都並敏史
テンプレート:存命人物の出典明記 テンプレート:注意 テンプレート:サッカー選手 都並 敏史(つなみ さとし、1961年8月14日 - )は、日本の元サッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはディフェンダー(左サイドバック)。1980年代から90年代初頭を代表する名プレーヤー。彼を題材にしたノンフィクション作品(関連書籍参照)から、「狂気の左サイドバック」と呼ばれる。少年時代からの愛称は「びんじ」。東京都世田谷区出身。都立深沢高校卒。兄はトランペッター/音楽評論家で元ビブラストーンの都並清史。
目次
略歴
選手時代
10歳の頃よりサッカーを始め、小学6年生から読売サッカークラブの下部組織で育ち(戸塚哲也は同期生)、東京都立深沢高等学校卒業後トップチームに昇格する。Jリーグ設立に伴いヴェルディ川崎(現・東京ヴェルディ)と改称した1990年代中盤まで、一貫して生え抜きとしてプレーを続けた。
ポジションはトップチーム昇格後にリベロから左サイドバックへ転向。当時守備中心だった日本のサイドバックにおいて、攻守のバランス感覚に優れた選手として台頭し、機を見たオーバーラップからのセンタリングや両足スライディングタックルを武器とした。読売クラブでは兄貴分と慕うラモス瑠偉や後輩の三浦知良と左サイドを構築し、明るいムードメーカーとしてもクラブ黄金期を支えた。
日本代表は19歳でA代表に初選出され、1980年のW杯スペイン大会アジア・オセアニア予選でデビュー。横山謙三監督時代に一時外れるが、1992年のハンス・オフト監督就任にともない復帰。同年のダイナスティカップやアジアカップ優勝に貢献した。しかし、1993年5月22日に行われたJリーグ第3節のサンフレッチェ広島戦でダニエル・カリッチマンと接触した際に左足首を負傷。チームの選手事情により強行出場を続けた[1]結果、7月18日に左足首の亀裂骨折が判明した。
同年10月のアメリカW杯アジア最終予選メンバーには選出されたものの[2]、試合出場は不可能な状態だった[3]。都並は骨折箇所にボルトを埋め込み、痛み止めの注射を打つことで通常の練習メニューをこなしたが[4]、最終予選での出場機会はなかった[5]。選手生命を絶たれる恐れもあったが、当時は日本代表への思い入れだけでリスクなど全く考慮に無く、「あの時は、狂っていたのかも知れない」と後に回想している。オフト監督は左サイドバックの代役として三浦泰年、勝矢寿延、江尻篤彦(練習試合のみ)を起用したが、日本代表は惜しくもW杯出場権を逃した(ドーハの悲劇)。帰国後に手術を受けた足首の状態はひどく、翌1994年6月11日のサテライトリーグ出場までリハビリを続けた(Jリーグスタメン復帰は8月17日のジュビロ磐田戦)。
1995年には加茂周監督により代表に選出され、1995年2月のダイナスティカップ韓国戦が最後の出場試合となった。都並自身、何度も対戦を繰り広げた韓国代表に対する思い入れは深く、対韓国戦が実質的な代表引退試合になったことについて満足の意を示している。
1996年に長年在籍したヴェルディを離れ、アビスパ福岡へ移籍。1997年にベルマーレ平塚(現・湘南ベルマーレ)へ移籍し、1998年限りで現役を引退した。現役中は自分のプレースタイルに絶対的な自信を持っていたが、ガンバ大阪戦でユース上がりの稲本潤一にタックルを仕掛けて逆に吹っ飛ばされ、「これからはこんな奴が、どんどんJに入ってくる」と限界を自覚し、引退を決意した。
指導者時代
引退後はサッカー解説者、ヴェルディの下部組織巡回コーチ、ユース監督を歴任。2004年にS級指導者資格取得。
2005年、J2のベガルタ仙台監督に就任。初めてJリーグクラブのトップチームの監督を務める。前半は一時11位(12チーム中)にまで後退するなど、大きく出遅れる。後半戦に入ると勝ち星を重ねて行き上位陣を猛追するも、リーグで最終戦で引き分け、4位に終わり、入れ替え戦に出場を果たすことが出来なかった。後半戦の猛追が評価され、周囲からは続投の声も挙がったが、シーズン終了後に解任され、1年でチームを去った。
2006年、J2に降格した古巣・東京ヴェルディ1969のコーチに就任。ラモス瑠偉新監督とともにチームのJ1復帰を目指したがチーム7位とに終わり、J1復帰を果たせなかった。ラモス瑠偉は翌年も監督を続投されたが、都並は1年でコーチを解任された。
2007年は、J2に降格したセレッソ大阪の監督に就任。監督としては2度目、コーチを含めると3度目となるJ1昇格への挑戦だったが、開幕3連敗を喫するなど成績は振るわず、第2クールに入ったばかりの5月に西村昭宏GM、藤川孝幸コーチとともに、自身初のシーズン途中での解任となった。
2008年からは横浜FCの監督に就任。過去3年続けて1年以内に監督やコーチを解任されたことから、3年契約で中長期的にチーム作りに取り組むことを要望し、クラブ側もこれを了承した。しかし、シーズン中盤以降10位前後に停滞。「チーム作りが順調に進んでいない」と判断され、3年を待たずに1年で解任された[6]。
2009年からはスカパー!などでJリーグ中継の解説を務め、ヴェルディサッカースクールコーチとして小学年代の指導にあたっている。
2014年、ヴェルディを退団し、浦安SCのテクニカルディレクターに就任[7]。
所属クラブ
個人成績
