ういろう (菓子)
ういろう(外郎)は日本の蒸し菓子の一種。「外良」、「ういろ」、「うゐろ」、「ういらう」、「うゐらう」などの表記が用いられることもある。外郎餅(ういろうもち)とも言う。
以下、蒸し菓子(外郎餅)を「ういろう」、薬(透頂香)を「外郎薬」と表記して区別する。
ういろうは、典型的には米粉などの穀粉に砂糖と湯水を練り合わせ、型に注いで蒸籠で蒸して作る[1]。穀粉には米粉(うるち米、もち米)、小麦粉、ワラビ粉などが用いられ、砂糖には白砂糖、黒砂糖などが用いられる。小豆あん、抹茶など、さまざまなものが加えられることも多い。室町時代のころから存在する黒砂糖を用いた「黒糖ういろう」が本来の姿と考えられている[2]。 ちなみに、「ういろう」や「外郎」は普通名詞であり、発祥に関わりない第三者による商標登録も認められている[3]。
起源
ういろうの起源については、
- 江戸時代の百科事典『和漢三才図会』にも見られる、色(黒色[4])が外郎薬(透頂香)に似ていることから「外郎(ういろう)」と呼ばれる菓子になったという説[1][5][6][7]。
- 愛知県内、三河地方の伝統菓子である「生せんべい」(半生菓子)が原型となっている説[8]。
- 当時の中国から博多に亡命した陳宗敬の子、宗奇が足利義満の招請で上洛して外郎薬を献上した際に、口直しに添えた菓子に由来するという説[2][6]。
の3説が通説となっている。以上から、日本におけるういろう発祥の地は、前説を採れば不詳、中説を採れば愛知、後説を採れば外郎家初代宗敬の在住した博多、または、2代目宗奇が在住し、ういろうを初めて世に知らしめた京都となる。一方、小田原をういろう発祥の地とする説が唱えられることがあるが[9]、これは間違いで、ういろうの元祖を標榜する外郎家の末裔(小田原外郎家)が現在、小田原市に存在することから生じた誤解である。小田原外郎家自身もういろう発祥の地を小田原としていない[10][11]。なお、宗敬が在住した妙楽寺(福岡県福岡市)では、「ういろう伝来之地」の石碑が1987年(昭和62年)に建立されている[12]。また、発祥に関する独自の伝承が存在する地域もある( 「各地のういろう」の節を参照のこと)。
様々なういろう
和菓子店で売られるういろうは、通常羊羹と同じような棹物として売られることが多い。またういろう皮で餡をくるんだ上生菓子や、ういろうを使った和菓子のちまきもある。京都では6月の夏越祓に白のういろうに大納言小豆をのせたものを三角形に切った形をしている「水無月」を食べる習慣がある。庶民的な和菓子店やスーパーなどで売られているういろうも同じく三角形をしてパックで売られていることが多い。 テンプレート:-
各地のういろう
江戸時代にはすでに日本各地に製法が広まり、製造販売が行われるようになっていた[5]。現在でも各地の名物となっていることが確認できる。原材料や製法は、製品や地域によって変化に富み、味、食感、見た目にはさまざまなものが存在する。世間的には名古屋銘菓の代名詞のような扱いをされているが、他にも小田原市・京都市・山口市のものが比較的知名度が高い[2]。
小田原
外郎薬を製造する小田原外郎家は、外郎家(京都外郎家)の分家として1504年(永正元年)に成立した[13]。家祖は宇野定治(定春)で、本家4代目の祖田の子とされる[11]。以後、京都の本家とともに外郎薬の製造を代々行ってきたが、江戸時代の元禄年間頃に本家が衰亡した後は、小田原外郎家が独占的に外郎薬を製造するようになり、現在に至っている[14]。ういろうは京都の本家2代目の宗奇が考案し、外郎薬とともに製法が代々伝えられたとの伝承がある[11]。
明治時代にういろうの販売を開始した。小田原外郎家では「お菓子のういろう」と呼ばれ、外郎薬と区別されている。「白・茶・小豆・黒」と「栗ういろう」がある。
小田原外郎家は元々薬屋であったため、ういろうに付いてくる説明書きには、胃腸の弱かったり病後の人間や成長期の子供、産婦なども安心して食べられる「栄養菓子」と記載されている。なお小田原城近くの本舗(本店)は、和菓子店や薬局として営業しているほか、1885年(明治18年)の蔵を利用した小規模の博物館を併設している。
小田原外郎家は本家との自負から、青柳総本家(名古屋)や梅寿軒(下関)の商標登録を特許庁が認めたことを不服として、特許庁を相手取って裁判を起こしたが、いずれも敗訴している(前掲[3])。
名古屋
名古屋ういろうでは、うるち米からできる米粉を主原料として用いるのが一般的である[15]。庶民的な店では黒砂糖を使ったものも多くみられる。
