌」に改題された上、船も戦略物資輸送船「あしゅら丸」に変更されている上、患者も輸送していた細菌兵器で感染した船員に変更されている。
- 沈黙の艦隊
- 設定では本船の事故が原因で国産原子力潜水艦建造計画(5号計画)が中止になっているが、裏で日米共謀により極秘に「シーバット」が建造された事になっている。
関連項目
- 「むつ」関連、核動力船
- みらい (海洋地球研究船)(非核化後の「むつ」)
- サヴァンナ (原子力貨物船)(アメリカの商用核動力船)
- むつ科学技術館 (廃炉後の密閉管理施設)
- 日本の核動力装置(除原子力発電所)
- 日本を巻き込んだ原子力災害
- 日本への原子爆弾投下(1945年)
- 第五福竜丸(焼津市、1954年)
- 東海村JCO臨界事故(1999年)
- 福島第一原子力発電所事故(2011年)