馬原孝浩
テンプレート:Infobox baseball player 馬原 孝浩(まはら たかひろ、1981年12月8日 - )は、オリックス・バファローズに所属するプロ野球選手(投手)。
目次
経歴
プロ入り前
熊本県熊本市出身。小学校時代には、熊本市の選抜チームのエースとして同市の姉妹都市であるサンアントニオ市(アメリカ合衆国テキサス州)の選抜チームと試合をした経験がある。熊本市水前寺野球場で行われた県大会の決勝戦にて、当時男子に交じって少年野球をやっていた元プロゴルファーの古閑美保にライトオーバーの本塁打を打たれたことがあり、馬原自身も当時のことを鮮明に覚えていると『ジャンクSPORTS』などで語っている。
九州共立大学では1学年年上の新垣渚と共にエースとして活躍。大学通算30勝5敗の成績を残す。日米大学野球選手権大会(2002年、2003年)、世界大学野球選手権大会(第1回:2002年イタリアで開催、日本は銅メダル獲得)の代表にも選ばれ、2003年のドラフト自由獲得枠で福岡ダイエーホークスに入団。プロ入り前に、大学は、中退をするつもりであるという趣旨の発言をスポーツ記者にしている。
ダイエー・ソフトバンク時代
1年目の2004年は新人王有力候補と期待され開幕一軍入りし、開幕4戦目の対西武戦で初先発初勝利を挙げたが、その後は体調を崩しわずか3勝。フレッシュオールスターゲームでは敗戦投手になった。テンプレート:Byには開幕3戦目で初完投勝利を挙げたが、その後3連敗して二軍落ち。しかし交流戦からリリーフとして一軍に復帰すると、三瀬幸司の不調により抑えに定着した。6月以降だけでリーグ2位タイの22セーブを記録し、王貞治監督に翌年のクローザーに指名された。
テンプレート:Byは石井弘寿の故障のため、2次リーグから2006 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表に選出されたが、代表に選出された選手では久保田智之とともに出場機会がなかった。シーズンでは初めて年間通して抑えを務め、防御率1.65で29セーブの数字を残した。8月23日の対オリックス戦では自己最速の156km/hを計測。被本塁打は9月2日の対楽天戦でホセ・フェルナンデスに打たれた1本のみだった。シーズンオフには日米野球の抑え投手部門にファン投票1位で選出され、第2戦、第5戦に登板し計3イニングを無失点。第5戦では4試合で4本塁打していたライアン・ハワードに全球ストレートで勝負し、空振り三振に仕留めた。
テンプレート:Byは前半から好調で、オールスター以前の自責点は2で防御率0点台の快投を見せた。オールスターゲームでは前年に続き敗戦投手となった。後半疲れからか3敗を喫したが、2年連続の防御率1点台に球団記録となるシーズン38セーブを記録し、初の最多セーブ投手のタイトルを獲得。またその活躍により「2007 ヤナセ・福岡ソフトバンクホークス MVP賞」を受賞。メルセデスベンツA200 TURBO AVANTGARDEが贈られた。ほっともっとフィールド神戸が苦手であるとされ、2007年は5度の登板で3度セーブに失敗。またシーズン14失点のうち7点を同球場で失っている。2007年に元テレビ西日本のアナウンサーであった畑野優理子と結婚(入籍12月3日、挙式12月16日)。両者の間には2009年12月28日に女児、2012年5月9日に男児が誕生している。
テンプレート:By開幕直前に右肩炎症を発症し長期離脱。7月25日に一軍登録され、翌26日の対ロッテ戦でシーズン初セーブ。10月6日の対楽天戦で、日本人選手では最速となる178試合目での通算100セーブを達成した。
テンプレート:Byは第2回WBC日本代表に選出され5試合に登板した。5月25日の対ヤクルト戦でシーズン中での自己最速となる157km/hを計測し、7月21日の対楽天戦では球団新記録となる通算118セーブを達成。リーグ2位となる29セーブを記録した。
テンプレート:By7月28日、対楽天戦において登板267試合目で日本人最速で通算150セーブを達成した[1]。シーズンでは前年と同数の53に登板し、リーグ2位の32セーブ、防御率1.63、被本塁打は1本に抑えた。
