MP18
テンプレート:Infobox ベルグマンMP18は、第一次世界大戦末期にドイツ帝国で開発された短機関銃である。1918年3月のドイツ軍春季大攻勢用の決戦兵器として製造された。第二次世界大戦頃までに登場した短機関銃の多くはMP18のデザインから強い影響を受けているため、短機関銃の祖形とされる [1]。
開発の背景
第一次世界大戦で出現し、機関銃・鉄条網・塹壕を組み合わせて堅固な防御力を示した塹壕陣地は、野砲による砲撃でも容易には破壊できず、歩兵が肉薄して直接制圧しなければならない存在だった。
陣地を防衛する機関銃による弾幕射撃の効果は歩兵にとって巨大な脅威であり、人海戦術による攻撃は効果をもたらさず、いたずらに膨大な犠牲だけが生じるようになった。このため戦闘は膠着状態に陥って長期化し、開戦時には想像もされていなかった国家総動員による総力戦下で国民生活が破壊され、ロシア帝国のように国内の統治を失う国家まで出現した。
従来の歩兵戦術の多くが塹壕陣地の前で陳腐化した結果、航空機・戦車・毒ガスといったさまざまな新兵器が戦線に投入されたが、これらの新兵器は能力が低く絶対数も足らなかったため戦局を決する決定打とはなりえなかった。 [2]
歩兵に機関銃陣地を制圧する能力を与えるべく、迫撃砲・手榴弾といった既に廃れていた兵器が近代化されて復活したが、これらの攻撃も塹壕陣地の形状を変更するだけで無力化され、効果は限定的だった。また塹壕陣地の制圧には歩兵による白兵戦が不可欠だったが、そのための手段は銃剣やスコップといった中世と大差ない武器しか存在しなかった。
このため、敵陣に肉薄した歩兵が機関銃に対抗できるだけの弾幕を容易に構成して敵の塹壕内を掃射して制圧できる兵器への要望が高まり、自動小銃や短機関銃といった軽量自動火器の出現が促された。 [3]
1917年に英仏の債務不履行を恐れたアメリカがルシタニア号事件やツィンメルマン電報を大義名分として連合国側に参戦した事から、決定的に劣勢となったドイツ帝国が長期戦の負担に耐えかねて崩壊する事を恐れたドイツ軍参謀本部は、戦争の早期決着を目指してロシア革命政権との和平で転用可能となった東部戦線の兵力を投入した攻勢を計画した。
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ドイツ軍の塹壕陣地に設置されたMG08と要員達
この攻勢で核となるのは敵の塹壕線の脆弱点に歩兵の攻撃を集中させて突破し後方へ侵入して敵の一線陣地を孤立化させて攻略する浸透戦術であり、これを実行するための専門部隊として突撃歩兵(Stoßtruppen)の編成が行われた。この部隊では敵陣へ向けて疾走できる脚力を持つ若者が集められ、その兵器としては手榴弾に加えて“軽量機関銃”が必要とされた。
塹壕戦の需要に応え得る“軽量機関銃”の開発は、1915年から行われていた。 当初は自動式拳銃をフルオートで射撃できるよう改造したマシン・ピストルや、62kgもあったMG08重機関銃を18kgまで軽量化して3名で携帯可能としたMG08/15などが検討されたが、いずれも能力・重量において不適格と判断され、1917年になっても“軽量機関銃”プランは実現していなかった。
攻勢を前にして“軽量機関銃”を実用化する必要に迫られたドイツ帝国軍では、前述のMG08/15をさらに軽量化したMG08/18を製造するとともに、簡易な構造で拳銃弾をフルオート射撃できる銃器を考案した。
これは当時は同種の火器が存在しない全く新しいジャンルの兵器であったが、MG08/18による牽制射撃の援護の下に突撃歩兵が敵陣まで疾走して肉薄すれば、短い射程の拳銃弾でも充分な制圧火力が発揮でき、手榴弾の投擲と合わせれば確実に敵の機関銃を制圧できる事が想定された。また同時に、単純な構造であれば、攻勢に間に合うだけの短期間で製造できる事が期待された。
開発
ドイツ軍からこの新型銃器のコンセプトを打診されたベルクマン武器製造社では、テンプレート:仮リンクとテンプレート:仮リンク(ヒューゴ・シュマイザーの父)及びオットー・ブラウスベッターなどの技師が協力して設計に当った。こうして開発された新型銃器は、翌1918年に採用されてMashinenpistole 18、すなわち18年型機関短銃と命名された。ここで用いられた機関短銃(Mashinenpistole、MP)なる名称は、ドイツにおいて同種の火器の分類(拳銃弾を用いる小型機関銃)を指す語となり、以後ドイツで開発された短機関銃はすべて「Mashinenpistole」(マシーネンピストーレ)の名を冠している。