テンプレート:サッカー選手国内成績表 top !colspan="4"|日本!!colspan="2"|リーグ戦!!colspan="2"|JSL杯/ナビスコ杯!!colspan="2"|天皇杯!!colspan="2"|期間通算 |- |1980||rowspan=12|読売||rowspan=4|21||rowspan=12|JSL1部||12||2||2||1||3||0||17||3 |- |1981|||18||1||1||0||5||0||24||1 |- |1982|||17||0||1||0||3||0||21||0 |- |1983|||18||0||3||0||3||0||24||0 |- |1984||rowspan=2|2|||18||1||0||0||5||0||23||1 |- |1985|||21||0||4||1||2||0||27||1 |- |1986-87||rowspan=6|6|||19||0||1||0||3||0||23||0 |- |1987-88|||10||0||1||0||4||0||15||0 |- |1988-89|||20||0||3||1||3||0||26||1 |- |1989-90|||10||0||4||0||4||0||18||0 |- |1990-91|||21||1||2||0||2||0||25||1 |- |1991-92|||21||0||5||0||4||1||30||1 |- |1992||rowspan=4|V川崎||-||rowspan=8|J||colspan="2"|-||11||1||3||0||14||1 |- |1993|||-|||5||0||0||0||0||0||5||0 |- |1994|||-|||8||0||0||0||2||1||10||1 |- |1995|||-|||16||0||colspan="2"|-||0||0||16||0 |- |1996||rowspan=2|福岡||-|||21||0||11||0||1||0||33||0 |- |rowspan="2"|1997|||5|||0||0||||||colspan="2"|-|||| |- |rowspan=2|平塚||36|||6||0||0||0||0||0||6||0 |- |1998|||3|||5||0||4||0||0||0||9||0 テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算始61||0||26||1||6||1||93||2 テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算行205||5||27||3||41||1||273||9 テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算終266||5||53||4||47||2||366||11 |} その他の公式戦
- 1984年
- スーパーカップ 1試合0得点
- 1985年
- キリンカップ 5試合0得点
- 1987-88年
- アジアクラブ選手権 5試合0得点
- 1989年
- アジア・アフリカクラブ選手権 2試合0得点
- 1990年
- コニカカップ 8試合0得点
- 1991年
- コニカカップ 4試合0得点
- 1991年
- アジアクラブ選手権 2試合0得点
- 1992年
- ゼロックス・チャンピオンズ・カップ 2試合0得点
- 1995年
- サンワバンクカップ 1試合0得点
- XEROX SUPER CUP 1試合0得点
代表歴
試合数
- 国際Aマッチ 78試合 2得点(1980-1995)
テンプレート:サッカー代表個人成績 |- |1980||3||0 |- |1981||7||0 |- |1982||8||0 |- |1983||10||0 |- |1984||5||0 |- |1985||7||0 |- |1986||5||2 |- |1987||10||0 |- |1988||0||0 |- |1989||0||0 |- |1990||0||0 |- |1991||0||0 |- |1992||10||0 |- |1993||10||0 |- |1994||0||0 |- |1995||3||0 |- !通算 |78||2 |}
得点数
# | 年月日 | 開催地 | 対戦国 | 勝敗 | 試合概要 |
---|---|---|---|---|---|
1 | 1986年9月20日 | 大韓民国、大田 | テンプレート:NPLf | ○ 5-0 | 1986年アジア競技大会 |
2 | 1986年9月28日 | テンプレート:BANf | ○ 4-0 |
指導歴
- 1999年 ヴェルディ川崎 巡回コーチ
- 2001年 ヴェルディユース 監督
- 2001年 東京ヴェルディ1969 コーチ
- 2002年 ヴェルディユース 監督
- 2003年 ヴェルディ 普及育成コーチ
- 2004年 ヴェルディユース 監督
- 2005年 ベガルタ仙台 監督
- 2006年 東京ヴェルディ コーチ
- 2007年-同年5月 セレッソ大阪 監督
- 2008年 横浜FC 監督
監督成績
年度 | 所属 | クラブ | リーグ戦 | カップ戦 | ||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
順位 | 試合 | 勝点 | 勝利 | 引分 | 敗戦 | ナビスコ杯 | 天皇杯 | |||
2005 | J2 | 仙台 | 4位 | 44 | 68 | 19 | 11 | 14 | - | 4回戦敗退 |
2007 | J2 | C大阪 | 9位 | 13 | 15 | 4 | 3 | 6 | - | - |
2008 | J2 | 横浜FC | 10位 | 42 | 50 | 11 | 17 | 14 | - | 4回戦敗退 |
J2通算 | - | 99 | - | 34 | 31 | 34 |
- 2007年は13試合で解任
個人タイトル
- 1998年 - 功労選手賞
関連書籍
脚注
- ↑ 負傷から2週間後の横浜フリューゲルス戦とその3日後の名古屋グランパス戦にフル出場し、横浜フリューゲルス戦ではPK戦にもつれたため120分間プレーした。
- ↑ 都並のメンバー入りは対戦国への情報戦という側面もあり、日本のメディアに対しても実情を明かさなかった。
- ↑ 93年のドーハ。DF勝矢寿延を奮い立たせた「ふたり」とは?1/5 Web Sportiva 2013年10月23日
- ↑ 93年のドーハ。DF勝矢寿延を奮い立たせた「ふたり」とは?4/5 Web Sportiva 2013年10月23日
- ↑ オフトは清雲栄純コーチへ「彼の未来をここで終わらせてはいけない」と述べ、緊急時以外に都並の起用はないと考えていた。
- ↑ 都並自身は2009年のインタビューにおいて、競争させすぎてバランスが取れなかったことが横浜FC監督での失敗であったとコメントしている。[1]
- ↑ 都並敏史氏テクニカルディレクター就任のお知らせ 浦安SC 2014年2月8日