テンプレート:Byは、キャンプの時期から病気の母親の看病と並行していたが、母親は癌性髄膜炎の為開幕直前の4月10日に他界した。このため開幕戦に帯同しなかった[2]。帯同後は抑えとして登板するも、4月23日までにセーブ失敗を2度記録するなど登板した全試合で失点を喫した。結局、5試合で1勝1敗(1勝はセーブがつく場面で登板して追いつかれ、その裏にサヨナラ勝ちしたためについたもの)、防御率13.50と不振を極め、1セーブも挙げられないまま4月24日に二軍降格となった。二軍での再調整を経て5月23日に一軍登録されると、25日の対巨人戦で1点リードの最終回に登板し、3者凡退で抑えシーズン初セーブを記録した。しかし7月18日の登板後に右肩の違和感を訴えて、翌日に右肩関節の大円筋付着部の筋挫傷と判明して登録抹消。出場予定だったオールスター戦も辞退した。9月11日に1軍復帰した。クライマックスシリーズ・日本シリーズでも抑えの役割として登板するも、日本シリーズ1・2戦共に延長戦で決勝打を打たれて2試合連続で敗戦投手となった。
テンプレート:By2月28日に右肩を手術し、復帰予定は6ヶ月後となる見込み[3]とされたが、結局この年は1度もブルペンにも立つ事ができず、一・二軍共に登板なしに終わった。テンプレート:By1月12日、寺原隼人のFA移籍に伴う人的補償で、オリックスに移籍する事がソフトバンク、オリックス両球団から発表された[4][5]。球団フロントは馬原が右肩の故障明けで年俸が1億3500万と高額だったことや、同年FA権を取得することもあり、28人のプロテクト枠から除外していた。しかし、ホークスで監督代理を務めたこともある新任の森脇浩司監督は迷わず馬原を選択。寺原のホークス復帰を最も喜んでいた[6]ため皮肉な結果となったが、寺原には「全然気にしなくていい」と伝えた。
オリックス時代
テンプレート:Byは抑え候補として期待されるが3月5日、ヤクルトとのオープン戦で右腕の脱力感を訴えて降板。神戸市内の病院で精密検査を受けた結果、右鎖骨下の「腕神経叢の炎症」と診断される。手術で開幕一軍は絶望的となった。結局ほぼシーズンを怪我の治療に費やすこととなった。シーズン終盤には復帰し、9月28日の日本ハム戦に711日ぶりの登板を果たし、1回を無失点に抑えるなど計3試合に登板した。
プレースタイル
スリークォーターから最速158km/h(2009年WBCで計測、レギュラーシーズンでの最速は157km/h)で2010年には両リーグの日本人投手トップの平均球速150.2km/hをマークした速球と[7]、最速で142km/hをマークする落差の大きなフォーク(厳密に言えばスプリット[8])、カットボールを武器とする。変化球は他にもカーブや2種類のスライダーも投球割合の数パーセントを占める。先発時代にはチェンジアップも用いていた。
人物
趣味は釣り、買い物。またキャンプでは本を数冊持参するなど読書家でもある。
国立療養所菊池恵楓園(国立ハンセン病療養所、熊本県合志市)を入団以来毎年訪問し、交流を続けている。入団壮行会の激励金の一部を同園に寄付し、園内グラウンドでトレーニングをした。
ダイエー・ソフトバンク時代のチームメイトで数少ない同学年の川﨑宗則とは、「まーくん」「ムネ」と呼ぶ間柄で、独身時代は寮の部屋を行き来したり、運転の得意でない川崎の代わりに車庫入れを手伝わされていた[9]。
詳細情報
年度別投手成績
テンプレート:By2 | ダイエー ソフトバンク |
11 | 8 | 0 | 0 | 0 | 3 | 3 | 0 | -- | .500 | 238 | 50.0 | 66 | 7 | 22 | 0 | 4 | 37 | 2 | 0 | 36 | 35 | 6.30 | 1.76 |
テンプレート:By2 | 42 | 6 | 1 | 0 | 0 | 6 | 6 | 22 | 2 | .500 | 332 | 76.0 | 70 | 4 | 33 | 3 | 4 | 68 | 3 | 0 | 31 | 26 | 3.08 | 1.36 | |
テンプレート:By2 | 51 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 4 | 29 | 1 | .000 | 223 | 54.2 | 47 | 1 | 14 | 8 | 0 | 62 | 3 | 1 | 13 | 10 | 1.65 | 1.12 | |
テンプレート:By2 | 54 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 4 | 38 | 1 | .333 | 271 | 67.1 | 50 | 4 | 18 | 5 | 2 | 68 | 3 | 0 | 14 | 11 | 1.47 | 1.01 | |
テンプレート:By2 | 21 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 11 | 2 | .000 | 80 | 19.1 | 14 | 1 | 6 | 0 | 0 | 23 | 3 | 0 | 6 | 6 | 2.79 | 1.03 | |