名古屋のういろうの老舗 青柳総本家 1879年(明治12年創業)が製造販売する「青柳ういろう」は、日本一の販売量を誇る。砂糖(しろ)・黒砂糖(くろ)・抹茶・小豆(上がり)・さくらのほか、さまざまな種類が楽しめる。「青柳」の屋号は徳川慶勝から贈られた。1931年(昭和6年)に名古屋駅の構内とプラットホームでういろうの立ち売りを始めた。1964年(昭和39年)に東海道新幹線が開通した後は、青柳ういろうだけが全列車内での車内販売を許されたことから、名古屋ういろうが全国的に知られるようになった[15]。昭和43年に業界に先駆けてういろうのフィルム充填製法を開発。ういろうの包装技術を進化させることで、出来たての風味を閉じ込めういろうの日持ちを伸ばすことに成功し、ういろうの土産需要に貢献した。昭和56年には業界初のひとくちサイズのういろうを発売。 青柳ういろうの有名なローカルCMソングは多くの人に親しまれている。
大須ういろは1949年(昭和24年)の創業で[16]、ういろうを「ういろ」の名称で製造販売を行っているほか、ういろうにこし餡を加えた「ないろ(内良)」や異なる種類のういろうを3層に重ねた「味(み)いろ」などの製造販売を行っている[17]。
1659年(万治2年)創業の餅文総本店。尾張藩第2代藩主の徳川光友に仕えた陳元贇からういろうの製法が伝えられたとの伝承がある[18]。尾張藩主に献上し、賞揚されたことを由来に持つ「献上外良」などを製造販売している。
また、ういろうに似たものとしては「初かつを」がある。こちらは、米粉と小麦粉に本葛も加えてある。美濃忠のものが有名。半田市の生せんべいも固いういろうのような食感をしている。 テンプレート:-
伊勢
伊勢地方では、伝統的に黒砂糖を用いたういろうが食されていた[19]。「虎屋ういろ」は、1938年(昭和13年)にういろう専門店となり、製造販売を行っている。原材料に小麦粉を使用するため、やや固めの食感になる。加える材料などで35種類程度のバリエーションがある[19]。
京都
1855年(安政2年)創業の五建外良屋が「五建ういろ」の製造販売を行っている[20]。また、茶席などで提供される主菓子(上生菓子)ではういろう皮を使ったものも多数作られていたり、ういろうのちまきも作られている。「水無月」の名前は京都菓子工業組合が商標登録をしている。
神戸
1877年(明治10年)と非常に古くからういろうを作り続けている名物である。まだ暖かい作りたてが購入出来、参拝者が多く並んでいる。「長田ういろ」として知られており、「白ういろ」と「抹茶ういろ」がある。 テンプレート:-
山口
山口のういろうはワラビの粉に砂糖を加え、蒸して作られる。小豆、抹茶等が加えられることもある。他の地方のういろうと異なり、わらびもちを彷彿とさせる、くせのないとろりとした食感が特徴である。
山口県下では山口市だけでなく、県下の多くの地域でういろうが作られており、他に岩国市(ふるたのういろう)などが、ういろうが名物である都市として知られる。また周南市もかつてはういろうが名物であった(原要うい郎、2006年(平成18年)5月に廃業)。なお、現在では山口県内のどの新幹線駅売店でも手軽に購入できる。
山口ういろうは、室町時代に周防山口の秋津治郎作が現在の製法を考えたとする説[21]もあるが、歴史的経緯について詳しいことは分かっていない。史実として確認できる最も古い例としては、福田屋が現在の山口市大内御堀の萩往還沿いで戦前からういろうの販売を行っており、中原中也もよく食べていたとされる。しかしながら、福田屋は太平洋戦争で後継者をなくし、廃業してしまう。その後、その福田屋の職人だった人物が御堀堂を、福田屋のういろうをよく食べていた人物が豆子郎を創業し、山口ういろうの味が現在まで受け継がれることとなった。
徳島
「阿波ういろ」と総称される。 徳島県においては、和三盆を用いたものや、漉し餡を混ぜて、棒状に加工した「棒ういろ」、「一口ういろ」、栗を用いた「栗ういろ」などが作られている。 七五三などの行事の際に自宅で作ることもあったという。
宮崎
1877年(明治10年)頃から、旅館を営んでいた鈴木サトが売るようになったといわれる。宮崎市の観光地・青島で売られるようになった。 うるち米と砂糖を使った「白ういろう」と、黒砂糖を使った「黒ういろう」があり、昔ながらの経木に包まれている。 もともと賞味期限が1日程度しかなく、買って帰ってその日に食べきれない分は処分せざるを得なかった。 今では、真空技術が進み、保存料を使わず賞味が長期間になった為、遠方のファンも出来たての味を楽しめる様になった。 最近では主原料も宮崎県産米で作られた地元原料にこだわる日向夏や宮崎マンゴー味、都城茶味、都農町ではトマト味も販売されている。