MP18は小銃同様の木製銃床を備えており、銃身には全体を覆う放熱筒が取り付けられていた。この放熱筒後方にボルトとリコイル・スプリングを収納する機関部が設置されている。
作動方式はシンプル・ブローバック方式で、当初から短距離での使用が想定されていたため、長距離での命中精度は度外視、オープン・ボルト状態からの射撃でフルオートのみという後の短機関銃のコンセプトを全て実現したデザインとなっている。なお本銃は発射速度が350-450発/分と比較的低く、引金の引き方次第でバースト射撃やセミオート射撃も容易であった。
シュマイザーが担当した当初設計では専用のボックス・マガジンを使用する予定だったが、既に多数の在庫を有した砲兵用ルガーP08ピストルと共通の32連スネイル・マガジンを使用する事が要求され、これに合わせてマガジン挿入口は傾斜したものに変更された。32連スネイル・マガジンは装填に時間がかかる点が欠点であり、また従来の据付式機関銃の設計を踏襲した左側面にマガジンを装填して給弾する方式も銃のバランスを悪くしたが、当時の機関銃に比べれば格段に軽量、当時の小銃や拳銃に比べれば格段に高火力であり、ほぼドイツ軍が求めていた要求を満たしたものだった。
実戦での使用
1918年3月21日、カイザー・シュラハト(Kaiserschlacht、皇帝の戦い)と呼ばれるドイツ軍の春季大攻勢が開始された。
この攻勢で連合国が受けた損害は甚大なものであり、5,000挺のMP18を装備した突撃歩兵の活躍で連合軍の塹壕線を突破する事に成功したドイツ軍はわずか8日で65kmも前進し、パリを巨大列車砲「パリ砲」の射程内に収めた。砲撃を受けたパリは相当な被害を被り、ドイツ国内は戦勝祝賀ムードに包まれたほどだった。
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MP18を持つ突撃歩兵: 1918年春 北フランスにて
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突撃歩兵が突破した英軍の塹壕
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1919年のベルリン市街戦に出動したドイツ軍憲兵とMP18
しかし兵力不足と徒歩行軍主体の歩兵の機動力不足から攻勢は6月までに頓挫する。ドイツ軍の戦略目標だった早期の決着は実現できず、210万もの米軍が加わった連合国との兵力差は挽回できないままドイツ帝国はその国力を使い果たしてしまった。
7月に始まった連合軍の反撃を受けてドイツ軍は後退をはじめ、軍内でも反乱が起きはじめた。ロシア革命の飛び火による共産革命を恐れた軍と左派勢力が妥協した結果、11月にはドイツ革命の元にドイツ帝国自体が崩壊、新たに樹立されたヴァイマル共和国が連合国との休戦協定を締結。これにより第一次世界大戦は終結した。
戦後
敗戦の結果ヴェルサイユ条約によってドイツは軍備を厳しく制限され、航空機や戦車のみならず9mmパラベラム弾を使用する短機関銃や拳銃までが製造・配備を禁止された。
敗戦までに10,000挺ほど製造されてドイツ軍に装備されていたMP18は全て連合軍に接収され、そのうちの一部が治安維持用に警察組織へ支給された。しかし、1920年代初頭までMP18の製造が秘密裏に継続されていた事が現存するMP18の製造番号から判明しており、最終的に35,000挺以上が製造されたものと考えられている。
条約に違反してまで製造されたMP18の多くは、元軍人らが組織したフライコール勢力に供給された。多くのフライコールはドイツの共産化を防ぐべく、左派民兵との市街戦を繰り返したが、ここでもMP18は使用されていた。
また、この時期に世界各地で発生していた紛争でMP18が使用されていた事が知られており、南米のチャコ戦争や活発化していたアイルランド独立戦争にも登場している。なかでも、マイケル・コリンズ配下のアイルランド共和軍(IRA)では、血の日曜日事件などで知られる英国要人暗殺作戦などを実行した十二使徒部隊が、連合国の一部から横流し[4]されたMP18を多用していた事で知られている。