テンプレート:By2 | 53 | 0 | 0 | 0 | 0 | 4 | 3 | 29 | 4 | .571 | 253 | 58.1 | 58 | 5 | 19 | 0 | 2 | 67 | 5 | 0 | 21 | 14 | 2.16 | 1.32 | |
テンプレート:By2 | 53 | 0 | 0 | 0 | 0 | 5 | 2 | 32 | 2 | .714 | 246 | 60.2 | 54 | 1 | 12 | 0 | 1 | 49 | 3 | 0 | 12 | 11 | 1.63 | 1.09 | |
テンプレート:By2 | 33 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 2 | 19 | 2 | .333 | 133 | 32.1 | 29 | 2 | 8 | 1 | 0 | 33 | 1 | 0 | 11 | 11 | 3.06 | 1.15 | |
テンプレート:By2 | オリックス | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | ---- | 10 | 3.0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0.00 | 0.33 |
通算:9年 | 321 | 14 | 1 | 0 | 0 | 21 | 26 | 180 | 15 | .447 | 1786 | 421.2 | 388 | 25 | 133 | 17 | 13 | 411 | 23 | 1 | 144 | 124 | 2.65 | 1.24 |
---|
- 2013年度シーズン終了時
- 各年度の太字はリーグ最高
- ダイエー(福岡ダイエーホークス)は、2005年にソフトバンク(福岡ソフトバンクホークス)に球団名を変更
タイトル
- 最多セーブ投手:1回 (2007年)
表彰
- JA全農Go・Go賞:3回 (救援賞:2005年6月、2006年6月、2009年6月)
- 熊本県スポーツ優秀大賞特別賞 (2006年)
記録
- 投手記録
- 初登板・初先発・初勝利:2004年3月30日、対西武ライオンズ2回戦(福岡ドーム)、8回2失点
- 初奪三振:同上、2回表に後藤武敏から空振り三振
- 初完投:2005年4月3日、対千葉ロッテマリーンズ3回戦(千葉マリンスタジアム)、8回5失点(自責点3)で敗戦投手
- 初セーブ:2005年6月4日、対読売ジャイアンツ5回戦(東京ドーム)、8回裏1死に2番手で救援登板・完了、1回2/3を無失点
- 初ホールド:2005年6月5日、対読売ジャイアンツ6回戦(東京ドーム)、7回裏1死に3番手で救援登板、1回2/3を無失点
- 100セーブ:2008年10月6日、対東北楽天ゴールデンイーグルス23回戦(クリネックススタジアム宮城)、9回裏に2番手で救援登板・完了、1回無失点 ※史上22人目
- 150セーブ:2010年7月28日、対東北楽天ゴールデンイーグルス15回戦(福岡Yahoo! JAPANドーム)、9回表に5番手で救援登板・完了、1回無失点 ※史上9人目
- 打撃記録
- その他記録
- オールスターゲーム出場:3回 (2006年、2007年、2010年)
背番号
- 14 (2004年 - 2012年)
- 20 (2013年 - )
登場曲
- 「We Will Rock You」- Queen
- 「HORSESHOES AND HANDGRENADES 」- Green Day (2014年-)
脚註
関連項目
外部リンク
テンプレート:オリックス・バファローズ テンプレート:パシフィック・リーグ最多セーブ投手 テンプレート:Navboxes
テンプレート:福岡ダイエーホークス2003年ドラフト指名選手- ↑ 全体ではマーク・クルーンの250試合に次ぐ歴代2位。
- ↑ 秋山ホークス今こそひとつ 馬原のために勝つ 12日セパ開幕西日本新聞 2011年4月12日。
- ↑ 福岡ソフトバンクホークス『週刊ベースボール』2012年3月19日号、ベースボール・マガジン社、2012年、雑誌20443-3/19, 36頁
- ↑ 移籍についてのお知らせソフトバンク球団公式サイト
- ↑ 馬原孝浩選手 獲得のお知らせオリックス球団公式サイト
- ↑ 『Sports Graphic Number』 2013年2月7日号
- ↑ テンプレート:Cite book
- ↑ 週刊ベースボール 2010年6月14日号、ベースボール・マガジン社、雑誌20442-6/14、19項。
- ↑ 川﨑&馬原トークショー「ALL THAT'S HAWKS」