1920年にSIG社がMP18を改良したSIG Bergmann 1920(7.65mmパラベラム弾、9mmパラベラム弾、7.63mmモーゼル弾仕様があった)をライセンス生産したほか、第二共和政下のスペインにおいても製造されている。SIG Bergmann 1920は日本にも輸出されている。
1927年にはテンプレート:仮リンク社のテンプレート:仮リンク技師(後にEMP35、MP38/MP40を開発する)によって、MP18を7.63mmモーゼル弾仕様にし[5]、マガジン挿入口を下方に変更して32連ボックス・マガジンを使用する製品が旧ドイツ領の青島鉄工廠において製造され、上海公安局(警察)に採用されている[6]。
1935年、ドイツにおける主要な権力を掌握したアドルフ・ヒトラー総統はドイツ再軍備宣言を行った。これによりドイツ軍はドイツ国防軍(Wehrmacht)として再建され、MP18の改良型であるMP28も制式兵器として採用された。その後、国防軍から遠征軍や軍事顧問が派遣されていたスペイン内戦や第二次上海事変ではMP28の実戦投入が行われている。
日本においては、1931年(昭和6年)頃から海軍がMP18を輸入[7]して陸戦隊に配備[8]しており、日本で採用された最初の短機関銃となっている。海軍が採用したMP18はベ式機関短銃やベ式などといった通称で呼ばれ、第一次上海事変でテンプレート:仮リンクと青幇の部隊を相手にした市街戦で実戦使用された際の写真が残されている。
1936年(昭和11年)には陸軍も採用の可否を審査していた記録が残されている[9]ほか、国産の短機関銃(機関短銃)が試作された際にはMP18が参考とされ、完成形となった一〇〇式機関短銃にも大きな影響を与えている[10]。
第二次世界大戦時には、より設計の優れたMP38/MP40の登場によって予備兵器に格下げとなったが、武装親衛隊などが使用し続けた他、大戦末期には銃器不足の国民突撃隊などへ支給された。
なお、短機関銃の導入でドイツに後れをとった英国は、1941年にMP18をコピーしたランチェスター短機関銃を採用しており、これは後にステン短機関銃やスターリングへと発展している。また、日本軍の蘭印占領時には投降したオランダ植民地軍に配備されていたMP18が多数接収され、同様に多数鹵獲されたルガー拳銃とともに日本陸軍憲兵隊の準制式兵器として使用されていたが、そのうちの一丁が復員時に密かに持ち帰られて40年近く経ってから日本の民家の屋根裏から発見されるという事件があった事でも知られている。
脚注
参考文献
- Gotz, Hans Dieter, German Military Rifles and Machine Pistols, 1871-1945, Schiffer Publishing, Ltd. West Chester, Pennsylvania, 1990. テンプレート:OCLC
- Smith, W.H.B, Small arms of the world : the basic manual of military small arms, Harrisburg, Pa. : Stackpole Books, 1955. テンプレート:OCLC
- Günter Wollert; Reiner Lidschun; Wilfried Kopenhagen, Illustrierte Enzyklopädie der Schützenwaffen aus aller Welt : Schützenwaffen heute (1945-1985), Berlin : Militärverlag der Deutschen Demokratischen Republik, 1988. テンプレート:OCLC
- CLINTON EZELL, EDWARD Small arms of the world,Eleventh Edition,Arms & Armour Press, London, 1977
- Deutsches Waffen Journal
- Visier
- Schweizer Waffen Magazin
- Internationales Waffen Magazin
- Cibles
- AMI
- Gazette des Armes
- Action Guns
- Guns & Ammo
- American Handgunner
- SWAT Magazine
- Diana Armi
- Armi & Tiro